練習ー参 戦友

 ※

「たいいくさい、という祭があるのですか」

 と小町が目を丸くした。

 近ごろ、八郎たちの昼休みは、中庭で過ごすことが多くなっている。

 ──というのも、春の陽気があたたかくなってきた今日この頃。武晴が中庭で飯を食いたいと言い出したことがきっかけだった。

 中庭のフェンスをはさんだ向こう側は大学の敷地である。電話で環奈を呼び出して、ともに昼飯を食べることにしたのだった。

「おまえ、あんまりホイホイ出てくるな」

 と高村がいやな顔をする。

 彼は、体育祭練習後に武晴が「メシ食おうぜェ」とむりやり引っ張ってきた被害者である。

 当の本人はすでに飯を食い終えて、明夫と柊介を連れてサッカーをしに行ってしまった。

「八郎さまと環奈のほかに見えるわけでもなし。よいではありませんか、あんまり硬いと禿げますわよ」

「…………」

 高村はむすりと黙る。

 代わって環奈がフェンスから身を乗り出した。

「はっちゃんかけっこ出るの?」

「うん、四百メートルとパン食い」

「わぁ楽しそう。応援行くかンね!」

「あんがと」

「おもうさまは? おもうさまは何かされるの」

 という小町に、高村はさらに渋面をつくって

「……教員対抗リレー」

 とつぶやいた。

 なあんだ、とつまらなそうに小町が頬をふくらませる。

「馬で早駆けはなさらないのね」

「こんな狭いところで何頭も馬が走れるか、阿呆」

「むっちゃん、オッサンなのに走れるの?」

「ていうか、平安貴族て自分の足で走ったことあるんか」

 という八郎に、小町は「あらまあ」とおかしそうに笑った。

「おもうさまはこう見えて頑強なお方ですのよ。そこいらのひょろガリ貴族といっしょになさらないで」

「ひょろ──」

 小町のから飛び出した、予想外の口の悪さに八郎が固まったときである。

 あっ、と環奈が声をあげた。

「潮江センパーイ」

 そしてブンブンと大きく手を振る。

 彼女の視線の先には、潮江道士郎と、もうひとり見知らぬ男もいる。環奈の声でこちらに気が付いた潮江は友人にひと声かけてこちらにやってきた。

「センパイこれから授業なの、デス?」

「午前の授業が休講になったけえ、重役出勤や──あっ、高村先生!」

 と高村の姿を見るや、潮江は深く頭を下げる。

「先日はありがとうございました。あれからうちの浜崎先生、上機嫌で。また飲みたいと仰っとりまして」

「こちらこそ、いらんことも言うたかも分からんけど。とても楽しい酒やった。まあ浜崎さんは──見かけよりもだいぶダメージあるみたいやから。また、飲みたなったら環奈を通してでも言うてくれ」

 含むようないい方で高村は微笑した。つられてわらった潮江が八郎と環奈を見下ろす。どうやら小町の姿は見えていないらしい。

 地面に腰を下ろしてくつろぐふたりがおかしかったのか、くっくっと肩を揺らした。

「ここは寄合か」

「どーしろー。先行くぞぉ」

 遠くで、連れの男がいった。

 なんという声量だろうか。この距離でもふつうの会話のような音量である。

 ああ、と返事をしてから潮江は目線を合わせるようにしゃがみ、八郎にむけて頭を垂れる。

「八郎くん。先日はお邪魔させてもろうてすまんかったな。おふくろさんにもよろしゅうお伝えしてくれ」

「なんも。いつもワイワイやっとるんです。むしろおかんも喜んどったし気にせんとってください。それより潮江さん、松田から聞いたはります? うちもうすぐ体育祭なんで」

「体育祭!」

 とつぜん、潮江の目の色が変わった。

 すけど──という八郎のことばをさえぎってガッツポーズまでしている。

「え、あの──」

「そういやなんか言うとったな。──そうか、体育祭か!」

「は、はい。いやまあ高校の体育祭なんて」

 と、八郎が言うか言わずかのうちに「安心せえ!」と潮江が気合をいれる。

「俺やジム仲間が応援に行っちゃるけえ、どの組よりも盛大な応援になるぞ。何組や。赤? うん、優勝にふさわしい色やな──ああ、引き当てたのも松田なんか。さすがは無敗の女やで」

 と、まくしたてる。

 たどたどしく合いの手をいれていた八郎は、戸惑ったように口をつぐんだ。

「今日はちょうどジムやし、仲間にも共有しとこう。お前も当日は応援するよな、刑部」

「あい!」

「ようし、そんならいっしょに応援したろうや。八郎くん!」

「は、はい!」

「体育祭、男たるもの精魂尽き果てるまで全力を出すもの。まあ八郎くんは立派だから、よもや楽をするなんてことは考えちゃおらんやろうが──こういうのはひとりが頑張っても仕方ない。お前の仲間で手を抜くやつがおったら、その覚悟をよく伝えとくことだ」

