光の君ー肆 口づけ
────。
「帰ったァ?」
職員室にて。
こんどは高村が顔をしかめる番だった。
仲宗根春菜は得点こそ最底辺だが、決して授業態度や素行がわるいわけではない。今日のように担任に一言もなく早退するような生徒ではなかったはずだが──。
職員室に報告へ行った松子と武晴が、気まずそうに顔を見合わせてうなずく。
松子は「じつは」と身をかがめて、椅子にすわる高村に顔を寄せた。
「そのう……松田恵子と喧嘩してもうて」
「なに、松田と?」
「ただでさえ不機嫌マックスやった仲宗根に、松田がいらんこと吹っ掛けよってからに。仲宗根がぶっちんキレて」
「それで帰ったんか」
「ハァ……」
申し訳なさそうな、困惑したような複雑な表情を浮かべる松子に、高村はひとつため息をついてから「わかった」とうなずいた。
「よう教えてくれた。まあ──松田もさっぱりして引きずらん性格なんはええところやけどな。ある種仲宗根とは正反対のタイプやし、いつかぶつかるとは思うててん。とりあえず明日また様子を見てみようか。もし学校に来えへんようやったら俺からも話してみる」
「ほんまおおきに。すんません」
「お前らが謝ることやない。どうせまた恋愛絡みなんちゃうか。まったく、若いってのは羨ましいのう」
と高村は苦笑する。
松子と武晴はそのまま職員室をあとにした。
教室へ戻る道中、武晴はぐっと背伸びをして深いため息をつく。
「はーあ、めんどくせえ。仲宗根のやつけっきょくあれやろ。柊のことで悩んどんのやろ」
「うん……まあねえ」
「パッと復縁切り出してパッとフラれて終わりにすりゃええのに」
「簡単に言わんなや、そんなん」
「でもよぉ」
「おんなのこは繊細なんよ。あんたとはちゃうの」
「…………」
すこし不服そうな顔で、武晴は「そうデスカ」とつぶやいた。
※
「やっぱり来てくれた!」
総合病院外科病棟五階の五〇五号室。
開口一番にそういって、飛び上がらんばかりに喜んだのは無論、有沢光である。当然ながら右足は吊られているため動けはしない。
熱烈な歓迎を受けて病室の入口に立ち尽くすのは、仲宗根春菜だった。
「あ、あの」
なにゆえ春菜がひとりでここにいるのか。それは自分でも分からない。
先ほど、恵子に「素直になれ」と言われ、一番に思い出したのがここだった。
──素直になれへんときは、僕のところにおいで。
このことば。
彼にとっては星の数ほどいる女のうちのひとりに言ったにすぎない、この気休めのことばに、春菜は囚われてしまった。彼ならばこの気持ちをどうにかしてくれるかもしれない、とも思っていた。
「どしたん。こっちおいで」
「あ、はい」
手土産に持ってきたお菓子をテーブルに置く。
椅子を引き出して、春菜は頼りなさげに座った。
「あの、今日来たんは──聞きたくて」
「うん?」
「どうして、うちが素直になれへんこと」
わかったんですか、という前に光が春菜の頬を触ってきた。反射的に春菜は身を引く。
「な、に」
「あ、ごめん──いや、あの時もそうやったけど」
と愛想のいい笑顔を浮かべて、
「春菜ちゃん、まだ甥のこと好きやねんね」
と言った。
「…………」
「ちょっと残念やけど、春菜ちゃんが幸せになる手伝いはしたいと思て」
「そんなに、わかりやすいですか」
「あはは、ううん。でも僕は──春菜ちゃんのこと見ててんからさ。春菜ちゃんやってそやろ、あいつに好きな人がおったら分かるんちゃうん」
「…………」
春菜の脳裏に、よぎるものがあった。拳を握りしめてうつむく。
「復縁したい?」
「……あ」
光を見た。彼の顔はおだやかで、春菜は泣きそうだった。
「聞かせて」
「……したい──けど」
「けど?」
「たぶん、シュウは……」
うつむいた。
光はふたたびその頬に手を伸ばす。その手を今度は避けることなく受け入れた。
「顔あげて」
「…………」
春菜は泣いていた。
その涙を掬い取るように光は顔を近づけて、舐めた。
そのまま頬をつたってくちびるに沿わせる。
春菜の肩にびくりと力が入った。光は構わずくちびるを押し当てて、そしてゆっくりと離れていった。
「…………」
春菜は呆けた。
「こういうこと、柊にしてほしいん」
光はすこし眉根をひそめて口角をあげた。この笑い方は、似ていた。
ワンテンポ遅れて顔中に熱が集まっていくようで、春菜は戸惑い「あ」とだけつぶやく。
「あはは、かいらしい。春菜ちゃん──もっかいしよ」
春菜の返事を聞く前に、光は再度口づけた。
かすかに震えたそのくちびるを捕らえて、光は遊ぶようになぞった。
春菜は手をさ迷わせていたけれど、光の服をそっと掴む。
(きもちいい)
春菜はそう思った。頬を真っ赤に染めて肩を震わせてはいたけれど、嫌ではなかった。
長いながい時間くっつけていたくちびるを離し、潤む瞳で光を見上げた。
「僕は春菜ちゃんに自信を持ってほしい。こないにかわええのやさかい」
と、光は笑った。
顔から熱が引かない。ここに来るまで、有沢柊介でいっぱいだった脳みそは、たった二回の口づけですべてが光に塗り替えられたような錯覚。
慌てて立ち上がった。
「あの、あ……うち、帰りますッ」
「うん。またおいで──できればひとりで」
光は自身のくちびるに触れながら、目元を笑んだ。
たまらず春菜は病室を飛び出す。
廊下は走るな、という貼り紙が目に入り、早足で病院を抜ける。
交通事故のようなキスだった。ファーストキスである。
「やば、」
危険だ。
赤信号が点滅している。春菜もそれは重々承知していたつもりだった、のに。
「……やばいって」
バスの中で、ひとり呟く。
先ほどのキスを何度も何度も反芻し、春菜はぽろりと涙をひとつこぼした。
「────」
これが、柊介からのキスだったなら、今よりも幸福に満たされるのだろうか。
すこし落ち着いてきたころ、いつしかそんなことすら思うようになった自分が嫌になった。それでもまだ、柊介が好きなのだと思った。
────。
その日の夜、久しぶりに夢を見た。
ここは病室である。
「やっぱり来てくれた!」
そう喜ぶ光を前に、これは記憶だと思った。
光はやはりどこか柊介に似ていて、春菜は昼間のキスを思い出して照れた。
しかしこれは、夢である。
「甥のこと、好きでしょう」
光がいった。
春菜はぎゅっと目をつぶる。昼間のキスを思い出す。
考えてみればめちゃくちゃな話だ、自分の好きな人の叔父さんとキスをするなんて。
けれど、次に誰かとキスをするまで、おそらくは忘れられないキスになった。
『難波江の 芦のかりねの 一夜ゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき』
もはや胸が詰まる想いである。
(でも。……)
それでも忘れなければ。
──あの男は、まるで麻薬だ。
春菜は夢のなか、ひとり途方に暮れた。
※ ※ ※
──葦のなかのほんの一節のような
一夜限りの仮寝のせいで、
私はこの身を尽くしてあなたに
恋をし続けねばならないのですか。──
第八十八番 皇嘉門院別当
右大臣兼実の歌合せの折、
『旅宿に逢う恋』の題にて
詠める。
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