練習ー伍 導き

 ────。

「環奈、なにやらきな臭いわ」

 と小町が言い出したのは掃除がはじまるすこし前のこと。

 寺院内に入ったときからソワソワと落ち着きがなかった小町だが、とある長廊下を見たとたんにしびれを切らしたようだった。

「きなこの匂いすンの。おもち?」

「いいえ環奈、きな臭いです。怪しいと言いたいのよ」

「なにが怪しーの」

「環奈も見たでしょう、殿方の顔を覗く女がいたではありませんか」

 先ほどの光景のことである。あまりに見慣れないものだから、環奈は思い出すとおかしくてわらいだす。

「いたね、見てたネ!」

「あの女──あまり良くないように思えるわ」

「どうよくないの?」

「そうね、なんというか──いまにも憑り殺していきそうなかんじ。あっほら」

 と、小町が例の長廊下を指さす。

 不自然なほどにこの廊下をタタッと行ったり来たり、早足で歩きまわる女の姿があった。──とはいえ、見えているのは環奈と小町のみであるが。

「なにを探しているのかしら。環奈のお友達に手を出さないとよいのだけど」

 と言った矢先。

 長廊下の近くを通った田中朱美に、行ったり来たりと歩き回っていた白い影が重なった。

 そのとたん、朱美はいっしゅんにして虚ろな表情に変わる。

「言ったそばからこれだもの」

 と小町は、フラフラと長廊下を歩みゆく朱美を追いかけて、彼女の腕をとろうとした──矢先、浜崎がぐいと腕を引っ張った。

 その拍子に重なっていた影が離れる。

 朱美の意識が戻ると同時に、女は長廊下の先に消えていった。

「どうしましょう、そうはいっても小町だけではとても……」

 と云いかけてパッと顔をあげた。

「いやだ、おもうさまがいらっしゃるじゃないの!」

「むっちゃん?」

「夜ならば身体も空くでしょう。おもうさまとて冥官のおひとりですもの、このまま変な女亡者に現世で好き勝手されるのはおもしろくないはずだわ。お伝えしてまいります」

 興奮した小町はそのまま立入禁止の先に行ってしまった。

 小町ちゃん、とそのあとをすこし追いかける環奈だったが、その先は立入禁止だ。

「あららァ……?」

 これ以上踏み込むわけにもいかない。

 環奈はその場に立ち尽くす。 

 浜崎と出くわしたのは、ちょうどそんなときだったのである。


 ※

「弓を握ることに力を使うな」

 弓道場にて。

 今春からとつぜん顧問が変わった弓道部の次期部長として、千堂明夫は先刻から、仮入部の一年生を指導する高村の姿勢と所作に見とれていた。

「弓を支えることに力を使え。たとえば──」

 声もいい。彼がひと声出すだけで、その場の空気はぴりりと澄むような気がする。

「あっ、なるほど……」

「そう。それが支えるということ」

 そして指導もうまかった。

 前任の名ばかり顧問と比較すると雲泥の差である。おまけに彼自身が射る矢の百発百中たるやおそれいる。キリ、と弓を引きしぼる姿勢には一分のぶれもなく、足踏みから残身のすべてが弓道場の空気をふるわせる。

 正座のまま脱力していた明夫に、高村はふいと視線をよこした。

「千堂明夫、おまえ射れ」

「……え。あっ」

 はい、と立ち上がる。とつぜんのことで心臓がどくんと跳ねた。


 千堂明夫──高村学級の生徒で、おまけに八郎の中学からの友人であるにもかかわらず、いまいち影のうすいところがある。

 しかし高村はこの青年がきらいじゃなかった。

 朴とつで物静かだが、それゆえにさまざまなものごとに対して沈思黙考する彼はだれよりも思慮深く、やさしい男なのである。

 指名された明夫が矢束を定めるなか、高村がなにげなく的場へ目を向けた。

「…………」

 的の前をふらふらと動く影がある。

(なんだ)

 目を細めた。となりで明夫が胴造りから弓構え、打起しの動作をおこなう気配がする。

 高村の目の焦点が一点に絞られた。──あれは。

 明夫が、会の姿勢をとる。

(紅梅色の)

