練習ー陸 抱擁

 ──。

 ────。

 環奈は、いつのまにか夢を見ていた。

 しんしんと雪の降る町のなかで一軒のあばら家の前に立っている。

 ひどく閑散として、町には人っ子一人見受けられない。

 目の前に立ついまにも崩れ落ちそうなあばら家には、かつて玄関口だったのだろう戸板がある。ぼろぼろと木くずに変わり、なかを覗けるほどに隙間が空いていた。

「……さみしいおうち」

 環奈がつぶやく。

 その戸板と敷居の間に、一枚の紙が挟まっているのをみつけた。ゆっくりとしゃがんでそれを手に取る。

(…………)

 震えた文字で書かれていたのは、待ち人の帰りを願うまじないの和歌うた

 環奈のちいさな唇から自然に

「ただいま……」

 とこぼれた。

 その声は、環奈だけではなかった。

(おとこのひと)

 環奈は顔をあげる。

 その瞬間、ふたたび景色は暗転した。


「おかえり、環奈」

 篁がいった。

 気がつけば目の前に平安装束の彼が立っている。そのうしろには小町もいる。

「あぇ、むっちゃん」

「ごめんなさい環奈」

 小町は環奈の手をとり、眉を下げる。

「ひとりにしてしまって──心細かったでしょう」

「ううん、ダイジョブ。それよりかんないつの間にねむっちゃったんだっけ」

「おもうさまが呼んだのです」

「え?」

 環奈の視線が、小町から篁へとうつる。

 彼は険しい顔で暗闇の奥一点をじっとりと睨みつけていた。

「いい加減にしろ」

 低くうなるような声で、篁はいう。

 声に応じたか暗闇のなかぼんやりと白い影が浮かび上がる。──昼間にあらわれた女。

 艶やかな黒髪に隠れて、その表情はうかがい知れない。

 探し物があるとはいえ、と篁が袂に手をいれた。

「生者にちょっかいを出すのはよくないな」

 取り出したのは手鏡である。

「おまえの恋人はとうの昔に死んでいる。この寺で待っていたところで生きたそやつが来るものか」

「────」

 うつむいた顔をわずかにあげて、女は髪を梳いた。小町はぎゅうと環奈の手をにぎる。

「お前と、おまえの待ち人についてひととおり調べた。まったく、どうしたらこれほどすれ違えるものかと呆れたよ」

 篁が手鏡を覗きながらいうと、女はとつぜん泣き出した。

 獣の咆哮のような泣き声で彼女は膝からぺたりと崩れ落ちる。なぜかたまらず女のもとへ駆けようと、環奈の足が一歩でた。

 が、それは小町の手がゆるさなかった。

「…………」

 握られた手は強く、熱い。

 ほんとうは、と女はつぶやいた。

「分かってた」

「…………」

「ただでさえ器量のよくない私が、病に伏せて、唯一褒められたこの髪だって抜け落ちた。帰ってくる理由なんか」

 どこにもなかった──うつむく女の頬を伝う涙が、闇のなかにポタリと落ちる。

「……最期、遠くからでも、一目逢えたらそれで──それで、よかったの」

 環奈の口が開く。

 しかしそれが言葉を紡ぐ前に、篁は「あえて」と声を張った。

「いまここでお前に罪を課すとするならば──それは人心を疑うたことだ」

「…………」

「まあそれも仕方あるまい。男も気の多いやつだったんだな。そんな男が、お前の病をなおすために働くといって、行商に出た」

 という篁の視線は手鏡に向けられている。

 その鏡にいったい何が映っているのか、小町からはなにも見えない。

「すぐに戻るといって半年、身体は限界が近く、おまえは焦って外へ。そうして三日、さまようおまえはとうとう寺の前で死に絶えた──相違ないかね」

「…………」

「──かわいそうに」

 女は肩を揺らした。髪のあいだからわずかに見える口元が、卑屈に歪む。それをみた篁が「違うおまえじゃない」と怒った。

「男がかわいそうだといったんだ」

「え?」

 女がはじめて顔を見せた。

 痩せこけた頬に落ちくぼんだ目。歪んだ鼻に痘痕の残る額を見るかぎりでは、お世辞にも綺麗とはいえないけれど、頬を伝う涙は、闇のなかでキラキラと光る。

 篁はその涙をすくった。

「気は多けれど寄る辺のない男だった。そんな男が、おのれの今生でたったひとり──世界中を敵に回しても、最期までそばにいてくれる女を見つけた。女は器量こそ良くはなかったけれど、男にとっちゃそんなことはどうでもよかったのだ」

