光の君ー参 嫉妬

 ※

「あっはっはっはっは!」

 ゆきはかつてないほどに笑っている。

 刑部家にて、勉強会をはじめた息子たちに話を聞くや、ジュースを出しながら笑いが止まらない。

「学年ドベになってもうたうえに、光くん骨折て!」

 しかも女の子に折られたんのやろ、と笑いをこらえて、ふたたび吹き出す。

「なんであんたらはそう、ネタがつきひんのやろうねえ」

「知るか!」

「平均十八とかゴミ以下の点数取ってる時点で、おまえもネタやで。しゅう」

 と、八郎はシャーペンで頭を掻きながらつぶやいた。そのとなりで武晴が、悠々と英語の教科書をめくっている。

「ええから早う勉強しようや。必要ない俺まで付き合うてやってんねんから」

「しばらく柊くん、うち泊まって夜いっしょに勉強しんさいよ。どうせ光くんもおらんしさ」

「そうしよかな……」

「ほんで、むかしみたく環奈ちゃんに見てもろたらええやないの。高校受験でえろうお世話してもろたでしょう、わざわざ京都から毎週出てきてくれて」

「せや、かんちゃんに見てもらおうや。教え方めっちゃうまいしよ」

 と八郎もうなずいたが、どうにも柊介は乗り気じゃない。なるほどたしかに、知り合いの姉ちゃんに勉強を教わるというのは、年ごろの男子にとってはとても気恥ずかしいことなのかもしれない──とゆきは心で納得する。

「まあ、タケちゃんがこのおバカふたりに叩き込んでくれはるねんやったら、それはそれでええけどサ」

「おうよ。俺かてできる限り協力したるさかい、なにが分からんのか言ってみィ」

「なにが分からんのかが分からん」

「で、出た~勉強でけへんやつの常套句。おまえこっからあと十日で三十二点もあげなあかんのやで。そらお前、点数的には伸びしろあるやろが、お前のおつむには酷な話やな……」

