第041話 笑顔

『窮地にこそ思いが滲み出る』


 よろめきながらも立ち上がり、小さな人間を視界に捉えていた。立つのがやっとの状態だったが、すぐ側にいる子を守らねばならない。子に被害が及ばないことが最優先事項だった。この命にかえても。


 少女クウィムは精神力や体力をほぼ使い果たし崩れ落ちるように座り込んだ。

 目の前には凶暴な火炎虎フレイムビーストの親が鋭い視線で睨みつけていた。子獣は親獣にやや隠れるよう右後脚付近にいた。獣の親子はそれぞれが強い疲労を抱え微妙に震えていたが、懸命に力を振り絞ってなんとか立っている状態だった。それでも親獣は少女クウィムに対して敵意を剥き出しにしていて、今にも前脚を振り回して彼女を吹き飛ばしてしまいそうだった。

 そんな生命の危機にあるにもかかわらず、少女クウィムは笑顔だった。2頭の獣に怯える様子はなく、優しい眼差しで彼らを見つめていた。疲労が強くなったのか、座り込んだ体勢から両手を身体の前で地面について頭をうなだれた。それでも顔を上げて獣の親子を見つめ、笑顔を崩さなかった。

 少女クウィムの態度に戸惑っていたのか、親獣は襲いかからずに静止していた。警戒を解いたわけではなかったが、少女クウィムを物見して敵意を推測っているようだった。凶悪な牙を剥き出しにして低い声でグルルと唸りながら、燃えるような赤い眼でへたり込みながらも笑顔を差し向けてくる奇妙な人間を睨みつけていた。

 第一王子エドワードはこの状況を固唾を飲んで見守るしかなかった。彼には少女クウィムを助ける術がなく忸怩じくじたる思いだった。横にいるティスタは少女クウィムの置かれた状況を見て震えていて、冷静からは程遠い状態だった。魔王レヴィスターは少しも動揺せずに状況を見下ろしていていたが、少女クウィムを助ける素振りを見せなかった。ただし、ここからの距離と少女クウィム火炎虎フレイムビーストの親子との距離感を考えると、いくら魔王レヴィスターと言えども少女クウィムを救う術は持ち合わせていないと思われた。第一王子エドワード魔王レヴィスターもそれを分かっていてのだと思った。

 3人が見守る中で少女クウィムと親獣は対峙していたが、少女クウィムの笑顔が消える事はなく、親獣は固まったように動かなかった。

 そこに親獣の横で身体を擦り寄せていた子獣が少女クウィムの方に出て来た。その表情は親獣と違って穏やかに見えた。身体の半分は親獣に重ね合わせていて親獣の羽毛に包まれているようだったが、赤く光る眼には力が宿っていて、少し前まで瀕死の状態だったとは思えなかった。親獣から離れて周囲を駆け回りそうな気配さえあった。子獣は親獣の身体に頬を擦り寄せて甘え出した。目の前に少女クウィムがいるにも関わらず、その存在を気にしていないようで、少女クウィムを緊張をもたらす存在だと認識せず、日常の仕草に戻っているようだった。その姿を見て少女クウィムは更に笑顔が大きくなり、喜びの色が強くなった。まるで子獣と楽しく会話をしているかのようだった。

 子の反応に影響されてだろうか。親獣の警戒感は急速に減少していった。少女クウィムを睨みつけていた眼は険しさを失い、剥き出しになっていた牙は唇に隠れた。グルルと唸っていた低い声は鳴りを潜めて、力んで低く保たれていた体勢から通常の四本の脚が直立に戻って、直立の姿勢になっていた。

 子獣が直立して伸びた親獣の四肢の下に潜り込んで、親獣の両前脚の間から顔を出して少女クウィムの方を見て、キューンという甘えたような声を出した。そしてすぐに振り返って体勢を翻して、親獣の腹から後脚へ向かって動き、右後脚を一周してから少女クウィムの方をもう一度見た。親獣の身体に触れながら少女クウィムとかくれんぼをして遊んでいるかのようだった。

 親獣が少女クウィムから視線を外して右後脚付近にいる子獣の顔を優しく舐めた。それから少女クウィムを一度振り返り見て、少女クウィムにに背を向けてトボトボと歩き出した。子獣もその後に続いて行った。親子は森へ帰ろうとしていた。

 第一王子エドワードとティスタは目の前の状況を全く理解できないでいた。少女クウィム火炎虎フレイムビーストに襲われて殺されると覚悟を決めていたからだった。あの凶暴な獣が何もせずに引き下がり静かに森へ戻っていこうとしている事は彼らの理解できる範囲をゆうに超えていた。屈強なカルドを殺害しかけた凶暴な怪物モンスターならを襲って殺す事は簡単で、自身が瀕死の状態でも充分に可能なであり、子を守る意志の強い母親ならば特に攻撃的であると思われた。自分達を瀕死に追い込んだ人間達に対する怒りより自分達を回復させた人間に対する恩義が上回ったのだろうか?獣にその思考があるとは思えなかったが、目の前の状況はそれを物語っているようにしか見えなかった。