「か、覚悟? なんの……」

「決まっとろうもん、」

 ハラァ斬る覚悟だよ。

 と。

 冗談など一ミリも感じさせぬ真顔でいうと、潮江はまたな、と去っていった。

 シン、と凍った場のなかで「まあ」と小町が声を出す。

「明王のようなお人。武家のかた?」

 高村は静かに噴き出した。


 ※

 松田恵子の家は、空手道場である。

 とはいうが将来的に恵子がこの道場を継ぐ気はあまりない。なぜなら彼女はいま、空手のほかにボクシング、剣道などの多種多様な武道を習っているからである。

 火曜、金曜の週二回、恵子が放課後にむかうのは木津川市内にあるボクシングジムだった。

 午後六時から二時間のあいだ、間食を我慢して、ひたすら筋力トレーニングや打ち込みをする。たまに試合もするが、このジムの高校生たち──女子はもちろん、男子も──ではもはや話にならない。

 大学生とはまだ試合をしたことがないが、実力は引けを取らないだろうとオーナーも絶賛するほどに、恵子は筋がよかった。

 正直なところ恵子も、自分が負けるだろう相手はこのジムにはふたりしかいない──と思うほどには自信がついている。

「おまえまた強うなったな」

「あ、潮江パイセン」

「食うか」

「いただきマス」

 と、恵子は軽食パンを口にほうりこんだ。

 恵子が負けるだろう、と思う相手その一、潮江道士郎。

 この男と初めて会ったのは、このボクシングジムではなく、恵子の家の空手道場である。

 むしろもともとこのジムに通っていたのは潮江のほうで、空手道場で話すうちに影響された恵子があとから入ったのだ。

 彼はとびぬけた才能こそないが、努力家で豪胆な性格から、だれよりも基礎を積み上げるタイプだった。いまでは、かつて才能を褒められた者たちもてんで敵わない。

「きょうそっち終わりはやいスね」

「ああ、なんせ俺とタクミしかおらんでよ」

 と潮江が汗をぬぐったとき、うしろから馬鹿でかい声量の「おおっ」という声が響いてきた。

「高校生のほうも終わったんか!」

「しゃーしいわ」

「なんだよ、ただ終わったのか聞いただけなのに」

 恵子が負けるだろう、と思う相手その二、廿楽匠つづらたくみ

 潮江と恵子の鍛錬仲間であり、潮江と同級でありながら、その明るく元気で大雑把な性格から単位計算ミスが発生。もう一年通うハメになった現在大学四年生である。

 彼は、潮江とはちがって野生的な男だった。

 身体を動かすために生まれてきたのだろう天性の運動神経と、すべてを吸収しようとする素直な性質たちから、彼はジム入会後たちまち頭角をあらわした。

 おそらく技術としての実力ならば潮江以上の猛者である。

「声がデケェんだよ。お前はいちいち」

「そうかなぁ──」

 と廿楽は太眉を下げてくりっとした瞳をさらに丸くする。

 それを横目に「それはそうと」と潮江が恵子に視線をうつした。

「きょう八郎くんに会うたぞ」

「あー、へえ」

「ジム仲間と体育祭の応援に行くと約束しておいた。だからお前もいっしょに行こうぜタクミ」

「体育祭か! いいな!」

 汗でぐっしょりと濡れたシャツをぐいと脱ぎ捨てて、廿楽は腕をぶんぶん振り回す。それを器用に避けながら恵子は「マジすか」と無感情にいった。

「めっちゃうるさいやん」

「応援はうるさいくらいがちょうどええやろうが。遠慮するな」

「遠慮じゃなくて本音」

 とはいわない。

 恵子はただだまってうなずいた。このふたりがその気になったら、なにを言っても聞きはしまい。

「色はなんだ?」

「赤だと。おまえ赤い服着てきたらどうや」

「赤い服……じいちゃんが着てたちゃんちゃんこしかないなァ」

「それ着てきよったらぶちくらすぞボケ」

「なっはっはっは!」

 廿楽は大きな口を豪快にあけてわらった。

 恵子としてはべつに、赤組優勝にはさして興味はない。

 そう。

 狙うは、選抜対抗リレー一位かつ学年優勝のみ。


『柊介が選抜に出たら間違いなく一位が取れる。そんでもって松田、おまえの指揮にみながついてくりゃあ学年優勝も夢やない』


 高村の言葉が恵子の脳裏をよぎる。


『お前らが協力してそのどちらも成し遂げることができたなら──俺はこのクラスの生徒たちに焼き肉を食わしてやろう』


(焼肉……)

 恵子の口の端からよだれがにじむ。

 今日ほど、担任が高村六道でよかったと思ったときはない。

「腹減ったな、焼き肉いくか?」

 とタイムリーに廿楽が恵子を見てきたが、恵子は苦渋の決断のごとく「いや」と首を横に振る。

「いま焼肉禁止令出したとこです、じぶん」

「ええっ、なんで? おまえが?」

 そうだ。

 おあずけをした先、腹がはちきれるほど食ってやる。

 恵子は想像してゆるむ口元を隠しながら「お好み焼きにしましょ」と立ち上がった。



 ※ ※ ※

 ──きょうもまた出会ってしまった。

   いっそ逢えないのならば、

   あの人のつれなさも己のみじめさも

   恨むことはないでしょうに。──


 第四十四番 中納言朝忠

  村上天皇の御世。

  天徳内裏歌合 第十九番

  『恋』の題にて詠める。

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