初恋ー肆 愛子

 嵯峨帝の御世、弘仁六(八一五)年。

「行くぞ篁。用意しなさい」

 ゴキリ、と。

 近ごろよく痛む身体を鳴らして、齢十三を迎えた篁は父岑守みねもりの待つ牛車に乗り込んだ。

 ここから長い長い時をかけて向かうは、陸奥国──。

 どこだよ、それ。

 篁はむくれて牛車の窓から顔を出す。

 ゆったりまったり、ガラガラと、都から離れれば離れるほど景色がすこしずつ変わってゆく。嗚呼──これから未知の国で自分はいったいどうなるのだろう。

 八割の不安と、一割の不満。そして一割の期待を胸に秘めて、彼は牛車の壁に背をもたれた。


 このあたりは七里ヶ沢と呼ばれているという。

 気の遠くなるような時間をかけ、小野親子はここにたどりついた。今日から矢大臣山麓やだいじんさんろくに建てられた館に住むのだ、と父は聡明さがにじみ出た笑みを浮かべる。

 地の利のわるい場所にあるものだ。

 と、篁は十三歳ながらにそう思った。

 すべてがイラつく対象の年ごろということもあって、目に入るものすべてに否定的な気持ちになる。そんな自分にもまた、人知れず腹を立てた。

「からだが痛い──」

 節々がきしむ。

 それすらもイライラして、篁は庭の石を蹴っ飛ばした。

(おお)

 思いのほか遠くに飛んだ。

 柵を越えた草むらにスッと落ちゆく石を、すこし満足げに見つめていたときである。

 キャッ。

 と、草むらから声がした。

(えっ!)

 篁はあわてて柵に駆け寄る。身を乗り出して、背の高い草のなかをおそるおそる覗き込むと、そこからむくりとひとりの女が立ち上がった。

「いったァ」

 後頭部をおさえて、くるりとこちらを向く。

 年のころはおよそ十五歳ほど。化粧っ気はまるでないのに、まったくため息が出るほど美しい娘だった。痛みのせいかすこし瞳が潤んでいる。

「だ、大事ないか」

「……貴方が投げたの?」

「いや──蹴った」

「…………」

 正直に話す篁に、娘はきょとんととぼけた顔をしてから弾けるような笑い声をあげた。

 およそ京の都の女たちがあげることのない、はしたないとすら叱責されるだろう声を立てて盛大に笑ってから、娘は「はー」と涙をぬぐう。

「いえ、ごめんなさい。あまりに見事なくらい私の頭に落ちてきたから──思い出したらおかしくって……アッ。ごめんなさい私、このあたりの郷長の娘、愛子めずらこです。えっと貴方見ない顔だわ。どこのかた?」

「──ここ」

「えっ」

「国司を仰せつかった小野臣岑守が長男、篁」

「…………」

 とたん娘は、みるみる顔を青くして草むらに這いつくばった。

 どうやら着物で着ぶくれしてて見にくいのだが、土下座をしているらしい。

「こ、これはご無礼を──国司さまのご長子とは知らず」

 という彼女に、まて、と篁はあわてた。

「国司を仰せつかったのは父であって私じゃない。ゆえに私はべつにえらくない。ただついてきただけなんだから」

 そう畏まることはない、と篁はふてぶてしい口調で言った。

 不可解な感情ではあったが、どうにもこの娘に畏まられるのはイヤだと思っての発言だった。それには彼女も驚いたようすで目をまんまるく見開いている。

「そうは、いっても」

「とにかく私に気遣いは無用。おまえ、めずらこ──は、さきのようにケタケタと笑うていろ」

 言い捨てて、篁はガサガサと草の根をかき分けて館の方へと駆けて行った。愛子はしばし呆然と立ち尽くしていたが、気位のわりにかわいらしいその言葉に吹き出してまた肩を揺らして笑った。

