初恋ー参 人はいさ

 ────。

(十年前?)


 奥から、青年たちが走ってくる。

「どうした刑部くん」

「足でもすべらせたかァ」

 仙石と潮江がひょっこりと環奈の顔を覗く。

 彼らは飯倉にまるで見向きもしない。

「…………」

 おそるおそる環奈に視線を戻すと、彼女は恐ろしく優しい笑みを浮かべていた。

「オッサン、ちゃんとここまで来てたじゃナイ」

「か、カンナちゃん」

「もう落ちないヨ、かんなちゃんと掴んでてあげるから──はやくただいまって言わなくっちゃ」

 環奈の胴をつかむ小町は、青ざめた顔でうつむいた。

 ただいま。

 そうだ、あの梅の木が出迎えてくれている。はやく。

「はやく帰ろう──」

「ウン! いっしょ帰ろ!」

 そして環奈が立ち上がる。

 飯倉はおそるおそるその足で地面に立つ。もう、身体が揺れることはなかった。

 青年たちは不可解な顔で環奈を見つめている。

 その表情の意味を、飯倉はようやく悟った。

 でももうそんなことはどうでもよかった。やっと、やっと帰ってきたのだから。

 一歩すすむ。

 足は震えたが、もう挫くことはない。


 梅の木が、枝葉を広げて出迎える。

 立派に実をつけていつでもそこに立っている。

 実の重さにしなった枝に触れ、飯倉はいった。


「…………ただいま」


 飯倉の瞳から涙があふれた。

 やっと。やっと──。


「おかえりなさい」


 と。

 旅館から顔を覗かせたのは、幾年ぶりに見た女将だった。

 最後に見たときからさらに歳月を経て、だいぶ腰も曲がったようだが、それでも優しい微笑みは昔となんら変わってなどいなかった。

「立派な梅ですね」

 仙石がわらう。

 女将は、にっこりわらって梅の木を見上げた。

「ありがとない。先々代のときからあるでね、この子。十年前の震災でもここは高台だったけ、無事だったんだよ。ほんなもんだでこうしていまも立っとるでよ。ありがたいねェ」

「海がよう見える──ぜんぶ見えてもうて、怖かったでしょう」

 と、潮江が駐車場の車止めを越えてフェンスから身を乗り出した。

 さきほど遊んだ砂浜が遠くに見える。女将はそちらに寄っていく。

「んだんだ。ほんでもここに駆けこんで逃げでくる人もおったでね。みィんな、なんも言えんで──ただ、命があるこどへの感謝と、自然のこわさと」

「やっぱり怖いですか、海」

 タクミはあけすけに言った。

 その頭を仙石がはたいたが、女将は苦笑して「そらね」とうなずく。

「ほんでもやっぱし、海に生がされてるとこもあるでよ。神様ちゅうのはね、救ってくださるし祟りもすんだ。一辺倒にやさしい神様なんぞおりゃせんもんだべ……」

「…………」

 小町は胸の前で手を握り、環奈はじっと唇をむすんだ。

 そしてちらりと梅の木へ視線をうつす。

 飯倉豊の姿は、もうなかった。

 どこに行ったのかと周囲を見回しても、ただそこには静寂が拡がるのみ。

 環奈は大きな声で、

「あれェ。いーくらのオッサンは?」

 といった。

 女将がハッと環奈に目を向ける。

「いいくら? 飯倉さん?」

「ウン。いまここまでいっしょ来たのヨ。でもでも、いなくなっちゃった」

「飯倉さん──」

 そして女将はうつむく。

 仙石が「飯倉さんとは?」と首をかしげた。

「あ、うちの常連さんだで、……十年前のあの日に予約とってたんだども、そのまま来んかったさ」

「…………」

「来てたんヨ、オッサン」

 環奈がいった。からりとした声である。

「え?」

「オッサンすぐそこまで来てたのネ。でも、すんごく揺れてこっから落ちちゃったのサ」

 と、十年前の光景をたったいま見てきたかのような口調で、大きく身振りをつける彼女に、女将や青年たちは目を丸くする。

「足がいたくて、ちょっこしじっとしてたらネ。黒いカーテンがわーって、オッサンかぶしちゃって、そんで、それからこの場所がわかんなくなっちゃって。ずっとずっと迷子だったのネ」

