初恋ー弐 あの日

 ────。

「あーッついたァ!」


 浜崎の常宿『花鳥』を前に、廿楽の声が轟く。

 恐ろしいほどの声量に小町はひっくり返った。浜崎は、こら廿楽、と眉を下げる。

「おまえ声の音量調整せんかい。小町さんびっくりして転げてもたやないか!」

「ええっ、そんなに大きかったかなァ」

 と小町の手をとり小声で「ごめんな」と引っぱり起こしてやる。彼女はいえ、と目を白黒させてちいさくわらった。


 いわき市の海側、久之浜地区の高台部──広く海の見わたせる立地にこの宿は立っている。

 学生時代、東北の地が好きでよく旅行した際に、かならずといっていいほど利用していたこの『花鳥』は、一家が経営するこじんまりとしたちいさな旅館であった。

「やァ、ここの梅の木は相変わらず立派やな」

 この旅館の目玉といっていい。

 前庭に大きく枝葉を広げて、夏には青々とした葉に紛れて生る大ぶりの梅の実が、春には美しく咲きほこる梅の花が、旅行者を仰々と出迎えてくれる。

「よかった──今年もようけ生ったのう」

 と手を伸ばす。

 先生、と仙石が声をあげた。

「お嬢様方が海のほうへ行きたいとおっしゃるんですが、ええですか。夕飯時までに戻りますさかい」

「おういってこい、荷物は部屋に持ってってもらうで」

「おねがいします」

 そして仙石と潮江、廿楽は麗しい乙女たちを護衛するようにそばについて、高台から駆けおりていった。

 浜崎は、ふっと口角をあげる。

「十年ぶりか──会いたかったなァ」

 そして宿の入口に手をかけた。


 ※

 飯倉豊は、海辺を歩く。

 おかしいな──たしかこっちの方だったのだけれど。

 と周囲を見渡してため息をひとつ。

 町の様相が記憶とすっかり変わってしまって、目的地への行き方がわからなくなってしまった。無理もない、あれから十年経っているのだから。


 ザザ、ザ。

 波が静かに寄りくる。


 ザ。


 砂浜にぼうと立って海鳴りを聞いていると、それはやがてノイズとなって飯倉の身体を侵していく。ゾッとして一歩、足を引いた。

 そのときである。


「どーしたの?」


 と、うしろから声をかけられた。

 陽光が照らす白い肌に、さくらんぼのような唇。やさしく弧を描くその瞳に、

 ──天使、か。

 一瞬そんなことを考える。

(いやいや)

 苦笑した。よく見ればただの若い女性である。

「か、環奈」

 うしろから、もうひとりの女性があわててその手を引いた。しかし『カンナ』と呼ばれた女性は「ウン」とわらっている。そしてもう一度飯倉を見ると、

「どしたの、迷子?」

 といって小首をかしげた。

 迷子とは──六十も手前を迎えたおじさんによくいったものだ。飯倉はくすっとわらった。

「いや、じつはそうなんです。行きたいところがあるんですがどうにも……行き方を忘れてしまって。もう年かなァ」

「ふうん、オッサンなんてゆーの?」

「ああ、飯倉だよ。飯倉豊。君はカンナさんっていうのか」

「ウン、かんなは環奈ってゆーの! そんでェ、この子が小町。あっちがきよセンパイと潮江センパイと、タクミくんなのネ」

 といって彼女が指さす先には、砂浜に転げまわる大学生ほどの青年たちがいる。小町と呼ばれた女性はまたなんとも麗しい見目ではあったが、すこし不安げに環奈へ身を寄せている。

