夢路ー肆 冥土の役人
※
真っ黒い獣の影。
琥珀色の瞳。
吸い込まれるように瞳を見つめる。
逸らそうと思えばできた。が、ぼくは好奇心に負けたのだ。
獣がこちらに走ってくる。
意識が途切れる最後、ぼくが見たのは、黒い犬の顔だった。
──。
────。
「こわかったねェ、はっちゃん」
環奈の声がする。
朝か?
ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界は一面の桜色に染まった。
いや、正しくは桜の花弁である。
遠くに続く桜並木の下、敷き詰められた花弁や舞い落ちる花弁が鮮やかに世界を照らす。
あたりにこもる桜の香りが鼻をついた。
「あれ──」
八郎は、一本の桜樹に寄りかかって眠っていたようだ。
「かんちゃん……」
「ウン。ダイジョブ?」
気がつけば、すぐ隣にいた。
ただ呟いただけだったが彼女は心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「この樹は──刑部桜」
「ウン。うちの桜ヨ」
環奈はにっこり笑って桜を見上げた。
刑部桜とは、八郎の家の庭に聳える桜樹のことだ。毎年、あまりにも立派に咲き誇るので、いつしか近所から『刑部桜』と異名をつけられた。
「でも、ここどこやろ──うちの庭やあらへん」
「ウン。ここ、はっちゃんの夢なのね」
「……なんて?」
「ゆめ。ユメ。どりーむよ」
「…………」
夢だそうだ。
花弁を撒き散らすようにたくさんの動物が走り回っている。そのうちの一匹は文次郎である。
環奈は「はっちゃん」と八郎の腕を引っ張った。
「おいで」
「うん?」
「約束したデショ、あっち。待ってるの」
「待ってる──?」
桜並木から離れ、一寸先の暗闇に向かって歩き出す。
遠くから、雅な音色が響く。
先日、漁夫の夢を見たときと感覚が似ている気がする。
ひとつだけ異なるのは、自分の感情をコントロール出来ている──ということだろうか。
「かんちゃん、こんな暗いのに道分かるんか」
「道?」
暗すぎて、足下の道すら分からない。
環奈はケタケタとわらった。
「道なんて、あってないようなもんヨ」
「ここなんなん?」
「ユメジ」
「ゆめ──」
「夢の
しばらく歩くと、次第に明かりが見えてきた。
行灯である。
チラチラと明滅する炎の灯りが、まるで道しるべのように両側でゆらめいている。
「むっちゃん」
環奈が暗闇に問いかけた。
灯りの道の先、闇のなかにぼんやりと白いものが浮かび上がる。
(…………)
平安貴族だった。
いや、よく見れば顔はあの漁夫である。
「あっ」
高村六道──。
「せ、先生」
「よう」
狩衣をまとい、尺を持ち、頭には烏帽子をかぶっている。資料集や有識故実図鑑で目にした格好の高村が、そこにはいた。
「────」
「ご苦労だったな環奈」
と言うなり狩衣の高村は踵を返して、行灯の道の奥へと歩いてゆく。
行こっ、と環奈が歩き始めるのを見て、八郎もあわててそのあとに続いた。
音色はひときわ大きくなっている。
「あれから十三年」
高村はつぶやいてため息をひとつ。
ここいらでよかろう、と足を止めた。
周りをみると、先ほどまで暗闇一色だった場が華やかに彩られている。
赤布の広い敷物に、風流な番傘がひとつ。
誰かが座るであろう各所に敷かれた座布団を見るかぎり、どうやら対面して座るようになっている。いったいここでなにが始まるのか──。
八郎は狩衣姿の高村を見た。
「お前は覚えとるか」
「え?」
「十三年前、春日の麓にて禁足の地を踏み入ったお前たちの咎を」
十三年前。
八郎の脳裏に、黒い影がちらつく。
「十三年、前」
「いまさら言うても遅いわな」
と言った高村は、八郎の左手をとった。
手のひらを上に向けて月丘の傷痕を指でなぞる。
「あ──」
「あの時、ここから流れたお前の血が封を解いてしもうたばかりに」
「えっ?」
「獣が一匹、逃げ出してしもうたよ」
シャン。
と音色が響いた。
ビクッと肩を揺らした八郎は、冷や汗が背中に伝うのを感じた。高村の目が鋭くて直視できない。
「むっちゃん、はっちゃんいじめちゃダメ」
ずっと黙っていた環奈が、後ろから身を割りこんだ。ふん、と面白くなさそうに鼻をならして、高村は八郎から手を離す。
「いじめとらんわ」