「協力したいんか馬鹿にしたいんかどっちやこのクソボケハル」

「クソボケはお前や!」

 やいのやいのと言い争うふたり。

 まったく、こんな状況で柊介の平均点があがるものだろうか──。

 八郎は、数学の問題集を解くことに集中した。

 ──。

 ────。

 翌日。

 八郎とともに登校した柊介を待っていたのは、クラスメイトの静かなる声援の嵐であった。

「あーそれ分かるゥ!」

「そんで堺雅人がさァ」

 とドラマの話をしていた女子生徒ふたりも、柊介がちかくを通る瞬間、

「負の数の平方根と二次方程式の解の公式は暗記あるのみっていうててんよな」

「分かるゥ」

 と会話に勉強の単語があふれかえる。

「おまえ新作バイオやった?」

「あれマジ鬼畜すぎるわ。キャラのコマンド入力が──」

「よう」

「おっす有沢。なあおまえもう遺伝子発現の仕組みとそれを利用したバイオテクノロジーに関する記述書けるようなった?」

「いわゆるシナプスと呼ばれる情報伝達細胞はさ……」

「…………」

 柊介の顔から表情が消えていく。

「有沢、問題集貸したるで」

「柊介ェ。昼休みなったらサッカーしようや、これで力学的エネルギーについて勉強しよ!」

「だれかイチゴパン買うてきてぇ。ちなみにイチゴパンツで1582年は本能寺の変やで。これワンポイントアドバイスな」

 体育祭で培った団結力は、思った以上にかたい。

 柊介はとうとう教室から逃げ出した。


「……クソ、一生うらむで高村ァ──」

 逃げ込んだ中庭、いつものフェンスにぐったりと背をもたれた柊介は、小さい声でつぶやいた。

 まもなく予鈴が鳴った。

 どうせ一時間目の数学は中間考査に向けた自由勉強時間である。戻っても戻らなくてもやることは同じだ──と柊介は目を閉じた。

 が、まもなく大学側から草を踏む音。

 気のせいかこちらに向かってきたな、と柊介が薄目をあけて見上げると、案の定こちらを覗き込んでくる影がある。

 環奈だ。

「おサボり?」

「そう。邪魔すんな」

「はーい」

 といいつつ、彼女はフェンスを挟んだ向こう側に腰を下ろす。もはや柊介は、それに対してのツッコミも起きない。

「…………ハチからなに言われたん」

「きっとココにいるから、おべんきょするように説得してーって」

「アホや」

 と柊介は不貞腐れたように口を閉じた。

 しかし環奈はうふふとわらって、フェンス越しに背中を合わせた柊介の熱を感じている。

「シュウくんとこーやってふたりでお話しするの、とっても久しぶりなのネ」

「そんなことあらへんやろ」

「うーうん。そんなことあるヨ」

 フェンスに頭をあずけて、環奈は上を見た。

「はっちゃんいなくて、ふたりでおべんきょしたのが最後」

「……………あー」

「おべんきょなら、またかんな教えたげる」

「いらん」

「前みたくご褒美だってつけるヨ」

 といった環奈の言葉に、柊介はわずかに肩を揺らした。一瞬の静寂があたりを包む。

 春風が心地よく頬を撫でたところで「アホか」と柊介は声を抑えてつぶやいた。

「昔とはちゃうねんぞ」

 そして、沈黙にたまらず立ち上がる。

「中学と違うて男子高校生は欲深いねん。いまの俺がほしいもん、お前が」

「あっ」

 環奈は、話を聞いていたのかいないのか、つられて立ち上がり柊介の顔を覗きこんだ。

「シュウくん、また寄ってる」

 眉間に指を伸ばす。柊介はおもわずその小さな手をパッと掴んだ。環奈も負けじともう片方の手を伸ばすが、それも難なく捕らわれて。

 フェンス越しに両手をつかみ合い、ふたりはお互いを見つめ、膠着する。

 環奈の瞳がまっすぐ柊介を捕らえて離さない。柊介は昔から彼女の吸い込まれそうな瞳の輝きが苦手だった。

 なぜかこの目に見つめられると、逆らえなくなる。

「…………」

「…………クソ、」

 柊介はこの妙な空気に焦れた。

 ふいと顔を背け、手をはなして後ずさる。遠くから八郎の声がした。どうやらおのずから連れ戻しにきたらしい。

「…………」

 ふっ、と。

 環奈は微笑した。

「おべんきょしといで」

「……クソッタレ!」

 柊介は、そして腹を決めた。


 ※

「滝沢ァ、これおしえて」

 クラスは驚愕した。

 一限目の数学──中間考査に向けた自由時間というのに、彼は眠りもせず、漫画を読むでもなく、数学の問題集を開いて、シャーペンを片手に問題を解き、あげくの果てに質問をしている。

 えらいこっちゃと、生徒のひとりは空から槍が降らないかと確認をし、ひとりは生唾を呑み込んでその姿を凝視した。

「なんで数学やのに英語が出てくんねん」

「そっからかよお前、よう十八点も取れたな!」

「この問題はパターンが決まってるんよ。それさえ覚えたったらなんぼでも解けるようになるから──たとえばね」

 という京子講座を前に、生徒たちは次第にその周りに固まってくる。

 この高村学級においてみなが教科書を開いて勉強をするなど、まず見ることのないであろう景色だ。

 その塊を横目に、春菜は不機嫌な顔で教科書とにらめっこをする。その心情はおおいに察した松子だが、あえて「あんたは」とふっかけた。

「あの集団混ざらんでええの?」

「……混ざるわけないやん」

「まあ──そうよね」

 松子はちらりと京子を見た。なにも彼女が悪いということではない。が、春菜の心情を思えば複雑だろう。恵子はとなりで、菓子を食いながら教科書を眺めていたが、ふいに顔をあげて春菜を見る。