 どうも飯倉を警戒しているようだった。

「へえ、みんなおともだちかい」

「ウン。大学のゼミで調査に来たのネ」

「おお、フィールドワークというやつかァ。いいねえ」

「オッサンもしたことある?」

「あるよ。オッサンはこう見えて学者さんでね、この町の郷土史を調べていたのさ。それももう昔の話なんだけどね……」

 飯倉は、そして海の向こうに揺れる水平線を見つめた。


 いっしゅんだけ沈黙がよぎる。

 わはは、と笑って飯倉は頭を掻いた。

「それよりキミたちはなにを研究しているの」

「ウン? かんなはまだ研究してないヨ、してるのはあのきよセンパイなのネ。あんね、小野新町に小町ちゃんの生まれた秘密があんじゃネーかって調べに来たのネ」

「小町ちゃんっていうと」

 飯倉はちらりと身を寄せる小町に目を移してから、

「小野小町のことかね」

 と環奈に視線をもどす。

「そー。オッサン知ってる?」

「ははぁ、そうか──いやそこはあんまり触れてこなかったからなァ。おもしろいことが分かったら教えておくれよ、オッサンも気になるから」

「ウン! きよセンパイにいっといたげる!」

 と環奈がはじけるような笑みを浮かべた矢先、うしろから砂まみれになった潮江が「おーい」と声をかけてきた。

「そろそろ宿に戻ろう。夕飯前に荷物片したいやろ」

「あーい」

 気の抜けたような返事である。それから、

「オッサンお宿はどこなの?」

 と環奈はにっこりと笑って聞いてきた。

「『花鳥』という宿なんだけど、じつはそこへの行き方がわからんでね。きみ、知らないかな」

「カチョー!」

 すると環奈はとつぜん砂浜を駆け出した。

 ひとり取り残された小町が「あっ、あ」とあわてて環奈と飯倉を見比べている。環奈は仙石のもとにいってきたようだが程なくして戻ってきた。

「かんなたちもそこなンだって。オッサンいっしょ行こ!」

「ええっ、こりゃあ本当に天のお導きだったか。いやぁありがたい──ようやくあの場所に帰れるよ」

 飯倉は照れたように瞳を細めて、海から離れようと一歩歩み出す。

 歩きづらい砂浜もどこか足が軽くて、年甲斐もなく浮かれているようだ。

「オッサンのおうちなの?」

「いんやそうじゃないんだけれど。あそこはよく行ってたもんで、行くと必ずただいまァなんて。女将さんも慣れたもんでおかえりィ、なんて返してくれるもんだから……まあ、そうだね。実家のようなものだ」

「わあ素敵。おかえりってすっごくうれしいのネ!」

「ふふふ、そうだろ」


 砂浜から石段をあがると、三人の青年たちが待っていた。

 歩きづらそうにふらふらと覚束ない小町をひょいと持ち上げた青年が「よし帰ろう!」とわらう。彼はたしか『タクミくん』と呼ばれていたか。

 『きよセンパイ』と呼ばれていた青年がこちらを見て「分からへんわな」とつぶやく。

「十年前といまじゃ、面影もなにもあったもんとちゃうやろうし」

 飯倉はうしろを振り返った。

 海が、ザザ、と静かに音を立てている。

 十年──長いような、あっという間のような。六十も間近を迎えれば十年という歳月はまばたきをする間とすら感じられたが、町はめまぐるしく変わっていくもののようだ。

「本当に、すっかり変わってしまって──」

 飯倉は苦笑する。

 うしろで、環奈がさびしそうに「浜崎センセーも迷ってたネ」といった。

 それをうけて前を歩いていた潮江も、ぼんやりと海を眺める。


「もう十年か。……俺たちまだ中学生やったな」


「こんなに海が近いと、ここいらの人たちはこれまでずーっと海と共存していただろうにな」

 タクミは空をあおいだ。

「海がこわくなっちまっただろうなァ」

「…………」

 飯倉の背筋が、冷える。

 彼らはいったいなんの話をしているんだろう。わからない。十年前の話だろう、しかし──。

 それからの道程はみな重苦しい沈黙をまとったまま、高台へ続く道をあがっていく。途中、坂道にへばった小町をタクミがおぶってやる以外は、みな淡々とした足取りで高台の上を目指していった。

 その道を行くうち、飯倉の記憶がよみがえる。

 ああそうだ。

 この高台の上に目印であるあの木が──。


(嗚呼)

 そのとき。

 ぐらりと飯倉の身体が揺れた。

「うわ、なんだ」

 あわてて近くの石塀に手をつく。その前を行っていた環奈がくるりと振り向いて、あわててこちらに駆けてくる。彼女はこの激しい揺れもものともせずに飯倉の肩を掴んだ。

「どしたのッ」

「環奈!」

 小町が、タクミからおりて環奈のもとへ駆けてくる。

 青年たちはこちらを見たまま動かない。

「揺れ、揺れてる……たいへんだ、これは大きい」

 ──地震だ!

 と叫んだ自分の声がひどくかすんだ。

 膝が震えて立っていられない。足に力が入らずに、飯倉はずるっと足を滑らせて坂道の下へ向けて転落しかけた。

 しかしその肩をしっかりと掴んだまま離さない環奈が、飯倉の身体を引っぱりあげる。そのうしろには環奈の身体をおさえる小町の姿もある。


「ちがうヨ」


 凛とした声だった。

「お、おおきい。揺れる、揺れてる!」

「ちがうよオッサン。ちがうの」

「なにが違うんだ! こんなに揺れてる!」

「ちがうのヨ。ちがう、それは」


 十年前のコトなのネ。


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