最愛ー伍 プライド
──。
────。
「どいつもこいつも!」
と力哉は肩を怒らせた。
刑部家に戻ったところ、環奈が綾乃を連れ出したとゆきから聞いた。それから一時間ほど、ずっとこの調子なのである。
さく、と踏んだ芝生は柔らかい。
二十九区三列──白地の看板に黒字で書かれた案内板の横を通り、力哉は水場に置かれた桶をふたつ手にとった。
「片手間に人の親の墓参りしてくれるんスね」
「ふ、会うたこともないのにな」
ここは、公営霊園。
柊介の両親が眠る墓がここにある。
春から夏にかけて、この霊園は新緑が美しく、丁寧に手入れされた芝生は転がりたくなるほど気持ちがいい。
環奈に裏切られ、気が立った力哉が「行くぞ」と歩みを進めたのがここだった。
水道から桶に水をためる力哉がちらと柊介を見た。
「ハチから聞いたぞ。三沢が消えたて」
「ああ──え、力哉さん三沢ンこと知ってはるんですか」
「環奈が京都にいてたころ、アイツから連絡もろてん。なんや柊クンをいじめるやつがいてるとかなんとか──ほんで仕事、有給とって奈良に戻ってよ」
整然と並ぶ墓石をひとつ、ふたつと通りすぎ、立派な黒御影の石で建立された洋型墓石の前に腰を下ろす。
「あいつ姿くらましたったくせに、オヤジ狩りでしょっぴかれたやろ。あれ、オレの先輩にリーマン役やってもろてん。うまいこと言うて三沢の前に金ちらつかせて、オヤジ狩りそそのかしたらノコノコついてきよった。まあ、なんぼいうてもまだ中坊やってんな」
ハハハ、と乾いた笑いをあげて、八郎の手から桶をひとつ受け取った。柄杓で水を掬い、墓石にかける。
太陽の熱で温められた石はジュッと音をたてた。
「その現場取り押さえるとき、環奈が──」
「は、アイツも京都から来よったんですか」
「ああ。どうしても三沢に一言いわへんと気が済まんいうて、まあオレといっしょやったら危ないことないから。ええでっていうたら環奈もついてきてん」
「…………」
「アイツのあない怒った顔──オレは初めて見た。三沢の顔バチコーン叩いて、返せ、返せってよ」
「返せ?」
桶につけていた花束の包装を外していた八郎が、顔をあげる。その話は初耳だ。
「柊クンパパ返せェって。ほら、アイツ昔からちっと変なことも言うてたやろ。なんか見えてたンちゃうかなあ──」
「かんちゃんが」
「うん。まあでも、それも今回で終わりやろうさ。きっとな」
力哉はしゃがんだ。
八郎から花を受け取って花立にさす。柊介はだまったまま桶から柄杓で水をひと掬い、花立のなかへ流し込んだ。
そして一同は合掌をする。
墓参りのこの瞬間──人は数多のものと向き合う。
追憶。
故人との語らい。
過去への未練。
愛のぬくもり。
──己との対話。
「…………」
一番に顔をあげたのは柊介だった。
この墓前で、あの日、泣きじゃくった八郎を思い出す。八郎の父母のあたたかい手の熱、友人たちの笑顔、そして一生涯忘れぬだろうあの涙も。──。
(いま、なかなか悪ないで)
安心せえよ。
心のなかでつぶやく。
「おまえに言うたら怒るかなぁと思て、言わへんかってン」
つづいて八郎が顔をあげて立ち上がった。
「しゅう、おれとかんちゃんには手厳しいやろ。変に首突っ込むとすーぐ怒るから」
「なにが手厳しいや、ドアホ」
「まあまあ」
そして、最後まで祈りを込めていた力哉がようやく立ち上がった。
「これで柊のおとんとおかんも、安心したんちゃうか。ようやっと、落ち着いて眠れるってもんや」
「…………ハイ」
「ねえ力哉さん、かんちゃんにおごり損ねたあんみつ、おれらにおごってくださいよ。社会人やろ」
「おねだりのわりに上からやな、ハチ」
「学生にあんみつのひとつ奢れへん大人は、綾乃さん好きちゃうとおもいますよ」
「言うやないけこのクソガキ!」
キャハハ、と八郎が芝生に転がった。
そのあとを追っかけて力哉も同様に転がりだす。暴れまわる足が、ほかの家の墓を傷つけやしないかと気にしながら、柊介はふたたび有沢家の墓前に腰を下ろした。
「いーい天気やなぁ、きょうも──」
のどかだ。
力哉の足が桶を蹴っ飛ばして、周辺に水を撒き散らすそのときまで、柊介はぐっと首を伸ばして青空を眺めていた。
※
『住江の 岸による波 よるさへや
夢の通ひ路 人目よくらむ』
ほうら。
恨み言をいうて待ってるぞ。
おんなふたりに泣かれたんじゃあ、こちらも立つ瀬がないのだ。
……え?