 時折身体がふらついていたが、火炎虎フレイムビーストの親子は自らの脚で森の中へ消えて行った。少女クウィムは右手を左肩に当ててその後ろ姿を見送った。この仕草は「親愛なる者への惜別」を意味するもので、人に対して向けられるものであり、宗教が違えば行なわれないし、種族が違っても行われない場合があり、怪物モンスターに向けてこの姿勢を取る事は異例だった。しかも少女クウィムは満面の笑顔で見送っていて、まるで保護して育てた火炎虎フレイムビーストを野に帰しているかのようだった。

「彼女は一体…」

ティスタは思わず口にしていた。

「何者…なの⁉︎」

理解を遥かに超えた行動を見せた少女クウィムを見た素直な感想だった。死を恐れずに、もしくは死の恐怖を感じずに怪物モンスターに近付き、立てなくなる程に自分の持つ能力を注ぎ込んで回復させた事。怪物モンスターが反撃せずに引き下がり、それを最敬礼と笑顔で見送った事。それはティスタの価値観では推量れない異質なものだった。

 第一王子エドワードの感想も同じだった。自分自身が戦時の只中にあり、精神的に穏やかではない事は理解しているつもりだったが、自分の倫理観からすると彼女はあり得ない行動を取っていた。軍を率いて市民を守る義務がある彼にとって「敵は打ち滅ぼす」事が前提であり、苦労の末に打ち負かして瀕死に追い込んだ敵を治癒して回復させる事などあり得なかった。自身に置き換えてみると、暗黒帝国ブレイク軍は宿敵であり、父王達が築いた奇跡の10年を一方的に打ち壊した元凶で、市民に多くの犠牲を出しているであろう彼らを許す事はできなかった。純白王国フェイティーの市民や家族の事を考えるとはらわたが煮えかえる思いだった。それと同義で、自分の仲間を襲った怪物モンスターを回復させて逃す意味が分からなかった。

 獣の親子が立ち去った後に2人は少女クウィムを目指して岩場を降り始めた。少女クウィム火炎虎フレイムビーストの親子が森へ消えたのを見届けた後に力尽きるように大地に伏せた。気を失ったと思われる彼女の崩れ落ち方に危機を感じ、飛ぶようにして岩場を降った。すぐには辿り着かなかったがそれでも最速で駆け降りた。魔王レヴィスターはその後を追うように岩場を下って行った。ただ、その速度は2人のそれには程遠く、ゆっくりと思える程だった。その為に2人との間にはやや距離が出来た。

 体力の差で若干速く少女クウィムの元は辿り着いた第一王子エドワードは、大地に伏せている少女クウィムに声を掛けた。しかし彼女からの応答はなく、呼吸はしていると思われたが、意識を失っているように見えた。

「クウィム!大丈夫かっ⁉︎」

思わず声を上げて、彼女の両肩を掴んで揺すった。その間にティスタも追いつき、第一王子エドワードと反対側に回り込んで、うつ伏せになっている少女クウィムの顔を覗き込むために自身の顔を地面付近まで下げた。目を瞑った少女クウィムの横顔が見え、その顔は口を閉じて笑っていた。

「笑ってる…」

ティスタは無意識に呟いていた。それを聞いて第一王子エドワード少女クウィムを仰向けにするようにして起こし、膝を立ててそこに少女クウィムの背をゆっくりと下ろした。確かに彼女は微笑んで眠っていた。ティスタが顔を近づけて少女クウィムの呼吸を確認し、生きている事を確認して第一王子エドワードに視線を送って頷いた。それを受けて頷き返した時に魔王レヴィスターが岩場を降りて来た。

「クウィムをありがとう」

第一王子エドワードとティスタは想像していなかった魔王レヴィスターの台詞に驚き、それを隠さずに表情に出した。2人ともすぐに真顔に戻したが、少しバツが悪い気持ちだった。魔王レヴィスターは2人の表情を気にした様子もなく、反応らしきものは何もなかった。そのまま少女クウィムの正面に尻を浮かせて座り、彼女の顔を覗き込んだ。顔色がさほど悪くなかったのを確認したのだろう。第一王子エドワードには魔王レヴィスターの顔がほんの少しだけ安心した表情になったような気がした。それから魔王レヴィスターに顔を覗き込まれた少女クウィムが目を覚ました。


 その後足を引きずるようにしながらも岩場を乗り越えてきたカルドが4人の元に辿り着き、少女クウィム回復リカバリーの魔法を施した。そして第一王子エドワード少女クウィムを背中におんぶしてロッジまで運んで行った。

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