光の君ー捌 特別な人

 ※

 数日後。

 総合病院外科病棟五階五○五号室の前で、春菜は一度深呼吸した。

 大丈夫だ、もう本人に気持ちを伝えた。いまこの部屋の主につけ入られる隙はないはずだ──と自分に言い聞かせる。

「こんにちは」

 がらりと扉を開けると、立って窓の外を眺める光がいた。

 ギプスこそ嵌めてはいるが、すっかり自立できるようになったらしい。ゆっくりとこちらに目を向けた光は、春菜の顔を見るなり泣きそうな顔を浮かべた。

「春菜ちゃん──来てくれた!」

「は、はい。ちょっといろいろ報告したくて」

「どうぞ座りィ」

 嬉しそうにベッドに戻った光は、さっそくこちらに手を伸ばしたが、さりげなくそれを避ける。

 春菜はうつむいた。

「あの──うち、……ええっと。柊に言うたんです」

「…………」

 光の表情が固まった。

「それで──まだ好きやけど、立ち直りはじめとるところです。その、これも光さんのおかげやと思て、お礼に来ました」

 と持参した袋から取り出した有名店の菓子を光に手渡す。光は呆然とした顔で受け取った。

「……あり、がとう。でも僕はなんも──」

「ううん。素直になれたんは光さんが背中を押してくれはったからです。結果はあれやけど、それはそれで、もうええことなんで」

「あ……」

 言われなくても、光は気付いた。

 彼女の顔がどこかすっきりしていることに。

 部屋に入ってきた彼女は、ここに初めて来たときの表情とはまるで違っていたのだ。

 光はすこしうつむいてから「じゃあ」とつぶやく。

「もう、ここには来いへんの」

「え、ってゆっても光さんかてもうすぐ退院ちゃうんですか」

「僕とは逢わへんってこと?」

「……そ、そら」

「…………」

 光はうつむく。

 そしてそれきり、話さなくなってしまった。

 しかしその姿に同情はしない。春菜は苦笑して椅子から立ち上がった。

「もう会うなて言われてたんですけど──お礼だけは言いたくて。せやから、うち帰ります」

「えっ」

 光は顔をあげた。悲しそうな顔である。

 その手は頼りなさげに宙を漂い、春菜を掴みかけて、やめた。

「……そか」

「光さんにはたくさん女性が寄ってきはるんやから、ええやないですか。うちモテへんから、……とうぶん恋愛はおあずけやし!」

「あずけんくたって目の前にいてるやん」

「や、光さんは──うちの、……思い出の人ですから」

 春菜は照れたように笑う。

「ファーストキスもセカンドキスも、全部光さんなんやもん」

「────」

 光は、もうたまらない。

 春菜の腕を掴んで三度目の口づけをした。

「ちょお!」

「想い出の数って大体三回まで数えるさかい。サードキスも僕やってこと、忘れへんで」

「…………」

 春菜は頬を赤くして、ふたたび笑った。


 ────。

「さよか。ちゃんと言えたんやな──春菜は」

 夢路にて。

 小町から報告をうけた篁は微笑した。

「めずらしくおもうさまが様子見を頼むものですから、どうしたことかと──。あとは柊介さまがどうお答えさるか、ですわね。春菜さんのほうはどうやら、平成版光の君のことすらも吹っ切れていらっしゃるわ」

