光の君ー伍 ロクデナシ


『名にし負はば 逢坂山の さねかづら

         人に知られで くるよしもがな』


 とある日。

 そんな歌が聞こえてきたのは、総合病院外科病棟五階五〇五号室にねむるひとりの男の夢のなか──。

 有沢光。

 この男は、自分に自信がなかったり、どこかコンプレックスを持つ女の子を好きになったりする傾向がある。これまでの歴代彼女もそうだった。もちろん、みな真剣に愛していた。

 しかしこの男にしては珍しく、近ごろ力づくででも落とし込みたい女の子がいる。

 その名を、仲宗根春菜──甥の同級生である。

 彼女は一目見た時から、自身のなさの塊であった。

 化粧や香水、服装や髪型──女性が気にするべきところを、周りに浮かないよう、しかし少し特筆するよう、細かいところに配慮していた。そういうところに気が付くのはさすがというべきか。

 そしてもうひとつ。彼女は甥のことが好きなようだった。

 目線や表情、手の動きなどでその気持ちがすべて現れていたのである。

 ──恋と咳は隠せない、とはよく言ったものだ。

 加えて「好きでいたくない」という態度をとる彼女を見ていると、素直になれない自分に対する焦りのようなものも感じた。

 であれば、自分の手で彼女に自信をつけさせたいと思うのはモテる男の性である。

 相談に乗るよ──という意味で光は声をかけたのだった。

 しかし。

 彼女が次にここへ来たとき、その表情には以前にもまして焦りがあった。何かがあったのだろうと思って話を聞こうとしたが、彼女は泣いた。

 泣いたのだ。他の男を想って。

 光は血が逆流する感覚を覚えて、気が付けば口づけを交わしていた。

 これほど本能的なキスは、これまでを考えてもそうあるものではない。──光はそれ以来、彼女がふたたびこの扉をひとりで開けるのを待っていた。

 高校生と社会人の恋愛はご法度だ──などという周りの声など知ったことか。ようは両想いになれば問題ない、と有沢光はひとり勝手に思っている。

 そう。

 光はここ最近、どうすればまた彼女に会えるかについて、これまでにないほど真剣に悩んでいた──。


※ ※ ※

 ──『逢って寝る』という名の、

   逢坂山のさねかずらを手繰るように、

   人知れずあなたのもとへ

   たどりつく方法はないものか。──


 第二十五番 三条右大臣

  懸想する女性へ

  使者に託した文にて

  詠める。


 ※

 翌日、仲宗根春菜は学校に来た。

 どこか虚ろな目で席につき、ぼうっと口を半開いたまま黒板の上のほうを眺めている。

「……来た、けど」

「こんどは魂抜かれたようなってんな」

 松子と武晴はこそりと囁きあった。そうさせた元凶ともいえる恵子は、その様子を一瞥したのみで、特になにか言うこともなく。

 昨日の今日でどうなることかと思った松子は、とりあえず冷戦か、と肩の力を抜いた。


「おまえ、どえらい男に引っ掛かったもんやな」

 呼び出されて赴いた国語準備室にて。

 高村は春菜の顔を見るなり、開口一番にそういった。

「…………はぇっ!?」

「なんやあの、現代の光源氏」

「たたたたかむー、ななななんのはな、は、」

「あ、いやいや」

 と、高村は口をつぐむ。

 まさか言霊をたどったらふたりの夢にたどり着いた──などという説明をするわけにもいくまい。

 ひとつ咳払いをして神妙につぶやく。

「べつに先生も、アウトとは言わん」

「言わへんの!? 自分でいうのもなんやけど完璧アウトやで!」

「とはいえ好きと思うたもんはなかなか止まらんも事実や。本能ちゅうのはしゃーない。俺はそこらへん、おおらかやねん」

「教育者ァ……」

 春菜は頬を真っ赤に染めて硬直した。

 しかし高村に着席をすすめられ、浅く腰を下ろした。

「ちゃう、……べ、べつに、あの。好きとかちゃうんです」

「がっつり引きずっとるやんけ」

「そっ、そうやねんけどちがうの! だって……だって初チューやってんもん、引きずるやん! せやのうて、春菜はやっぱし、シュウが好きやねんッ──」

 最後のほうは声量を抑えて尻すぼみになったが、春菜は真っ赤な顔で告白した。

 ほんでも、と彼女の声が震える。

「もううち、うちは──好きんなったらあかん。好きやけど、それシュウに言うたらあかんの」

「どうして?」

 高村が優しく問いかけた。春菜はきゅっと唇を噛みしめる。

「シュウは──あんなんやけどやっぱし優しゅうて、うち、ほんまに、好きやった。ずーっと好きやった。ほんでも……」

「…………」

「……ほんでもシュウには、うちが入りきれへんなにかがあって、……ずっとなにか背負うとって。その荷物はうちじゃ支えきれへんもんやって気が付いてん」

 春菜はしずかに泣き出した。

 国語準備室のなかに、彼女のか細い嗚咽がひびく。高村はなにを返すでもなく、ただそれを受け止めている。

「シュウの家、複雑やろ。……せやから刑部くんちとのキズナとかわかっとったつもりやった。せやから二番目に大切なものになれればええて思うた。でも……たぶん、シュウにはもう、抱えきらんくらいに大切なものがいっぱいあって、うちは五番にも六番にも、なれへんかった」

「うん」

「気が付いたら、シュウの負担になっててん。うちが好きっていうたびに申し訳なさそうに笑てるんが──見ててツラくなってしもて」

 そして春菜は涙をぬぐい、えへへとわらった。

「そんなもんでツラくなって別れたんに、いまさらやっぱりぶり返して──好きって言えへんくせに京子ちゃんにはジェラって、恵子に怒られて……いっぱいいっぱいのときにシュウに似てる人に優しくされたら、グラッときてまうんも、しゃーなくない?」

「……ははっ!」

 吹き出した。

 彼女の開き直りは見事なものだ。高村はふっと口角をあげたまま「そうか」とゆっくりうなずく。

 赤く染まる彼女の目元に指を伸ばして、こぼれる涙をすくった。

「本気で好きやってんな、柊介のことが」

「…………」

「罪な男よなァ。こーんなに自分のこと見てくれる人なんぞ、そうおらんちゅうのに。やめとけやめとけ、おまえはもっともーっとエエ男を掴める女やで。有沢家の男にうつつを抜かしよるのはもったいないぞ」

 と高村が笑顔で慰めたとたん、春菜の涙腺堤防が決壊し、ビャッと泣き出してしまった。

「うち、たかむー、みたいな人と、結婚したいィ……! どこに落ちてるん!」

「アホぬかせ。俺かてろくな男やないねん。おまえはきっとロクデナシに惹かれてまうのかもしれんな。危うい危うい」

「…………」

 ぷっとむくれて、しかし春菜は恭しく頭を下げる。

「きのうは──勝手に早退してごめんなさい」

「…………うん。それはもうええがおまえ、自分の学力わかっとんねやろうな。ドベ中のドベの一個上くらいのおつむやで。あと九日、死ぬ気で勉強したれよ」

「あーい」

 そして春菜は、涙で崩れた化粧を念入りにととのえてから、国語準備室を立ち去った。

 机に彼女の涙がこぼれた跡がある。高村はそれを指でなぞる。

(…………恋とは)

 好きだとしても、別れを決断することがある。

 お互いを想い合う者たちが、ともに手をとりあうことが、いかに奇跡であるか──。

 高村はじっと己の手のひらを見る。

(この手で抱いた女を、)

 自分はどれほど愛してやれたのか、などとらしくないことを考える。

 そして、高村はひとり苦笑した。

 

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