 ──これが、小野篁とその妻、愛子もとい珍敷御前の出逢いである。


 ※

 さて、浜崎ゼミは。

 朝早くに宿を出立し、車でおよそ一時間弱。

 そこは大滝根山の麓に近く、駅でいえば小野新町駅を最寄りとする、かつて『七里ヶ沢』と呼ばれていた場所である。

 近くの道に路上駐車をし、各々扉を開けて降り立った。

 公の情報だが──と浜崎がわびしい田舎道をぐるりと見渡す。

「小野篁がこの地、陸奥に住まうは十三歳のころやったらしい。父、岑守の転勤にしたがって、ティーン真っ只中のころはこの辺りで過ごした……んやないかと言われてる」

 なるほど、と仙石がカメラを構えた。

「篁よりも岑守の築いた文化や産業、小野六郷とか、出羽国府とか、郷土史を調べた方がおもろいかも分かりませんね」

「まあ陸奥に重点を置くねんやったら、篁に固執しない方が書きやすいやろうな。なにせ篁自身は陸奥国司にすらなっちゃおらんのやさかい。史料なんぞそれこそ伝説に近い伝聞しかないやろ」

 という浜崎に、仙石はちいさくうなった。

 一方でほかの面々はすっかり旅行気分である。

「ウゥーン、風が気持ちい!」

「ちょっと強いくらいやな」

 環奈と潮江がぐいっと伸びをする。

 そんなにいいものか、と小町も車からゆっくりと地面に足をおろした。瞬間、びゅうと吹いた強風にあおられてぐらりとバランスを崩す。

「きゃ」

「おっと」

 と、廿楽が小町の身体を受け止めた。

「だいじょうぶか」

「あっ、ごめんなさい」

「ころんころんとよく転がるなァおまえ。フッと息を吹いただけで吹っ飛んじまいそうだ」

 と廿楽がケタケタわらう。

 彼が言うと、失礼なこともそう聞こえないから不思議なものである。小町は微かに口角をあげた。

 おまけに彼には、三沢事件の際にも助けてもらったこともある。もはやこの現代において、父についで頼れるのはこの男だ──という認識にすら至っていた。

 各々、ふらりと周囲を見てまわる。

 アッと声をあげたのは環奈だ。

「小町ちゃん。大きな碑があるよう!」

「──やだ、こんなに大きく。恥ずかしいわ」

 柵に囲われ、天高く伸びた大きな黒石の碑。

 『小野小町生誕の地』

 と、ものものしく彫られたそれを見上げて、小町は頬をおさえた。環奈がその顔を覗きこむ。

「小町ちゃん、ここで生まれたの?」

「どう……だったかしら。あの霧島山の山なみはおぼえている気もするのだけど」

「きりしまやま?」

 と、小町が指さす山を見た。

 現在では大滝根山と呼ばれるそれも、かつて八世紀ごろは霧島山という名だったそうだ。

 小町は、眉を下げる。

「なにせ、ここは四つでおさらばしたのよ。思い出もなにもあったものじゃないわ」

「あっちゅーまなのネ」

「ええ。だからおたあさまともそれきり──ここが生まれの地と言われても、あまり実感が湧かないのはそのせいね」

 と彼女はあっさりといった。

 えっ、と環奈が目を見開く。

「お母さんと離ればなれだったの?」

「そうよ。おもうさまは小町だけを連れて、京の都に戻ったのだもの。おたあさまは──ここにひとり残されたの」

 ひどい人よね、と小町はほくそ笑む。

 そして遠くの山裾を見つめたきり黙ってしまった。

 環奈も、寂しげに口をつぐんだ。

 すこし重い沈黙がただようふたりの乙女を察したか、ひとしきり写真を撮り終えた仙石が「よし」と明るい声をだす。

「すこしいった先に館跡もあるそうですね」

「おう、行ってみよう」

 浜崎は運転席に乗り込んだ。

 一同がつぎに向かうは、小野篁館跡である。


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