枷の娘ー参 愛情

 うれしいねえ、と浜崎はうなった。


 崇徳院の生い立ちを聞きたい──という八郎の申し出が思いのほか嬉しかったのか、浜崎は教授室の本棚に並べられた史料をごっそり持ってくると、そのうちの何冊かをぱらぱらとめくった。

「崇徳院のなにがそんなに気になったん」

「うーん。なにっていうほど知らへんのですけど、──かわいそうやって思て」


『生を受けたときから、彼は、実の親に恨まれていたんですよ』


 日本史教師のことばが脳裏をよぎった。

 かわいそう、か──と浜崎は深くうなずく。

「たしかに崇徳院は生まれたその時から、実父の鳥羽院に嫌われとってな。それは鳥羽院が崩御するそのときまで、ずっとや。……」


 鳥羽院が、第一子皇子であるはずの崇徳院を、何故そこまで邪険にしたのか。

 はっきりとした文献は、当然のことながら残ってはいない。

 一説には、鳥羽院の皇后である璋子が、崇徳院の生まれる以前より鳥羽院の祖父である白河上皇に寵愛されていたために、鳥羽院は崇徳院のことを白河上皇の子どもだと思っていた──という話もある。

 DNA鑑定などない時代。

 確認の術はないが、それゆえに鳥羽院がそれを信じて疑わなかったとすれば、己の子として愛せなかったというのもうなずける。崇徳院のことを『叔父子』と呼んでいたという話もあるから、どうやら長きにわたりその説が有力となったようである。

 鳥羽院は、死の間際までその態度を貫いた。崇徳院におのれの遺体を見せることを嫌ったのだ。

 もはや、完全なる拒絶であった。


「実の父親のな、臨終の際によ。見舞いに行っても会わせてすらもらえへんのよ。──悔しかったやろな。それほどまでにおれが憎いか、ちゅうて……思うたやろなァ」

 浜崎は『保元物語』をひらく。

「保元の乱だって、崇徳院が望んで起こしたことやない。とにかく──生まれたときから味方のいてへん人やってん」

「そんな、でもそんなん……崇徳さんなんも悪ないやないですか」

「せやで。な、胸くそわるい話やろ」

 と、わずかにわらった。

(…………)

 八郎には理解のできぬ話であった。

 当たり前のごとく愛され育ったゆえか、親は子を愛するものだ──と勝手に信じきっていた。

 そう言うと、浜崎は困った顔で「それは」とボリボリ頭を掻く。

「ヒジョーにむずかしい問題やな。たしかに親が子を育てるのは義務や。けど愛するなんていう義務は──もしかしたらないのかもわからん。人は子ができたら自然と愛せるものやと思いがちやけど、意外と世の中そうでもあらへんで。キミはよほどしあわせなところに生まれて、育ってこられたっちゅうこっちゃ。感謝せえよ」

「でも……」

「それに、この件に関しては鳥羽院の気持ちも考えてみィ。自分の祖父と妻の子どもかもしれへんねんで。自分の叔父貴をかわええと思うて育てられるか? そうとう厳しいで、そんなん。それを『あなたの子です』なんて言われたくらいで、細胞検査も出来ひん時代に信じろいうほうが無理な話やねん」

「そう、言われてまうと──そうかも」

 八郎はぐっとくちびるを噛む。

 だからといって崇徳院が迫害されていいということもないだろう。そんな気持ちがおのれのなかで葛藤している。

「崇徳院が、祟り神として恐れられてるっちゅうのは聞いたことあるか?」

「いや……祟ったんですか?」

「真実はわからんけど、俺はそうは思えへんな」

 と、浜崎が口角をあげた。

「保元の乱のあと、流罪で讃岐へ渡った崇徳院はな。おのれの不遇を嘆けこそすれ、決して都の者どもを呪うなんちゅうことはせえへんかった──と俺はおもう。現に、それはもう熱心に仏法を学んだんや。なぜやとおもう」

「ん、……やることがほかになかったから?」

 八郎は大真面目に言った。

 おもわず吹き出しそうになるのをぐっとこらえる浜崎が「そうくるか」とうなずく。

「それはな、行き場のない葛藤に救いを求めたからや。じぶんが主導した戦に対する後悔と、その戦で死んだ者たちへの供養も願って」

「ああ」


 崇徳院は讃岐にて、『五部大乗経』と言われる五種類の経を写本することに専念した、と言われている。彼の願いは極楽往生ただひとつ。──現世は不遇であったけれど、せめて死後の世界は、という彼なりの夢だったのだろうか。

「でも、けっきょくは都に帰ることもできひんまま讃岐の地で崩御して、……しまいには死後に祟り神と噂を流された。死人にムチ打ちやろ、そんなもん」

 そこまでいうと、浜崎はむっつりと黙り込んでしまった。

(……ひどい話や)

 と、八郎はおもった。

 人の一生には、幸も不幸も必ずついてくるものである。

 けれど、崇徳院の生涯はどうだったのだろう。彼にとって幸と呼べる瞬間が、果たして少しの時でさえもあったのだろうか。

 そんなことを考えると、八郎のなかにこみ上がるものがあった。

 カッと目頭が熱くなって視界がにじむ。

「おれの人生の当たり前を、半分でもあげてやりたいくらいや」

「はははは、やさしいなキミは」

「やさしいんちゃうねん。これが当たり前やねん。でも、おれ……これが当たり前やって思うててんけど、ちゃうねんなって──それはじめて知りました。なんか、自分がとんでもなく能天気に生きてきたんやなって、恥ずかしいくらい……」

「ええことやん。べつにええねん。自分がしあわせで相手が不幸やからって、相手に合わせようと不幸に身を落とすこたァない。キミはキミのまま、ただそれが当たり前とちゃうってことを忘れんでおけば、それでええねん」

「…………」

 いつの間にか、第八研究室には強い西陽が射し込んでいる。

 すっかり時刻は午後五時を迎えようとしていた。

「だいぶ話し込んだな。時間平気か?」

「あ、はいッス! こっちこそとつぜんすみませんした」

「いやいや。近ごろの学生はこうして自発的に質問にくるっちゅうのがないもんで、きょうは楽しかったわ。こちらこそおおきに」

 と浜崎は史料を本棚へと戻してゆく。

 ふいに手に取った『今鏡』。視線を落とした浜崎は「でもな」とおだやかな声色でいった。

「和歌、詠むのは──好きやったみたいやで」

「うた?」

「うん。百人一首にものってる。知ってるか?」

「百人一首!」

 八郎は身を乗り出した。

「それ、どんなうたッスか。意味は!」

「えっ。えーと──たしか『いまはダメでも、いつかきっといっしょになろうと思ってる』みたいな内容ちゃうかったかな。まあ、恋のうたやろな」

「あざっす! すんません、お先にちょっと失礼しますッ」

「お、おお……」

 すさまじい勢いで第八研究室を飛び出した八郎。

 浜崎は、呆気にとられている。

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