「…………」

「はじめて働いた。おまえを助けるために。はじめて頭も下げた。おまえとともに生きるためにだ。──そうして半年と一日経って、ようやく家に戻ってみたら」

 とそこまでいって口をつぐむ篁に、女は目を見開いた。小町は、環奈の手を握りながらポロポロと涙を流している。

 そして環奈は、駆け出した。

 それを小町の手が制する。環奈はぐんとバランスを崩す。が、その勢いで環奈から白い影が離れた。

 篁はそれを見て、ゆっくりと手鏡をおろした。

「敷居に挟まった紙に、まじないの和歌うたを見たとき──」

 影は女のもとへゆく。

「男ははじめて、泣いたそうだよ」

 そして女を抱きしめた。


『たち別れ 因幡の山の 峰に生うる

       まつとし聞かば いま帰りこむ』


 和歌うた、である。

 環奈の瞳からぽろりとひとつ、涙がこぼれた。信じられぬ、というように女は身を震わせている。

「あ、あ──」

「よほどに方々を探し回ったようだな、キミは」

 と篁はいった。

 白い影はぼんやりと笑う。

「そんな……そんな、まさか」

「探して、連れてきた。こちらとしてもお前さんに、此岸への未練を断って彼岸へと渡ってもらわねばならん。なにも断てぬまま連行するのもかわいそうだと思うて、彼の思念を探したのだ。存外ちかくにいて助かったよ」

 そして篁が白い影に向けて微笑する。

 どこに、と女は問うた。

 あの家に、と返したのは小町だった。

「貴女が願ったのよ。あの場所に、また帰ってきますようにと。それなのに待ちきれず外へ出て──帰ってこなかったのは貴女のほうだわ」

 すこし怒気がこもる。

 女は言葉にならぬ声を漏らし、己の顔を手で覆う。しかし白い影は女をさらに深く抱きすくめた。

「あ、──ああ…………」

 さあ、と。

 篁は腕を広げた。

「お目当てのものは見つかった。まだ此岸に未練はあるかね」

「────」

 女は男の首もとに顔をうずめ、男は女の長い黒髪に顔をうずめる。そして篁にむかって一礼をした。

 手鏡をかざす。

 彼らはぼんやりと薄く光って、消えた。


 一瞬の静寂ののち、環奈は「よかった」とちいさくこぼした。

 それを受けて小町も篁へと視線をうつす。

「彼らはどこへ行ったの?」

「死者のゆく場所だよ。夢路は彼岸に一番距離が近いところだからね、だから、つまりは帰ったんだよ。いるべき場所に」

「そう──」

 ホッと小町は胸の前で手を握る。

「ああそうだ、環奈」

 篁が身をかがめた。環奈と視線を合わせるためだ。

「突然のことでびっくりしたろう、すまんかったな。あの男をここへ連れてくるために、おまえを通して夢路に来てもらうのが手っ取り早かったものだから。──環奈?」

 篁は眉をひそめた。

 ひどく寂しそうに、環奈は暗闇の奥を見つめたまま動かない。もう一度呼びかけると彼女はゆっくりと篁の顔を見上げて、いった。

「……だれも」

「うん?」


「だれも待っていてくれなかった旅人は、どうすンだろネ」


「…………」

「みんながみんな、帰るバショがあるわけじゃないの。どっか、宙ぶらりんのまま──どこにも帰れないままのシトだっているのよサ」

「……環奈」

「かんなは、だから、しあわせなンよネ」

 環奈は破顔わらった。

 

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