最愛ー陸 願掛け

 ※

 環奈がパチッと目を開けた。

 めずらしく、文次郎がいないのにひとりでスッキリと目が覚めたのだ。

「…………」

 隣の部屋に泊まっているであろう綾乃をおもって、寝巻きのまま部屋を飛び出した。

 しかし部屋はすでに無人だった。

 あわてて階下に駆ける。

 居間。台所。風呂──。

 環奈が不安げに廊下へ進んだときであった。

「おはよう、環奈」

 裏庭から声がした。

 ハッと縁側に駆け寄り、庭を見る。

 文次郎と戯れる綾乃がそこにいた。

「アヤちゃん──おはよう」

「文次郎元気ねー、何歳なの」

「え? えっと、もんじは、たぶん五歳とか──」

「そう、まだまだ元気だねえ」

「アヤちゃん、」

 環奈が珍しい声を出した。まるで迷子の子どものような、そんな心細い声。

 文次郎を撫でる手を止めて、綾乃は屈んでいた身を起こす。そして環奈に向き合うと深く、深く頭を下げた。

「あ、アヤちゃ」

「ありがとう環奈。来てくれたよ。ずっとずっと待ってた人。ちゃんと逢いに来てくれた」

「…………!」

 声にならぬ叫びをあげ、環奈はつっかけも履かずに庭に飛び降りた。そして綾乃の首に飛びつく。

「わははっ。環奈──本当にありがとう。アンタは、不思議な子だね」

「よかった……よかったね、アヤちゃん。ホントにホントによかったねェ!」

「うん」

 綾乃は朗らかにわらった。

 まるで憑き物が落ちたような顔で、空を見上げる。

「空が、青い──」

「アヤちゃん、京都行くの?」

「えっ、あ、うん。それは行こうかな……あそこはやっぱり、大事な場所だから」

「かんなもいっていい?」

「うん、いいよ。いっしょに行こう」

 と微笑する綾乃がとても美しくて、環奈は見惚れた。しかしまもなく響いた「こら環奈ちゃんッ」というゆきの声に飛び上がる。

「裸足でなにやってはるの、サンダルが置いてあるやろ!」

「あ、わわ。ごめんなさーい」

 てへへ、と笑って縁側にピョンと腰かける。足裏についた土をはたき、環奈は「アヤちゃんッ」と満面の笑みを浮かべた。

「文次郎のお散歩いこっ。そんでむっちゃんとこ行くの!」

「近いの?」

「ソなの。いつもそばにいるンだヨ」

「そっか──」

「アヤちゃん」

「うん?」

 環奈は寝巻きのスウェット姿のまま、文次郎にリードをつける。そして綾乃の手をとった。

「これからはりーやが、ずっとずっとそばにいるんだねェ」

「…………そ」

 そういうことになるのか、と綾乃はなぜか額を赤くしてうつむく。今更ながら昨夜の夢の意味を思い知る。

 そして夢のなか、愛しの彼がいった言葉に思いを馳せた。

「……あの人、嘘ついた」

「え?」

「癖なのよ。嘘をつくとき──あの人はわたしの目をじっと覗き込むの。石田くんが俺だ、みたいなこと言ってたけどあれは……」

 そうじゃなかったのかな、と綾乃は穏やかに笑う。

 でももう、それでいい。

 きっと彼はどうにかして夢の外まで逢いに来る。そういう男だ──と綾乃は環奈の手を握り返した。

「石田くん、こんなに待たせて怒ってないかな」

「勝手に待ってたンだから、怒るのはお門違いなのネ」

「はは、環奈ってたまにドライだよね」

 刑部家の門を出て、右にゆく。

 まもなくべらぼうに背の高い男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。高村だ。

「あっ、むっちゃんおはよー!」

「よう」

「高村さん!」

「綾乃さん、よう眠れたか」

 と笑う彼の顔は優しかった。

「ええ──最高の寝覚めでした。ほんとに、ほんとにありがとう」

「そいつはよかった」

 二、三言立ち話をして、高村は「それじゃあ」と手をあげる。どうやら今日は弓道部の部活があるため、学校に行かねばならぬのだとか。

 頑張ってね、とエールを送り、環奈が高村の背中を見送る。

「環奈、ちょっと寄りたいところがあるんだけど──付き合ってくれる?」

「ウン。文次郎ももっと歩きたいって!」

「ふふ、そう? あのね──奈良公園の近くにね……」


 綾乃が向かった先は、例の空き地であった。

 そこにいた先客に環奈がピャッと飛び上がる。──力哉だ。数頭の鹿に囲まれてぼうっと空を見上げていた。

「あ」

 綾乃は、空き地の外で立ち止まる。

 しかし環奈はその背中をぐいと押して「アヤちゃん」とささやいた。