「…………」

「だからここまで連れてきたんヨ。なのにどっか行っちゃった」

 女将が絶句する。

 くい、と廿楽の袖が引っぱられた。ちらと見る。小町が青い顔で左腕の袖をつかんでいる。

 どうした、と顔を寄せると彼女は「こわかった」とつぶやいた。

「顔も、からだも、どろどろ……環奈には、こわいものがないのかしら」

「どろどろ?」

「水に溶けてしまったの、きっと」

「────」

 いったい。

 彼女たちになにが見えていたのか、廿楽には見当もつかない。

 しかし乙女たちが「いた」と言うのなら居たのだろう。そしてそれは津波に呑まれてどろどろに身体が溶けてしまってもなお、帰りたい場所を探しさまよっていたのだろう。

 その事実があることだけで十分だ。

 廿楽は「腹減った」とさけんだ。

「先生はなかにいるんですかァ」

「あ、んだんだ。狭ェとこだで、ゆっくりしてけれ」

「おいタクミ──」

「帰ってきたなら、おかえりと言ってやればもうそれでいいじゃないか!」

 と、わらう。

 袖をつかんでいた小町は目を丸くした。潮江と仙石は苦笑して「それもそうや」とうなずく。

 そして環奈は梅の木を見て、

「また来いよォ」

 と両手をあげた。


 ※

「ええっ」

 白飯をかっこんだ浜崎が、むせた。

「この旅館、閉めてまうんですか!」

「んだ。主人が去年死んじまって──あれから客足もぱったりだもんだで、こりゃあもういい機会かもわがんねと思っでよ」

 と酒を注ぐ女将が答える。

 相当なショックらしい。浜崎は箸を片手に静止している。

「ずーと待っちょったお客さんも、ようやく帰ェってきだみてェだしな。もう心残りもねェがらよ」

「マジすか──」

 仙石と潮江は、ビールの入ったジョッキをぐいと傾けて、しずかに環奈を見た。

 帰ってきたというのはやはり飯倉という男のことだろうか。

 いったい環奈はどこで何を拾い、どのように連れてきたのか──と思案する。

「刑部くん。その飯倉さんって人は、どんな様子やったんや」

「オッサン?」

 どんな様子って、と聞き返す彼女に潮江が答えた。

「恨みつらみとか、苦しそうとかあるやろ」

「えェー」

 と、環奈は箸を止めて眼球を上に向ける。

 思い返していたのは、梅の木に触れる彼の姿。

「嬉しそうだった」

「そう、そうか──」

「だって帰ってきたいところに帰ってこられたんだろ。そりゃあ嬉しいだろ!」

「そんなもんか」

 廿楽の言葉に、潮江は神妙にうなずいた。

 仙石もくっとわらってビールをあおる。

「大丈夫だ、浜崎さん。あんたがまた帰っできてェと思っだらいつでもこらんしょ」

「でも宿やなくなるねんやろ」

「一泊くれェはかまわねえだよ」

 女将さん、と酔いのまわった浜崎はぐっと涙ぐんだ。


 ──その夜。

 環奈は立派な梅の木の前に立っていた。

 しなる枝に手を伸ばしたとき、


『人はいさ 心も知らず ふるさとは

        花ぞむかしの 香に匂ひける』


 と言霊が寄ってきた。


「ずっと待ってたのネ」

 環奈は梅の木に寄り添った。


 おかえり、って。

 言いたかったのね──。


 そして、頬をゆるませてしずかに笑った。



 ※ ※ ※

 ──あなたの方は、さあどうだか。

   心のうちはわかりません。が、

   昔なじみのここは梅の花が

   当時の香りで咲き匂っているね。──


 第十八番 紀貫之

  久しくして常宿へいった際、

  「かく定かになむ宿りはある」と言われ、

  梅の花を折りて、詠める。

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