「────な、なんや」
解放された八郎が、あわてて環奈の後ろに身を隠した。そして彼女の背中越しから怖々と顔を出すと「なんやねん」とつぶやく。
「あんた何者やねん。ホンマの先生ちゃうんか」
声は震えていた。
気がつけば、雅な音色も絶えている。
高村は瞳を閉じ、
「“──まことに奇怪と人は言ふ”」
と口ずさんだ。
「“それが居りしはそのまたむかし、仁明天皇の御代のころ。詩歌や書、弓馬に優る口の達者な大男、野宰相とも異名さる変人奇怪なそれの名は、小野篁と相成るべし”」
「…………」
「“奇怪なりしかその男、夜毎井戸より冥土へと、第二の冥官などとして、閻魔のもとに仕えけり──”」
高村はそして八郎に視線を向けた。
「つまりは、文武に優れ、冥土で閻魔王の補佐をするという才色兼備な大男が、小野篁という名であり」
「────」
「その小野篁が、この私というわけだ」
──小野篁。
平安初期に実在した官僚で、背丈は六尺二寸、文武両道にして政務能力も優れた男でありながら、その反骨精神から『野狂』とも称された平安貴公子である。その性格ゆえ、嵯峨天皇より流罪を受けた彼の心境を著した歌が、百人一首に組まれている。──
そんな情報を八郎が知ったのは、当然夢から醒めてからのことである。
いまこのときの八郎は、彼が何を言っているのか半分も理解をしていなかった。
「はン……?」
「むっちゃん、そんなむつかしいこと言っても、はっちゃんにはあんまし伝わらないヨ」
「むつかしかなかろうよ。高村は小野篁だと言うただけで」
「装飾語が長すぎるのね」
「…………」
「はっちゃん、かんなが教えたげる」
環奈はにっこり笑って、八郎の手をぎゅっと握った。
「かんなたちが七五三した日のコト、覚えてる?」
「……あ、あんまり」
「あの日ね、かんなたち御蓋のお山に入っちゃったの。はっちゃんが転んでココ、ケガして──」
と、八郎の月丘に残る傷痕を撫でる。
「あそこにはね、箱が埋まってたんだって。地面のすごくすごーく深いとこ。むかーしむかしの人が、ぜったいにだれも開けられないようにって、隠してたんだけどね……」
開いちゃったんだって。
と言った彼女の顔はひどく穏やかだった。
「な、なんで?」
「それは」
「封印の鍵は血だった。それも、特定の」
環奈をさえぎって、タカムラが言った。
その瞳は氷のように冷えている。
「…………」
「おのれの血だったんだ、八郎」
「──な、なん」
「血が地に落ちて」
なんで、という八郎の言葉を遮るようにタカムラは続けた。
「地中の箱は封が解かれた。そして中に入っとったものは外に飛び出したのだ」
中に入っていたもの──。
八郎はハッと口をつぐむ。
──琥珀色の瞳。
射すくめられた記憶が、脳裏をよぎる。
たち昇るつむじ風から聞こえた獣の声も、ごうごうと鳴った風の音も、すべてが八郎の脳裏を駆けていく。
だからといって──。
八郎は眉を下げて環奈を見た。
「な、なんでおれの血やってん。おれなんも関係ないやん!」
「なれど解かれてしまった。おのれの血で」
しかし答えたのは環奈ではなく、タカムラだった。すこしばかり不機嫌そうな声色である。
「何を封じていたのかは、おのれらも見ただろう。あの黒い獣よ。私はアレをふたたび封ずるため、ここにきた」
「…………」
八郎は絶句した。
いきなりそんなことを言われても。八郎にはこの現状を理解することすら精一杯だというのに。
八郎の戸惑いを感じたか、環奈はけろりとした声で「それでね」と言った。
「その黒いワンちゃんはね、かんなの夢のなかでかくれんぼしてるんだって。だからむっちゃんは、昔からたまーにかんなの夢に遊びに来て、ワンちゃんのこと探してるのネ」
「は──?」
「お前が知りたがっておったろう。環奈とはいつから知り合うたのかと」
それほど昔ということだ、とタカムラは苦笑する。
「しかしどうにも──環奈の夢にはおらんような気がしてならんでな。もしや八郎の夢に隠れたかと思うているところだ」
「お、おれの夢……?」
「まあそれは追々で構わん──なによりも急務は別にある。ついてはお前に頼みたいのだよ」
そして貴族の男は、にっこりと笑った。
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