「まてェいッ」

「ハッ」

 と、とつぜん怒鳴った高村に、明夫はびくりと肩を揺らした。

 ぶれなく心身が統一できていた最中の怒声に、明夫の手がだらりと下がる。

 しかし高村はめずらしくあわただしい足取りで的場へ近付き、ちょろりとなにかをしたのち、無言で戻ってきた。

「…………先生?」

「いや──」

 なぜか渋面になり、

「的にゴミがついていた」

 といって明夫に頭を下げた。

「すまん、ひじょうにええ動作やったのに中断させてしもた」

「い、いえ」

「十分間の休憩のあと、残りの時間は三年生中心にやりなさい。二年生──とくに明夫、おまえは一年に指導を。いまの動作はほんまに良かったぞ」

「ありがとうございます」

「俺は用事があるもんで最後までおらんから、鍵は職員室に返すように」

 高村はどこか怒ったようにいって、足早に弓道場を立ち去った。残された生徒たちはしばらく唖然としていたが、仮入部中の一年生が「すげえ」とつぶやく。

「不動心身につけたら、三十メートル先の的についたゴミも見えるんや」

「おれここ入部する」

「私も──先生に教わりたい」

 なぜかウケたらしい。

 明夫はひとり苦笑した。

 ──。

 ────。

 一方その頃。

「この馬鹿モンがッ!」

 という高村の怒声が中庭に響き渡っていた。

 その矛先は、娘の小町である。

「ふらふらふらふら飛び回って……遊びに来たのかお前は!」

「ち、ちがうのですおもうさま。聞いて、怒らないで聞いて!」

「あァ?」

「怪しい女がいるのです!」

「女──?」

 高村の吊り上がった眉尻が、がくっと下がる。

 小町はそのタイミングを見計らい、寺のうわさや男子生徒に執着する女、嫌な予感がする旨をまくしたてた。仏頂面ながらだまって聞いていた高村が「それで」と唸る。

「ここへなにしに」

「なにって、いまの話でお分かりでしょう。その女を追っ払っていただきたいのですわ。あれが環奈の友人たちになにかするのではないかと思うとおそろしくって」

「ふうん……」

 と、すこし考えるそぶりを見せてから高村は「わかったわかった」と首を鳴らした。

「身体を置いたらすぐに向かう。おまえは先にいってようすを見ていろ」

「ほんとう? とかいって大好きな弓に逃げたりしない?」

「するかアホ!」

 高村はふたたび怒声をあげた。

 

 ────。

 夕飯を終えた環奈が部屋へともどる。

 男子は大部屋だが、もともと全体数の多くない女子は四人で一部屋という好待遇であった。おまけに環奈は途中からキャンパスを移動したこともあって、それほど仲良しも多くない。

 浜崎の配慮もあってか、比較的仲の良い同級生ふたりのほかに麻由をくわえた四名で、この部屋が構成された。

 同級生のうちのひとり、田中朱美が「精進料理、豆のやつ残しちゃった」と畳にころがる。

 その後に続いてきた相原カナも、

「はあ、やっと喋れる!」

 と一息ついた。

 夕食を終えたらあとは就寝のみ。明日の朝九時には解散となるため、風呂までは用意されていないのである。

 一同は諸々の寝支度をととのえて布団に入った。

「ねえ」

 カナがいった。

「出るかな、女の幽霊」

 声がすこし弾んでいる。環奈は無言で朱美を見た。

 彼女は「ええやだぁ。怖いよ」と布団を頭までかぶる。端の方から寝息が聞こえてくるのは、麻由だろうか。

「ねねね、くわしくおしえて」

 環奈が身を起こした。その言葉に嬉々として反応したのはカナである。

「なんかね、むかし恋人の帰りを待ってた女の人が、とうとう待ちきれずに探しに出たったらしいんやけど、その人は身体が弱くってこのお寺の前で倒れてもうたんやて。修行僧が助けたったんやけどそのまま女の人は死んでしもて、このお寺で供養されはったとか。──いまも、お客はんがこのお寺に来るたんびに、待ち人が来てへんかて部屋を覗きに来るらしいで」

「お寺に居ついとるわりには成仏でけへんねんね」

 と朱美がさらりと正論を呟いて「悲しい話やん」と環奈を見た。

 環奈はふたたび枕に頭をあずけて「かなしい──」とつぶやく。昼に見た光景を思い出して、ちいさく咳きこんだ。

「せやからまあ」とやけに明るいカナの声がひびく。

「現れるんは男が泊まる部屋なんやて。あした男子に聞いてみよ」

「せやね、とにかく明日は四時起きやし。もう寝よっか」

 朱美の一言に、カナは「おやすみ」と言った。麻由はすでにねむっている。

「…………おやすみなサイ」

 環奈は布団の中から天井を見つめた。

 けっきょく、あれから小町は戻らぬままだった。

 このまま待っていればいつか戻るだろうか──とおもったのもつかの間、環奈の意識はとつぜんチャンネルが切り替わるかのようにプツンと暗転した。


 ※

「…………」

 身体がツラい。年だろうか。

 夜の九時をまわったこの時間、生徒たちがきちんと寝たかどうかを確認するため、浜崎はひとり舎内を歩いていた。

 女子用の東司──いわゆる便所が見えてくる。

 その先をいくとやがて例の長廊下と突きあたる。昼間のできごとをおもいだして浜崎はむっとした。幽霊の類は怖くはないが、納得できないことは暴きたくなる性分なのだ。

 なにせ、ここ数年ほどこの一泊参禅に参加しているにも関わらず、不可思議な影を捉えるなど初めてのできごとだった。

 長廊下の前に来た。奥は昼にも増して闇が深く、先は見えない。

(田中はちゃんと寝たかな──)

 と懐中電灯を廊下の奥に照らした。

 女、が。

「うおぉッ」

 カターン、と浜崎の手から懐中電灯がすべり落ちる。

 寸でのところで足を踏んばったために腰を抜かすことはなかったが、心臓は通常の二倍のスピードで脈を打つ。

 あわてて拾い上げた懐中電灯がふたたび目の前の影を映した。

 ──刑部環奈である。

 横顔はうつむき垂れた長い髪に隠れて見えないが、すらりとした立ち姿はまさしく環奈だ。

「お、刑部おまえ」

 なにをふざけて──と声をかけた瞬間。

 ギギギ、と環奈がぎこちなく首をあげた。

 浜崎はぎくりと動きを止める。彼女の口元が、にやりと笑った。

 そのとき浜崎の目が、耳が、錯覚した。


「お前じゃない、出ていきなさい」


 低く通る声。

 薄白く浮かぶ平安貴族が、環奈の背を叩く。

 

「ぎゃっ」


 声をあげて環奈はたおれた。

 なんだ?

 浜崎は立ちすくんだ。

 なにが起こっているのか分からない。手に汗がにじんできた。

 が、なによりまずは生徒のいのちを優先せねばなるまい。浜崎は環奈を抱き上げ、駆け出した。

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