 それから遠くの京子を一瞥して、ふたたび春菜に視線を戻した。そして一言、

「へえ」

 とだけつぶやくとふたたび教科書に視線を落とす。

 なんだ。

 いったいなんの「へえ」なんだ──と松子がおもわず汗をぬぐうと、おもむろに尾白武晴が松子の前の席に腰を下ろした。

「はあーあ。柊クンったら照れ屋さんやさかい、俺らの力は借りたないねんてよ。お役御免になってしもた」

「タケ」

 松子はホッと息を吐く。この空気を打開するにはもってこいの男である。

「まあその気持ちも分かるで。あんたに教えてもらうってなんや分からんけど無性に腹立つもん」

「へえ? そうかなぁ。おいメガネもこっちゃ来いよ。いっしょに勉強しようや」

 と武晴がにやつく。

 まもなく明夫は神妙な顔で教科書と筆記用具を手に、武晴のとなり──つまり恵子の正面に腰かけた。それを見届けてから、武晴はぐいと恵子に顔を寄せる。

「ムエタイどうやったん?」

「なかなか良かったよ。技かけたろか」

「いやそういうんはボクのキャラちゃいますんで──」

「通うん?」

「ありやね」

「マジか!」

 と松子はケラケラわらう。しかしその逆隣に座っている春菜は仏頂面を浮かべたままなにも喋らない。武晴はあれっと声をあげた。

「仲宗根はあっち混ざった方がええねんちゃう? おまえ柊クンのつぎにアホやん」

「は?」

 余計なことを!

 という松子の般若のような形相が武晴に向けられた。

「どこで勉強しようとうちの勝手やろ」

 まさかの、一人称を自分の名前で呼んでいたぶりっ子すら発揮せず、マジトーンのマジレスにて返してきた彼女に、武晴は身体を二回りほど縮めて「ハイ」とつぶやく。

「わ、わからんことあったらメガネがなんでも教えるってよ! 遠慮せんでな!」

「えっ⁉」

「おおきに」

 氷のような冷たさで一言返すと、春菜はふたたび黙り込む。

 突然話を振られた明夫は無言で眼鏡をあげ、武晴は犬のような目をして松子を見た。

(アホ、触らぬ神に祟りなしてことわざも知らんのかおのれは!)

(そんなん言われてもォ)

 と、目で会話をするふたりの横で、恵子はふたたび顔をあげて春菜を見た。

 そして、

「いまの春菜めっちゃかんじわるい」

 とぼやく。

「!」

「⁉」

「????!?????!!??!???」

 瞬間。

 松子、武晴、明夫の三人は動揺した。

 一瞬にしてひんやりと冷めた空気がただよう。

 横の松子はもちろん、春菜から見て右斜め前とそのさらに右に座る明夫は、恐怖のあまり一ミリだって首を動かすことができない。

 しかし春菜はゆらりと顔をあげて、なにも言わぬまま松子を挟んだ隣にいる恵子を覗く。

 その視線が合った瞬間、

「……は?」

 といった。

(あかん)

(せやった、恵子は祟りをも恐れぬやつやった……)

 蒼白の武晴と、泣きそうな松子の視線が交わされる。

 両隣の圧力に屈した松子は、音を立てずに椅子を引きめいっぱい身体をそらして、その視線(死線)のなかから存在を消した。

「なんつった?」

 春菜が低い声でつぶやく。しかし恵子は平然とした顔で菓子を口にほうりこみ、

「かんじわるいっつった。もうちょっと素直になりなや」

 と春菜を一瞥。

「…………」

 まもなく春菜は椅子を蹴って立ち上がり、教科書や筆記用具を鞄に詰め込むと、無言で教室から出て行ってしまった。

「あ、ち、ちょォ春菜──」

「え? あれ帰ったんちゃう……?」

 松子と武晴はあわてて立ち上がったが、恵子は知らん顔で教科書に視線を戻す。

 明夫はただひとり神妙な顔で恵子を見つめ、ふたたび無言のまま眼鏡を押しあげた。

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