枷の娘ー弐 弟

「さがせ、文次郎」

 焦っていた。

 リードを伸ばして、文次郎のゆく先にしたがう。なんとしても彼女を取っつかまえねば、と思っていた。

 柊介は、前髪をくしゃりとかきあげる。

(……刑部雄一)

 さきほど訪ねてきた男の名である。

 柊介が彼の存在を知ったのは、まだ小学生のころだった。


 八郎や柊介が小学六年生のころ、中学生だった環奈はすでにあの家に居候をしていた。

 『従姉』と聞いてはいたが、親戚関係が希薄であった柊介からすればそれがどういうものかいまいち分からず、ふつうの姉弟関係と変わらぬものとも思っていた。

 だから、彼女が中学の三年間をすべてあの家で過ごしていたことに、なんの疑問も抱きはしなかったのだが。


 ──環奈の中学卒業式前日。

 その日の午後、柊介は八郎の家にいた。

 昨年に母親を失った悲しみも、この一年で刑部家にもらったたくさんの思い出に癒されて、この頃はすっかり元気を取り戻した柊介。

 ゴーカートの対戦ゲームをして、お菓子を食べて、……環奈が帰ってきたら、八郎とともに用意した一日早い卒業祝いのプレゼントを贈る──。

 そんな、どこか浮き足立った一日。

 けれどそれは、夕方にかかってきた一本の電話によって変わった。


「──たちは、どれだけ子どもを馬鹿にしたら気が済むんですかッ」


 ゆきの怒声が、家に響いた。

 まだ子犬だった文次郎と遊んでいたふたりは、飛び上がっておどろいた。八郎でさえ彼女がこれほど剣幕に怒る姿は見たことがなかったのだ。

 いったいどうしたんだろう、と八郎は文次郎を抱きすくめて震えている。その傍らで、柊介はじっと電話の声を聞きつづけた。


「……結局、雄一さんもそうなんですか。ええ、ええ。そうでしょうとも。信じた私が馬鹿でした。──もうけっこうです」


 ガチャン、と荒々しく受話器を置くゆき。

 電話口で怒りに肩をふるわせる彼女に、おそるおそる子どもたちが近付いた。

「おかん、どしたん──」

「……あっ。あ、ハチに柊くん。ごめんねびっくりした?」

 とわらって、ゆきはふたりを抱きしめる。そのときはそれ以上なにを聞くでも話すでもなく終わったのだが。


 その日の夜のこと。

 そのまま八郎の家に泊まることになった柊介が、夜中にのどが渇いて起き出した。同じ部屋で寝ていた八郎はぐっすりと寝息を立てている。起こさぬよう、物音を立てずに台所へとむかった柊介の耳に、かすかな話し声が届いたのだった。


「……から、なんやて。ごめんね環奈ちゃん──」

「…………」

「おばさんだけやねんけど、我慢してくれる?」

 

 ソファに座って身を寄り添うふたりの影。

 ゆきと環奈だった。

 環奈はうつむいて、ゆきが何度も何度も謝っている。

(どうしたんやろ)

 と柊介が息をひそめた。

 すると思いのほか元気な声で、環奈がいった。

「はっちゃんママが来てくれるんなら、かんなそれでいいのネ!」

「環奈ちゃん」

「だってだって、赤ちゃん生まれるの、おとーさんそばにいなくちゃ。きっとおかーさん、泣いちゃうから……」

「環奈ちゃん、ごめんね。ごめんね……」

「はっちゃんママなんも悪くないのネ。おめでたいことなのね。かんなダイジョブだよ。うれしいよ」

(…………)


 その日は、けっきょく水を飲めないままふたたび寝床へともどった。

 ふたりが話していたことの真相は、翌日に知ることとなる。


「卒業おめでと」

 朝の洗面所にて、歯を磨く環奈のうしろから柊介が声をかけた。

 んん、と口をゆすぐ彼女は、口元をふいてパッとふりかえる。その眼はすこし赤かった。

「わ、シュウくん。ありがと!」

「きのう──ハチのおかんとなに話してたん。夜にさ」

「夜? あ、うんとね。なんかね、きょうの卒業式、かんなのおとーさんが来られなくなっちゃったって!」

「お父さんって、雄一ってやつやろ。なんで?」

 と聞いた柊介に、環奈はすこしたじろいだ。

「えっと、えっとね。……」


 このとき聞いたことばを、柊介は一生忘れることはないだろう。


「あのね。おかーさんが、────」


 ──。

 ────。

 ワン!

 と文次郎が吠えた。

 柊介は我に返る。いつのまにか、文次郎に連れられて佐保川まで来ていたようだ。みょうに興奮する文次郎の赴くままにあとをついてゆく。

 まもなく、川べりにしゃがみこむふたつの影を見つけた。

 そこにいたのは環奈と、もうひとり──少年。


「ッ環奈!」


 柊介がさけぶ。

 その声に反応して、環奈はパッとこちらを向いた。

 すこし遅れて少年もこちらを見た。その面差しは、なるほどよく似ている。

「あ、シュウくん」

「コイツだれ?」

 少年はギッと柊介をにらみつけた。

 負けじと柊介もその眼をにらみ返す。大人げない対応だとわかってはいたが、売られた喧嘩は買う主義である。少年はすごすごと環奈の背中に隠れた。

「かんなのお友だちなのネ。シュウくんってゆーの」

「ふうん……」

「──環奈、いこう」

 柊介が環奈の手をとる。

 しかしなぜか少年がそれをゆるさなかった。柊介と環奈のつながれた手を引き剥がそうと、両手でつかみかかってきたのだ。

「もう行っちゃうのッ?」

「おまえ親は」

「ママがあそこでパン買うてる」

「ならママんとこ戻れや。俺は環奈に用があんねん、ほら行くぞ」

「あっ、シュウくん──」

「はよ!」

 と柊介は叱咤した。

 そのただならぬ様子に、環奈はしばらく柊介の瞳を見つめていたけれど、ようやく「わかった」と微笑した。

「かんなねーちゃん、またね!」

「ウン。またねコウちゃん」

 環奈はにっこりと手をふった。

 そのまま、彼女を引きずるようにして土手をあがり、すこし進んだところでようやく柊介は手を離す。


 いっしゅんの沈黙。──が、環奈はそれを振り切るように文次郎の前にしゃがみ込む。文次郎の頬から耳にかけてをやさしく撫で、

「お迎え、ありがとネ。もんじも……シュウくんも」

 といってふたたび立ち上がる。

 うふふ、と柊介に笑いかけると、彼は複雑な表情で「うん」とうなずいた。

「さあて帰ろー!」

「待ちィ」

「え?」

 柊介はふたたび環奈の手をとった。

「……もうちょい、遠回りしてこうぜ。文次郎がまだ歩き足りひんってよ」

「────」

 足もとで匂いを嗅ぎまわる文次郎。環奈はそれをひたと見据えて、ふたたびうふふとわらった。

「ウン。そうしよ」

「よっしゃいこうぜ」

 めずらしく柊介が愛想笑いを浮かべている。

 環奈はいっしゅん口をつぐんだが、やがて口角をあげて「あのね」といった。

「ん?」

「さっきの子、おさかべこうたっていうんだって。コウタくん」

「……へえ」

 ふいと目をそらす。

「あのね、あの子たぶんね」


 ──あのね。おかーさんが、


「かんなの弟くんなのネ」


 ────赤ちゃん生むんだって。かんなのおとうと!


「…………」

 ふたたび環奈に目を向け、柊介は絶句した。

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