練習ー肆 参禅
幾度も夢に見た。
貴方がまたこの木戸を開けてくれること。
貴方がまたわたしの名前を呼んでくれること。
そして、
貴方がまたこの髪を優しく撫ぜてくれることを。
隣の老女にまじないを聞いた。
ある短歌を書いた紙を軒先に伏せて置くと失せ人が帰ってくる、と。
書いてみた。
もうあまり指が動かないので、文字が震えてしまった。
────。
──────。
探しに行こう。
きっと近くまで帰ってきている。
すぐそばにいる。
わたしの身体が、少しでも動くうちに探しに行くのだ。
ひと月ぶりに鏡を見た。驚いた。
わたしの黒髪が、まだらに抜け落ちていた。
かつて貴方が愛してくれたこの髪すら、待ちぼうけたあまりに耐え切れずわたしの身体から離れていってしまった。
嗚呼、だから貴方は帰ってこない。
この髪がなければ、貴方はわたしを愛してはくれない。
────。
それでも探しに行こう。
一目会って、貴方につたえたい。
そのために命尽きても構わない。
最期にもう一度、貴方に会いたい。
『────────』
※
刑部環奈は、目を開けた。
目の前にコーギーの文次郎がキラキラとした目でこちらを見ている。
リードが足元に転がっているのが見えた。彼が持ってきたようだ。環奈はわらった。
「ウン──きょうの夜とあしたの朝は、いっしょ行けないからネ。お散歩行こっか」
そう。
環奈はきょう一日だけ外泊する。
毎年四月下旬──仏教系の白泉大学では、学部二年生を対象に『一泊参禅』という必修授業がおこなわれる。
授業といっても、構内ではない。じっさいに寺へ赴いて作務をおこない、坐禅を組み、禅とは、仏の教えとはなんたるかを学ぶのである。
「ウゥーン。もんじろがいると、かんなも早起きできるのネ」
うふふ、と微笑した環奈にひと声鳴いて、文次郎は尻尾のない尻をぶるぶると奮わせた。
「ええか」
と、寺の境内に浜崎の声が響く。
「お寺さんに迷惑かけんなよ。その時点で単位はなしやからな」
ずらりと並んだ学科生徒にしかめっ面を向けている。列のうしろにいた剛は、となりに立つ尚弥に顔を寄せた。
「浜たつ先生って、ゼミ外やとめちゃくちゃ感じわるない? なにかってェと単位振りかざすし」
「そらァおまえ──学科に問題児が多いからやで」
へらりと尚弥はわらう。
かくいう彼も、大切な彼女のためならば、と共通科目の授業をとことんサボることもあって、教員陣のなかでは問題児扱いをされるひとりではある。
「この前渡したしおりにスケジュール、注意事項が載っとるが、どうせ読んどらんやろうから改めて説明したる。私語厳禁、単独行動禁止、夜はおとなしゅう寝る。ほかにもあるが、この注意事項にひとつでも抵触した野郎は、その時点で来年の後輩たちのなかひとりで参加することになるさかいな」
「今日は一段と生徒に対する信用がないな、先生」
「毎年おるらしいで、あの噂を解明するいうて寺で騒いで──単位落とす人」
学科の生徒たちが小声でいった。
浜崎もそのひそめきが聞こえていたのか、語気を荒げてつづけた。
「例年の馬鹿どもが、なにで騒ぎを起こすか教えたる。ええか、大体はみなあの寺にある噂を解明するとかほざきよってからに寺ン中を徘徊しはじめる。挙句に何か見た、とか叫んで夜中に走り回る愚か者まで出てきよるんじゃボケが」
「うわ、先生もうすでにキレたはるやん」
「よっぽど減らんねんな、そういうセンパイたち……」
と、他人ごとのようにつぶやく生徒たちのうしろ。
最後尾にいた環奈は「うわさ?」と小首をかしげて麻由に顔を向けた。
「うわさってなーに」
「なんや知らんけど女が出るねんて。夜中の三時くらいに」
「おんな?」
「髪のながーい女。坊さんたちは慣れてるから気にせえへんみたいやけど、たまに部屋の外から声かけられるらしいで。……あの人が来てませんかァって。だれか探しとんねんな」
それだけやないで、と前に立っていた剛がくるりとうしろを向く。
「この寺ん下にはその女が殺されて埋められてはるとか、その女の幽霊に憑りつかれたら死んでまうとか──いろいろあんねん」
すると剛のとなりにいた尚弥がふん、と鼻をならした。
「あほくさ。てかなんでいつも幽霊て女やねん。──俺としちゃ明日の午前四時起きが無理すぎて、そっちのがこわいわな」
「……まあね」
と、麻由がめずらしく尚弥に同意する。
だまって聞いていた環奈は、ふうん、とひと言つぶやいてふたたび口を閉じた。
誰かを探す、髪のながーい女。
(…………ふうん?)
