第040話 親子

『己の常識が覆される瞬間がある』


 第一王子エドワードの叫び声が聞こえてティスタはその方向を仰ぎ見た。何と言ったかは分からなかったが、性格が穏やかなあの第一王子エドワードが大声で叫ぶ事自体が異常事態であり、かなり切迫したが発生したと思われた。

 火炎虎フレイムビーストとの戦闘で重傷を負い、魔王レヴィスター第一王子エドワードの助勢で窮地を脱して、少女クウィムの魔法で動ける程度に回復していたカルドは、座り込んでいた体勢から膝をついて立ちあがろうとした。しかし獣から受けたダメージはいまだに身体に強く残っているようで、うまく体を支えることができず、ふらついてしまった。

 それを見守っていたティスタはカルドが動くのは無理だと察知して、

「私が見に行ってくるから、カルドはここで待っていて」

と言ってカルドに目線を落とし、カルドに対して左の手のひらを見せるようにして動かないように制した。立ち上がるのに苦労するような状態では岩場を乗り越えて第一王子エドワードの元に辿り着くのは難しいと思われたからだ。

 しかしカルドは首を横に振って、

「俺も行く。ただ、エドワード様が心配だ。ティスタは先に行ってくれ。後から追いかけて追いつく」

と言って、自分の現状と第一王子エドワードを守りたい気持ちの折り合う着地点を示しながら、ティスタを促した。

 ティスタは無言で頷き、第一王子エドワードがいる岩場は向けて走り出した。


 子獣はようやく動ける程度の体力だと思われたが、人間よりも巨躯であり、その体内に蓄えられるパワーは大きなものがあった。後脚に重心を設定して前脚をやや伸ばし気味ながらもすぐに飛び掛かる事ができる体勢で、目の前の少女クウィムに射抜くような眼差しを向けて対峙していた。の間は非常に近くて子獣の体長1体分しか離れておらず、それは子獣が1歩で襲い掛かる事ができる間合いだった。この間隔だと子獣が少女クウィムに襲い掛かった場合に助けは間に合わなかった。第一王子エドワード少女クウィムが襲われない事を祈って見守るしかなかった。

 第一王子エドワードが冷や汗を垂らしながら状況を見守っていたところに、異変に気付いて駆け付けたティスタが辿り着いた。宮廷付きの魔術師ルーンマスターである彼女にとって大岩を乗り越えながらそこに辿り着くのは骨が折れる作業で、辿り着いた時にはひどく息が上がっていた。第一王子エドワードに声かけようとしながら、眼下にある少女クウィムの置かれた状況を見て絶句してしまい、思わず悲鳴のような声を小さく上げてしまった。

「ひっ、…」

それは第一王子エドワード魔王レヴィスターだけに聞こえていた。少女クウィム火炎虎フレイムビーストの間合いは物理的に助勢に向かえるものではなく、ティスタのいる場所から見ると、子獣が前足を前方に振れば少女クウィムは一撃で即死すると思われた。飛び道具の武器もなく、攻撃系の魔法を放っても少女クウィムを巻き込まずに子獣だけに命中させるのは困難に思われた。ティスタが眼下の状況に戸惑っている横で第一王子エドワードは視線を眼下に向けたまま口を開いた。

少女クウィムと獣の距離が魔法を放てる間合いに離れたら攻撃してくれ。その準備を頼む」

隊の司令官らしい発言と話し方だったが、その表情は青ざめていた。少女クウィムと子獣の位置関係が絶望的な状況にも関わらず、高い岩場から見守るしかない立ち位置にもどかしさを隠せずにいた。

 ティスタは第一王子エドワードの指示に従って、いつでも精神統一できるように準備をした。

 魔王レヴィスターは動き出す気配を見せず、感情を読み取る事ができないくらいに表情がなく、氷の塊のように見えた。少女クウィムの状況を心配している様子もなさそうに見えた。それが第一王子エドワードには極めて異常に思えた。

 少女クウィムか子獣のどちらかが少しでも後方に動いて間合いが変わる事を祈りながら固唾を飲んで見守っていたが、しばらくして実際に間合いが変わった。なんと少女クウィム火炎虎フレイムビーストの子供に近づいて行ったのだった。

 第一王子エドワードとティスタは驚きの余り、眼球が飛び出しそうな程に両眼を開けて、顎が外れそうな程に口を開け、全ての毛穴が開いたように全身が震えた。ティスタはその後ですぐに目を瞑って『これから起こるであろう惨劇』を見ないようにした。全身の筋肉が強張り、第一王子エドワードから指示された魔法発動への準備の精神集中を遮断し、魔法杖ルーンスタッフを手から落とした。落とした杖を気にする事が出来ずに、両手を交差して手と反対の上腕を掴んで握り、自分自身を抱きしめるようにして強く力んだ。顔はやや俯き加減となって、背を猫のように丸めて、しゃがみ込むような動きをして小さくなった。

 第一王子エドワード少女クウィムの動きから目を離す事が出来ずに、無意識のうちに凝視していた。彼女の動きは非常に遅く感じて、スローモーションのように見えた。聴覚は音を捉えていなくて、自分自身を制御コントロール出来ていないようだった。

