光の君ー漆 暴露

 ────。

「涙の数だけ強くなれるよ、アスファルトに咲く花のように」

 一時間ほどしたころである。

 春菜が松子にこそりと声をかけ、ふたりで部屋を出た。なんの話かは分からぬまま、松子はうつむく春菜をみる。

「どしたん?」

「うん……あの、話があって」

「うん」

「──あの、光さんっていてるやん」

「有沢の叔父さんね」

 とうなずいた松子は、部屋の扉の横に背中をついた。春菜はその正面に立っている。

 その顔は曇っていた。すこし深刻な話なのだろうか、と身構える。

「光さんって、退院いつやったっけ」

「今月中やったと思うけど……有沢に聞いた方が早いんちゃうの」

「や、それは無理」

 即答した春菜に、松子は首をかしげた。

「なんで」

「──春菜ね、このまえ光さんのところにひとりで行ったの」

「えっ」

 松子は目を見開いた。

 春菜の首元から耳にかけてが真っ赤に染まっていく。その様子になにかを察した松子が、ハッと手を伸ばしたときである。

 突然、武晴の歌声がひときわ大きく響いた。


「そんとき、光さんにキス──されて」


 部屋の扉が開いていた。

 春菜は顔をあげ、松子はちらりと首を横に向けた。

 そこにいたのは、なんというタイミングだろうか。ドリンクバーを取りに行こうとした柊介である。

「……なんやて?」

 その顔がだんだんと蒼白になっていくのが目に見えて分かる。表情はいつもどおりだが、明らかに動揺している。

「あ」

 春菜の顔は、反比例するようにさらに赤くなっていく。

「おい仲宗根」

「は、」

「ちょお詳しく話聞かせろ」

 と、柊介はぐいと春菜の手を引いて、出口の方へ歩き出した。止める間もなく行ってしまったふたりに、松子は為すすべなく立ちすくむ。

 耳を疑ったが、しかし有沢光のことだ。

 十分やりそうな話である。

「あーァ……」

 初対面のときから、春菜をターゲティングしているとは思っていたが、まさかすでに手まで出されているとは思わなかった。しかし──。

 松子は初めて武晴の歌声が恋しくなり、部屋に戻った。

 もっとも入った瞬間、ふたたび後悔はしたのだが。


「なにしとんかおまえ。言うたろ本気にすんなって!」

 柊介は怒っていた。春菜を壁に追いやって退路を塞いでいる。

「本気にしたんちゃうよ。ちょっと聞きたいことあって」

「聞きたいこと、あいつに?」

 ハッ、と鼻で笑った。

 しかしまもなく目を見開く。

「まさかおまえ」

「な、なによ」

「好きになったとか言わんなや」

「…………」

「────」

 柊介のことばを最後に、一瞬沈黙が生まれる。柊介は頭を抱えた。

「マジかよ──」

「別に好きちゃうし! ……でも光さんは、春菜が知りたいこと教えてくれるから」

「なんやそれ。四宮とかほかの奴に聞いたったらええやんか」

「あの人しか知らんことやの!」

 春菜は声を荒げて、うつむいた。

 柊介の顔が近いというのもあるが、知られてしまったことに対する羞恥心で、彼の目を見ることができなかった。

「まさかとは思うけど、光と付き合うとか言うなよ」

「…………」

「傷つくのお前やぞ、分かっとんのかよ」

「それは分かってるし、春菜が傷つこうがシュウに関係ないやろ」

「……そりゃ、お前は関係ねえけど。光の方は身内なんやし関係ねえとも言えんやろ。あいつの女癖で迷惑被ったこともあるねんで」

「じゃあシュウに迷惑かけへん」

「ま、……マジで言ってんか」

 柊介は横を向き、ぐしゃりと髪をかきあげた。

 まさか同級生が自分の叔父の毒牙にかかるとは。柊介は混乱している。

「あいつ三十六だぜ!」

「別に、付き合うとは言うてへんやろッ」

「……い、や」

 付き合わないとも言ってへんやろ、という言葉は呑み込んだ。なにが彼女をこんなにも強情にさせているのかが分からない。

 柊介は一瞬うつむいて黙ったが、やがて首を振る。

「いややっぱ気まずいわ。自分の同級生の相手が叔父とか、無理」

「せやったら、──」

 春菜は顔をあげた。その瞳には涙が浮かんでいる。

 ぎょっとして柊介は黙った。

「シュウの一番にしてくれるん」

「…………」

 ぽろりと涙がこぼれた。

 その雫のゆくえを目で追った柊介に、春菜は震える声で言った。

「シュウのたいせつな人のなかに、いれてくれるん。そんなん出来もせんくせに口出さんといてや」

「……なんや、その、わけわからんこじつけは」

 柊介は額から汗がにじむのを感じた。内心で(あれっ)と思いはじめている。

「いっつも春菜ばっか好きやった。付き合うとったときやって、シュウいっつもほかの人のこと考えとった」

「……は、いやそもそも俺のことフッたんおまえ──」

「そんなん当たり前やん! 付き合うとっても、なにしとっても……シュウは一度でもこっち見てくれへんかったやんか。一度でも、うちのこと──大切って思うたことあった? なかったやんか!」