 力哉がんっと顔をあげた。こちらに気が付いたらしく、驚いたように目を見開いている。

「……うん」

「かんな、文次郎とその辺お散歩してくるから!」

「先帰ってていいからね──」

「あい!」

 妙に力を込めてうなずく。そして文次郎を連れてそそくさと退散した。

「アヤさん」

 力哉が声を弾ませて駆けてくる。

 その嬉しそうな顔に、綾乃はなぜか照れた。

「あ、石田くん──おはよ」

「はよっす。まさか朝から会えるとは……なんでここに」

「え? いや……奈良旅行でけっこう思い出深いところなのよ。この空き地」

「…………」

「けっこう前の話なんだけど、大学卒業間近のころにたまたまこの辺りに来たことがあって。そのとき、大事なものを鹿に取られちゃってさ──」

 と苦笑する綾乃を見つめる力哉が、ごくりと喉をならす。覚えているのか──と妙に緊張した。

「どうしよって思ってたら、通りがかりの男の子があっさり取り返してくれたわけ。ほら、鹿って神様の使いって言われてるでしょ。その鹿を簡単に手懐けちゃったもんだから、まさか神様なのかとおもって、びっくりしちゃってね」

「……うん」

「次の日にまた会えたから、神様に願掛けする気持ちで──願い事を書いたお守り渡してさ。あの男の子からしたら迷惑な話だろうけど、勝手にお願い事してたのよね」

 ──会いに来てくれますように。

 綾乃は恥ずかしそうにうつむいて、わらう。

「えっ、それじゃあれは──オレに会いに来てくれって意味とちゃうかったんか?」

「ん、オレ?」

「…………」

 力哉がポケットから巾着袋を取り出した。

 えっそれ、と戸惑う綾乃を横目に、力哉は黙ったまま袋のなかに入った紙を彼女に見せる。

「会いに来てくれますようにて、誰のことなん──」

「えっ、え、や。その……ずっと好きだった人…………いやてかまって、なんでそれ石田くんが!」

「ちょ、ほんま──マジで? オレこれずっと恩人であるオレのことかと思てんけど、嘘やろ。ただの絵馬代わり!?」

「え、──あれ石田くんだったの!?」

 綾乃の耳がカッと赤くなる。

 一瞬、力哉は悩んだ。そうだと言ってしまえば、自分のストーカーのような所業がバレてしまう。いや、しかしもう後にも引けまい。

 開き直って胸を張った。

「そ、…………そーすよ。あの日からアンタに岡惚れして、ずっとずーっと探してようやく見つけて逢いに行って、ほんでもオレの顔見てもまったく無反応やさかいに、もはや恩人のことなんぞ忘れてたんかとばっかり──」

「……だ、だってあんな、八十年代のリーゼントみたいな格好だったのに。いまは全然そんな、そん……分かるわけないでしょ!」

「神様代わりはひでえなぁ。いたいけな専門学生相手にさぁ」

「なにがいたいけよ、あんな百人も人殺したみたいな顔して──」

 と、そこまでいって綾乃ははたと動きを止める。


 ──会いに来てくれますように。


 …………。

 逢いに、来て。


 ──それが俺だと、なぜおもわない?


 夢のなかで聞いた彼の言葉がよぎる。

 そうか。

 そうなのか──。


「ちょっとアヤさん、聞いてますか」

「…………」

「アヤさん?」

「……あは」

 綾乃は泣きそうな顔でくしゃりと笑った。

 ──彼らしい仕掛けだ。

「ちょお、なんで泣い……」

「石田くん」

「へ、へい」

「──逢いに来てくれて、ありがとう」

「…………」

 力哉の身体が硬直する。

 その言葉の意味を、彼は必死に考えている。

「待たせてごめん。わたしもホントは──」

 彼女はちらと力哉を見てから、恥ずかしそうに視線を斜め下へそらした。


「けっこう前からスキだよ」

 

 ────。

 こっちこっち、と環奈が駆ける。

 朝っぱらから呼び出しを食らった柊介と八郎は、眠いからだを引きずってそのあとに続く。

 空き地を遠目から覗いた環奈がみょうな声をあげた。

 何事かとそれに続く柊介もわーお、と無感情につぶやいた。

「なになに見せて! うおッ──」

 と八郎が屈む柊介に体重を乗せて、身を乗り出した。そこには。


 空き地のなか。


 鹿に囲まれて、背後から力いっぱいに綾乃を抱きしめる力哉の姿。

「好き。ホンマに好き。はー。東京帰ったら結婚しよな。大好き」

「はい──もう好きにして」

 そしてその求愛にぐったりと疲れ果てる綾乃の姿があった。


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