 少女クウィムは子獣の方へゆっくりと歩いて行った。彼女の歩幅だと5歩程で子獣の攻撃範囲に入ってしまうと思われたが、彼女は怯える様子もなく進んで行った。

 聴覚を失ったようになっていた第一王子エドワードは自分の心臓の音だけが強く聞こえるようになっていた。意識しても呼吸がうまくできなかった。少女クウィムが子獣のに入った。第一王子エドワードは凶暴な爪を持つ前脚が繰り出され少女クウィムが吹き飛ばされると思ったが、少女クウィムは子獣の前を何事もなくゆっくりと進んでいた。子獣が動かなくても前脚が届く距離まで進んだが、鋭い爪を備える前脚が繰り出されることはなかった。

「えーーーーっ⁉︎」

第一王子エドワードは不意をつかれたかのように大きな声を上げた。そこから先は言葉が続かないくらいに驚いていた。常に冷静な対応をする事が信条の彼にとって人生で最も取り乱した瞬間のひとつだった。思わず手に持っていた剣を地に落とし、力なく膝から崩れ落ちてしまった。ティスタは第一王子エドワードの大声を聞いて瞑っていた眼を開けて、眼下に広がる信じられない光景を見て、眼と口を全開にしていた。尻もちをついて座り込み、上半身を支える力も失って、両手を地面について身体を支えた。

 しかし魔王レヴィスターだけは少女クウィムの行動と状況に少しも狼狽える事なく、何事もなかったように眼下を見つめていた。

 少女クウィムは後方の岩場で繰り広げられていた大人達のドタバタを知る由もなく、速度を変える事なく進んで行った。彼女の位置は子獣の前から横へ変わりそして後方へと変わった。それでも火炎虎フレイムビーストの子供は少女クウィムに襲い掛かることはなく、彼女の歩みを眼で追うだけだった。彼女が自身の横に差し掛かると首を自身の右横に向け、彼女が自身の後方へ移動すると身体を回転させ、ずっと視線を送り続けた。その姿は飼い慣らされた家畜のように従順だった。

 少女クウィムはさらに進んでいき、地面にめり込むようにして息絶えている親獣の頭部分に辿り着いた。彼女の背後には付き従うように付いてきた子獣が彼女より前に出て、親獣の鼻面を舐め出した。少女クウィムは巨大な火炎虎フレイムビーストの胴体部分の側に右膝をついて座って精神を集中させた。それは子獣へ施したのと同じ魔法を発動させる準備で、子の3倍の大きさの親も復活させようとしていた。

 第一王子エドワードとティスタは絶句する状態がずっと続いていた。もう声も出せなかった。ただただ少女クウィムの行動が謎で、彼らにとって理解できる範疇を大きく超越していた。

 2人と魔王レヴィスターが見つめている中で少女クウィムは集中を高めていった。彼女の20倍近い巨躯を有する火炎虎フレイムビーストに対する治癒と回復の魔法であり、非常に大きな力が必要だと思われた。それは彼女が持つ精神力を全て注ぎ込む程の力が必要であり、親獣を復活させた後に倒れ込んでもおかしくなかった。子獣は彼女を襲う気がないようだったが、親獣が同じだとは限らなかった。精神力を使い果たした少女クウィムが呆気なく親獣に襲われて殺される可能性が高いと思われた。

 そんな心配をよそに少女クウィムは集中力を急激に高めていった。全身の皮膚の感覚が弱くなり、微妙な浮遊感を感じ、周囲の騒音が消え、視界が次第に狭くなっていった。親獣の腹部に右手を当てて、魔法の呪文スペルを唱え始めた。彼女の呪文スペル魔法語ルーンとも精霊語スピリチュアルとも違い、神聖語ホーリーでもなかった。第一王子エドワードには少女クウィムの魔法言語がさっぱり分からなかった。ティスタも聞いた事がなく、優秀な彼女の知識を持ってしても魔法言語の体系内で分類できそうになかった。

 少女クウィムは親獣の腹部の上で両腕を地面と平行に伸ばして両手を合わせていて、その手のひらから白い光を発光させた。それは治癒キュア回復リカバリーを同時に施す回復魔法の光で、彼女の手のひらの中で徐々に強く光り出し、やがて手から溢れ出して、彼女の上半身と同じくらいの大きさの光球になった。そして白い光球は親獣の腹部にゆっくりと吸い込まれていった。光で見えにくかったが、少女クウィムが両手をゆっくりと下へ降ろし、獣の腹部に当てがったからだった。

 すると親獣がピクピクと全身を震わせながら微動し出して、意識を回復させたのが分かった。鼻面を舐めていた子獣は舐めるのをやめて、親獣から少しだけ距離を取って様子を見守った。親獣は頭部を地面から上げて、震えてブレながらも前脚を立てて上半身を起こし、続けて後脚も同じようにして立てて全身を起こした。

 少女クウィムは自ら発動させた魔法の影響が大きく、その場から動くことが出来なかった。

 第一王子エドワード少女クウィムが親獣の前足の鋭い爪の餌食になるのと思い絶望していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る