「…………」

「あの人、シュウに似てる。性格はちゃうように見えるけどやっぱり似てる──怖いくらい優しいところも、ほんでもぜったい内側にいれてくれへんところも」

 だからキスした。わけではない──が、おそらく柊介の叔父でなければ惹かれなかっただろうとも、今は思う。

 春菜はぽろぽろと涙をこぼして、

「おもえば──好きってことばも、貰うたことなかった」

 と、つぶやいた。

 たまらずに春菜は部屋の方へと駆けていく。

 言い捨てられた柊介は、しばらくその場に立ちすくんだ。

 しかし受付の店員がチラチラとこちらの様子を窺っているので、「クソ」と部屋へ戻る。無性に武晴のふざけた歌声が聞きたかった。

 部屋の前に立つ。

 相変わらずひどい歌声が外に漏れ聞こえている。

 勇気を出して扉を開けると、そこに春菜の姿はなかった。よく見れば鞄もない。

「…………」

「トイレ寄って、帰るて」

 その視線の意図を察したか、松子はぼそりとつぶやいた。

 入れ違いに恵子が退出する。彼女なりになにかを察したのかもしれない。

 松子は胸が痛むなか、武晴の歌を聞いていた。──ずっと聞き続けると耳も慣れるのか、当初よりノイズに感じることはなかった。


 ────。

 春菜は、カラオケ店のトイレにいた。

 あまりに号泣したので、店から出るに出られなくなったのである。

「…………」

 言ってしまった。言うつもりはなかったのに。

 彼の表情を思い出しては、春菜の瞳から涙がこぼれてくる。

 ふらふらと立ち上がる。

 鏡をちらりと見たときだった。

「えっ!」

 一瞬、自分の後ろに着物の袖が見えたような気がした。慌てて振り返るも、何もいない。

「…………」

 ゾッとしてトイレのなかを見回す。が、何もいない。それと見間違えそうなものもとくにはない。

 おそるおそる鏡に視線を戻した。

「うわっ」

 驚いた。自分の顔にである。

 目は赤く染まり、重ねて塗ったマスカラが落ちていた。

「やばい、こっちのが怖い!」

 身体を折って顔を洗う。

 あれだけ止まらなかった涙がいまはぴくりともこぼれないのだから、女もなかなかに図太い生き物である。春菜はひとり笑った。

 しかし問題はこれからである。一体どうすればいいんだろう。

 春菜はそればかり考えている。

 がちゃり、とトイレの扉が開いた。

 入ってきたのは、恵子だった。

「あ」

「…………」

 思わず視線をそらす。あの日から、恵子と目を合わせることが怖かった。

 また図星をつかれてしまうかもしれない、と思えば彼女の言葉は聞きたくなかった。

「素直になったん」

 トイレの扉をガン、と閉める。

「──なった」

「────」

「もういやや、みごと撃沈や……」

 春菜は鏡に映る自分の顔をじっと見つめて、そしてうつむいた。

「すごいやん」

 と、恵子。

 手放しで人を褒めることなどめったにない彼女の言葉に、春菜は鏡から視線を外す。

「良かったね」

「……よかったんかな」

「ええやろ。あの顔を見る限りでは確実に傷痕のこしたったで」

「あは、傷痕って!」

 とわらうと、恵子はすこし気まずそうに「ごめんね」とつぶやいた。

 えっ、と春菜が目を見開く。この猛獣が人に謝罪をするなどめったにあることではない。

「よけいなお節介いうてしもて」

「……ううん。なんかもう──ここまできたらなるようになれ、って感じやね。っはー、むしろちょっとすっきりしたわ。ありがと」

 この件で初めて、春菜が笑う。

 その笑みにつられ、恵子もわずかにはにかんだ。


 しかし、言われた本人は簡単ではない。

 柊介は部屋のなかで、むっつりと黙りこくったまま携帯のフリック操作に怒りを込めて、素早く文字を入力している。

 メールの相手は、もちろん叔父。

 どうして自分の同級生に手を出した、とか、どういうつもりだ、とか。とにかくあらんかぎりの怒りと動揺をメールに込めて、送信した。

 しかし、甥っ子の動揺を知ってか知らずか、当の本人は暢気なものである。

「あ?」

 思わず柊介がひとりで声をあげた。

 メールの返事を見たからだ。入院中で暇なのだろう、すぐに返ってきた。

『お前には関係ないし、お前が言う資格はないと思てるけど』

 明らかに喧嘩を売っている。

 柊介は瞳を燃やした。

「もう二度と仲宗根に会うな」

 とメールに書き込んで携帯を放り投げる。それは見事に八郎の後頭部にぶつかった。

「いってえ!」

「あ、わるい」

「なにすんねん、もお──」

 いいかけた八郎が、目を見開いて扉の外に目を向ける。扉の前を横切った影に気が付いた。

 ──いま、なにか。

(紅梅色の着物?)

 いやまさか。

 頭を掻いて、八郎は柊介の携帯を投げ返した。

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