「そう、みたいやな」

 篁はくすくすと肩を揺らす。その視線の先には、言霊がひとり帰ってきていたからだ。


『音にきく 高師の浜の あだ波は

         かけじや袖の 濡れもこそすれ』


「まあ。うふふ」

 小町もつられてわらう。

「しかしこっちは当分かかるぞ──」

 と篁が別の夢路にチャンネルを切り替えた。そこは、荒波はげしい寒々とした光景の夢である。

 岩に寄せる波に打たれながら、ひとりの言霊が寄ってきた。


『わびぬれば 今はた同じ 難波なる

         身をつくしても 逢はむとぞ思ふ』


 と。

「まあ、なんといじらしいですこと!」

 小町は呆れ、篁もぶっと吹き出した。


 ※

 それから数日後のことである。

 すっかり元気になった春菜の席へ、おもむろに柊介が近づいた。

 横を通りすぎる間際、机を指でノックすると

「仲宗根ちょっと」

 といって教室を出ていく。

 ふっと不安げに眉をひそめる松子に、春菜はにっこりわらって「待ってて」と立ち上がった。


「なーにィ、シュウ」

 廊下の端。

 窓枠に肘をもたれた柊介に、春菜は上機嫌に近づいた。

「…………」

「…………」

「……この前の、カラオケで言うてたことやねんけど」

「──あ、うん。あっ言うの忘れててんけど、光さんにバイバイしたよ。もう会うてないし!」

「それは光から聞いて知っとる」

「あ、そですか」

 と春菜は口をつぐむ。

 沈黙を嫌うように、柊介は「あー」とか「やー」とか無意味なことばを発してから、頭を下げた。

「なんや、すまんやった」

「…………」

「ずいぶん前の話になるけど、お前がそんなん思うてたんも知らんで、──女にあんな風に言わせてしもたんやなと思うと、さすがに。うん……」

 春菜はじっと柊介を見つめたまま、なにも言わずに続きをうながしている。

 気まずそうに前髪をぐしゃりと乱して、柊介が「ほんでもやな」とつぶやいた。

「俺かて、おまえに付き合お言われて──あのころ、なんやあんまし気分乗らん時期やってんけど、ほんでもお前がバカに明るかったから。けっこうあれで……救われた部分もあってん。おまえは大切なうんたらとか言うたけど、俺なりにおまえのこと、けっこう本気で、──大切にしたいと思てたんはマジや」

「…………ウン、そうなんよね」

 と、春菜がいった。

 すこし照れくさそうに、しかし嬉しそうな顔で柊介を見つめている。

「この前もうち言うたやろ。シュウは──怖いくらい優しいとこあるねんから。べつに、適当に遊ばれたて思てるわけやない。あのころシュウがちゃんと本気でうちと向き合うてくれてるんはわかっとった」

「…………」

「けっきょくうちが甲斐性なくて、シュウの懐に飛び込みきらんとこもあって──ひとり駄々こねただけのことやったんよ。ごめんね」

 そして春菜は頭を下げた。

「おおきに。付き合うてくれて、ほんまに嬉しかった。シュウはいつまでもかっこええし、うちにとってはずっとずーっと特別な人や。大人んなっても、新しい彼氏できても……そんくらい、好きやったんやから」

「…………あ」

「せやからこれから先も、ずっと友だちとして引っ付いたるさかいに。つまらん女に引っ掛かったら、ぶっ飛ばしたるで!」

「ふ」

 柊介は眉をひそめて口角をあげた。

 そうそうこの笑顔──と春菜はつられて微笑む。

「重いやっちゃ」

「なにをー!」


 こうして、平成の光源氏を含む春菜の恋騒動は終わりを告げた。

 廊下の死角でそれを見ていた高村と松子は、ホッと同時に肩の力を抜くのだった。



※ ※ ※

 ──噂に名高い高師浜のさわぐ波のように、

   有名な浮気者のあなたを

   心掛けることはいたしません。

   涙で袖を濡らしたくはないですから。──


 第七十二番 祐子内親王家紀伊

  堀河院御時内裏艶書歌合だいりけそうぶみうたあわせにて、

  藤原俊忠の歌の返歌として

  詠める。


※ ※ ※

 ──これほど恋に悩んだのだ、

   今はどうなっても同じこと。

   難波の海にある澪標のように

   この身滅びても、あなたに会いたい。──


 第二十番 元良親王

  京極御息所との不倫関係が、

  世間に知られたのち、

  彼女にあてた文にて詠める。

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