それは、逢うてから考えなさい。
どうせ顔を見たら、きっとぜんぶ吹っ飛んでしまう。
さあ、お行き。
※ ※ ※
──あなたのそばに寄りたいのに、
夢の通い路でさえ、
どうして人目を避けようとして
逢いに来てくれないの。──
第十八番 藤原敏行朝臣
題知らず。
夢ですら想い人と逢えぬ
おんなの心を詠める。
※
──さん。
か細い声で、綾乃は男の名を呼ぶ。
真っ暗闇の夢路は前後左右の感覚もなくて、気が付いたらただひとりそこにいた。心細くてさみしくて、先が見えぬまま足を踏み出すことすら怖くて、綾乃は一歩も進めずにいる。
「──さん」
もういちど、呼んだ。
わかってる。
来ない。これは夢物語、なのだから。
「…………」
綾乃の膝から力が抜けて、その場にへたりこむ。もう、夢から覚めてしまえばいいのに。
気が付けば涙が頬をつたった。
視界が滲んだことすら、この暗闇では気が付かない。綾乃はぐいと涙をぬぐう。
だから、目の前に立つ影にも気が付かなかった。
──なんだよ、しけたツラだな。
「!」
綾乃の瞳からほろりと一筋こぼれた涙を掬う男がひとり。──嗚呼。
「…………」
男は穏やかな笑みを浮かべて、綾乃の髪に触れた。その手つきはひどく優しくて愛しい。
「ほ、ほんと、に……来た」
なんとも色気のない第一声である。
けれど男は嬉しそうに歯を見せた。
──わるかったよ。
と綾乃の頭をおのれの胸元に押し付ける。
そして、あまり時間がないから、ともいった。
「……え?」
彼は、
──お前、はやく腹ァ決めろ。
とやさしく告げた。
綾乃が目を見開く。
彼の言いたいことはわかった。まさしくいま、綾乃が心にくすぶらせる想いのことであろう。が、それは──。
「……さんは、わたしがほかの人といっしょになっても、なんとも思わないの?」
声がふるえた。
いちばん、聞きたくて、けれど聞きたくもなくて聞けなかったこと。
綾乃の瞳から涙がこぼれる。
十年、目の前の男だけを想ってきた。
そのせつない想いはいつしか綾乃のプライドとなって、綾乃を支えてすらいたものだった。
だからなおさら、綾乃は堪えきれずに泣く。
「あなたから、それを言われることが、……どれほどわたしが傷付くことかわかって言ってる?」
──わかってるさ、もちろん。
男は困ったようにわらう。
そしてつづけた。
──しかし考えてみろ。お前は、俺があの頃のままの姿で、お前に会いに来ると思っていたのか。そんなこと出来っこねえことくらい、お前だってわかっていただろ。
「…………」
はらはらと流れる涙をぬぐい、綾乃はこくりと喉をならす。
その頬を両手ではさんだ男はふたたび考えろ、といって顔を近づけた。
──なぜあの男がお前のもとに来た。俺しか好きになれねえハズのお前が、なにゆえあの男に心揺れた。
「…………」
──それが俺だと、なぜおもわない?
男の言葉に、綾乃はハッと息を呑む。
そして情けない顔で彼を見てから、
「……あ、」
とうつむいた。
彼女の思考がまとまるのを、男はじっくりと待っている。
「逢いに、きてくれたの」
──…………。
「わたしが」
ゆっくりと顔をあげる。
「気付かなかった、だけで──」
そして綾乃は彼の頬に触れた。
「…………あなたはずっと、そばにいたの?」
彼は黙ったまま、やさしい笑みを湛えている。
「…………」
その顔が歪んだことで、綾乃はまた自分が涙ぐんでいることに気が付く。
それと同時にハッとした。
彼がぼんやりと薄白く光っている。まるでいまにも消えると言わんばかりに。
「…………さん」
──…………。
「逢いに来てくれて、ありがとう」
──いいさ。
「好き。ずっと好き──あなただけ、ずっと好きだったの。なのに、なのに初めて……この人ならって思っちゃったの」
──ああ。
「でもそれはね、なんかね……あなたのことも、これまであなただけ、好きだった、自分のこともね……裏切ることに、なるんじゃないかって、おもって」
──うん。
「……ごめん、ごめん、なさい──」
しゃくりあげ、頬を涙で濡らす彼女を見つめて、男は切ない顔をした。
そしてゆっくりと彼女を抱きしめる。
──それでいい。いいんだ。
「────」
綾乃は、声をあげて泣いた。
その言葉を最期に、抱擁が消えゆくのを感じる。それでも彼の腕のぬくもりを想って泣きつづけた。
…………。
泣き疲れ、閉じていた瞳をゆっくりと開ける。
眼前に広がる見慣れぬ天井。
「────」
そこは夢路を抜けた、現実の世界だった。
────。
「うまく騙したな」
篁がつぶやいた。
ぼうと立ち尽くす男の背中が、哀調を帯びる。しかし振り向いた顔はすこし困ったような優しい微笑であった。
「長かったなぁ、ここまで」
篁はぺらりと書物をめくる。
「六年越しの仕込みだ。きっと逢えるよ──しかしおどろいた。彼女をほかの男に譲るという選択肢が、君のなかにあったとは」
とおどろいた声をあげる彼に、男は顎をあげてわらった。
「所詮他人の縁などもういらぬ。つぎこそは、永遠に途切れぬ縁を結ぶと決めていた」
──だから、これでいい。
男は、しかし少しだけ物憂いげに瞳を細める。そして篁に深く、深く頭を下げた。
ああ、と篁はわらった。
「その縁が結ばれるよう──私も心から祈ろう」
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