環奈は不思議でならない。そんなうわさ程度の女よりも、目の前にいる女のほうがよっぽど気になるだろうに。
愛おしそうに、恨めしそうに。
さっきから見知らぬ女が、男子生徒ひとりひとりの顔を間近に覗きこんでいくのだから。
※
説明係は、
内容は寺の内部や修行僧の一日の流れなど。歩き方にも決まりがあるのだから驚きである。
レクチャーを終えてとりかかるのは修行僧がおこなう作務のひとつ、掃除。
禅宗と括られる宗派では、日常のおこないすべてが修行といわれている。汚れているから掃除をするのではなく、掃除というおこないに勤しむことこそが修行の一環というわけだ。
それを体現するかのように、毎日拭き上げているのだろう床は板張りなのに照りが出ている。
「床は滑ります。気をつけて」
と、僧がいった。
私語は厳禁。──参禅会のしおりに書かれていた注意事項である。
浜崎やほかの教授陣が目を光らせるなか生徒たちは黙々と掃除に取り組んだ。そう、口はだまっていた。
目は口ほどにものをいうとはよく言ったもので、長い廊下を掃除する際は生徒同士が目線で語り合い、すべてが無声のままかけっこが始まる。
(なあに、そのくらいはいいさ)
浜崎は内心でわらっていた。いやはや今年の生徒は素行がいい。
潮江や廿楽世代を知っている身としては、その大違いの出来に顔面から笑みがこぼれそうになる。機嫌をよくして、つぎの掃除場所へ移ろうと視線を動かしたときだった。
(あ?)
ふと視界の端でなにかが動いた。と同時にタタッ、と駆けてゆく足音も聞こえる。その音がゆく先は生徒立入禁止の場所である。
満足した矢先にこれか──と浜崎は「おい」と顔をしかめて角を曲がった。
(…………)
しかし、想像に反してその先にはなにもいない。
おかしいな、たしかに足音が──と首をかしげて、くるりと踵を返す。
「おわッ」
と浜崎が数センチ飛び上がった。
ちょうどこちらに声をかけようとしていた修行僧のひとりが、目の前に立っていたのだ。
柄にもなく、ドッドッと脈打つ心臓を抑える。
僧は申し訳ないようすで頭を下げた。
「も、申し訳ございません。いかがされたかと」
「あ、いや……こっちに生徒の誰かが入ったような気がして見に来たんですが。気のせいやったみたいです」
「……それ、女性ですか?」
「いやそこまでは」
「であれば、気になさらないでください。よくあることなので」
と、修行僧はにっこり笑うと一礼し、叉手──親指を中にいれて握った左手を軽く胸に当て、右の手のひらで覆う作法である──の体勢を取ると、すり足で去っていった。
(…………)
その場に取り残された浜崎は、ふたたび後ろに続く廊下をちらと見る。なにもいない。
けっきょく、悶々とした気持ちを抱えたまま、床掃除をしている生徒の元へ戻った。
「先生」
と、田端麻由。
「ここ終わったんで、臼井と久保田で雑巾返しに行ってます」
「ご苦労さん。手の空いた奴から本堂へ向かうよう言うてくれ」
「はい」
さて、自分もほかの生徒の監督に戻らねば──と踵を返したとき、再び視界の端で人影をとらえた。
「んっ!」
女子生徒のひとり、田中朱美である。
ぼんやりと遠くを見つめて、立入禁止の空間に足を踏み入れようとしている。
「オイオイオイ、田中」
「…………」
呼び掛けてもなお、その歩みは止まらない。浜崎はあわてて朱美の腕をぐいと引っ張った。
「田中よう!」
「はっ」
朱美がバランスをくずす。
その拍子に浜崎の胸に倒れかかったとたん、朱美は目を見開いた。
「……おい大丈夫か」
「え?」
「ぼうっとしてからに。そこ立入禁止やぞ」
「え、あっ──あれ」
長い廊下に視線を向ける。
しかし朱美は怪訝な顔で首をかしげた。
「まだ四月やのにおまえ、ぐれたらあかんやないか」
「いやちゃいますって──スミマセン。寝てたみたいです」
「歩きながら!?」
「はあ──」
しかし、彼女はどちらかというと真面目な生徒だ。禁を破るとも思えない。
きっと寝不足なのだと思い直して、浜崎は労るように彼女の肩に手を置いた。
「きょうは早めに寝ろよ」
「はーい」
そして朱美は本堂へと歩いていく。
まったく今日は変な日だ──と三度長い廊下に目を向けると、そこからひょこりと女が出てきた。
刑部環奈──。
「アッ」
「今度はお前か!」
うんざりとした声でいった。
「持ち場の掃除終わったろ。なにやっとんか、本堂行ってええねんぞ」
「えーと、えーと」
「なんや」
「あれれ……」
──大丈夫だろうか。
自分が奈良へ呼び寄せといてなんだが、この生徒は日ごろからどこかボケている。
「あっセンセー。えっと、かんな寝ぼけてたみたいでシタ。どこ行くんだっけ?」
「…………」
浜崎は閉口した。
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