第036話 背後

『圧倒的な暴力の前に抗う方法はない』


 巨大な絶壁の麓付近には幾多の小川が流れ、それが次第に統合されて数本の川となり、半島の樹海を全体的に常に潤し、膨大な生命を根幹から支えていた。大陸と断崖で隔絶されたこの半島は水分を多く含んだ湿った気候で、植物が所狭しと生い茂り、多種多様で豊富な生態系を作り出していた。

 ある小川の片側の岸には2階建ての家屋ほどの崖が続いていて川岸が狭く、崖の上から小川を見下ろせるようになっていた。対岸はなだらかな坂になっていて、両岸の傾斜は非常に対照的だった。

 太陽が少し傾き出してはいたが、明るさはまだあり、ほとんどの生命が活動するのには十分な環境だった。


 靄のような白い光をまとった人間の後姿を崖下に見ていた。人間は前方に全神経を集中しているようで、こちらに気付く気配はなかった。慎重を期して音を立てないように静かに、だが着実に人間に近づいた。人間は崖を背にする事で前方だけに集中できる環境にいると思い込んでいるようで、背後から見るととても無防備な状態で背中を晒していた。

 あと1完歩で飛びかかれる間合いに入れるという場所で、人間の前方から人間を目掛けて火球ファイヤーボールが飛んできた。人間と対峙している火炎虎フレイムビーストが放った火炎息吹ファイヤーブレスの1種で、やや小ぶりな火球ファイヤーボールだった。人間は不意をつかれたようだったが、狭い河原で自身の右側へ飛び込むようにして何とかかわした。火球ファイヤーボールは崖に衝突して小規模の爆発を起こして崖と地面の表面を焦がした。人間はその破壊力に驚いたようだったが、これまでと変わらずに全精神を前方に向けていた。


 先日の龍息吹ドラゴンブレスと比較するとかなり小さな威力だったが、それでも人1人を簡単に殺傷できる破壊力は充分にあった。怪物モンスター達の吐く息吹ブレス系の攻撃は呪文の詠唱を必要とする魔法と違ってが見えにくいために不意をつかれる事が多く、火球ファイヤーボールの威力の範囲外にギリギリで避難できたのは幸いだった。火球の炸裂した辺りは川原が大きく窪んで小石が吹き飛んで土が剥き出しになり、崖も小さく窪んでいて、真っ黒になって焦げ臭かった。火炎虎フレイムビーストはカルドの回避行動に合わせて飛びかかれる距離に一気に間合いを詰めて、6本の脚で地面を蹴って襲いかかった。先程と同じように2本の左前脚を振りかぶって、カルドの頭と胸の辺りへ振り下ろした。カルドは咄嗟に頭を守る為に右手を上げて防御して、自らの左側に小さく飛んだ。獣の左前脚の鋭い爪はカルドの右下腕と右脇腹をかすめた。「キィィーン」という金属の擦れる音が辺りに響き、カルドの聖衣は爪の当たった部分が切り裂かれたが、その下には金属製の小手と胴当てが仕込まれていて、カルドが傷を負う事はなかった。それでも爪が当たった衝撃で一瞬だけ息が詰まった。火炎虎フレイムビースト空振りした左前脚の影響でバランスを崩して、カルドがいた川原に左上半身がやや突っ込む形となり、右前脚と後脚で強く踏ん張らなければならなかった。左肩が地面につきそうになる程身体が傾き、その体勢で何とか持ち堪えてから左脚を地面につけて体勢を立て直して、攻撃をかわした人間を眼で追った。

 火炎虎フレイムビーストの一連の動きの僅かな隙をカルドは見逃さず、両腕の小手のボタンを押してバネ式の仕込刃を出した。それは下腕とほぼ同じ長さの小型の剣で、1度発出させると溝にはまって強固に固定され、戦闘の衝撃に耐えられる頑丈な造りになっていた。僧兵ムンクは神官であるために専守防衛が基本となるが、カルドは攻撃しなければこの場を凌げないと感じていて、体勢を立て直している火炎虎フレイムビーストに攻撃を仕掛けた。カルドの動きに呼応した獣は重心のかかっていない右前脚を振り回したが、立て直し途中の体勢だった為に、威力のない的外れな対応となってしまった。カルドは獣が振り回した右前脚を冷静にかわしてその下方に潜り込み、両手を胸前で組むように合わせてから、火炎虎フレイムビーストの右足の付け根を目掛けて両手を大きく広げ、仕込刃の切っ先で傷を付けた。火炎虎フレイムビーストの身体から鮮血が噴き出してカルドの服に赤い縞模様を作った。苦悶の表情を浮かべて雄叫びを上げた獣は痛みの為にうまく踏ん張る事ができず、振り上げた右前脚2本を地面に下ろした。それに巻き込まれないように左横に転がりながら回避したカルドは、さらに体勢を悪くした獣に追加攻撃する為にすぐに立ち上がった。

 このチャンスを逃さないように攻撃の体勢を整え、獣に向かって利き足の右足で大地を強く踏み切った時、突然カルドの右側から火球ファイヤーボールが飛んで来た。それは目の前の火炎虎フレイムビーストが先程放ったものの2倍程の大きさで、カルドの右膝からつま先までを捉えた。その影響でカルドの身体は頭を中心にして横回転しながら小川の中ほどに飛ばされた。火球ファイヤーボールの当たった箇所の服は黒く影落ちてしまったが、飛ばされた先が小川のだった事と、聖力抱擁ホーリーの魔法の加護のおかげで、身体へのダメージはほとんどないのが救いだった。

 カルドが火球ファイヤーボールの発出されたであろう方向を睨みつけると、そこにはこれまで相手にしていた火炎虎フレイムビーストの3倍近い大きさの同種がカルドを睨み返していた。どうやらこちらがこの種の成体で明らかに体躯の身入りや迫力が違っていた。カルドはこれまで子供の火炎虎フレイムビーストを相手に奮戦してようやくやや優勢だったが、その相手の大人である成体が現れた事で一気に目の前が暗転した。カルドの体格では崖となる川沿いの岩壁は新たに現れた火炎虎フレイムビーストにとっては段差程度で、何の躊躇もなく崖上から飛び出してカルドの方へ向かって来た。その動きは巨体に似合わず非常に俊敏で、充分に間合いがあると踏んでいたカルドの想像を軽々と超えて、ほぼ一瞬にして間合いを詰めて来た。軽く引っ掻くように振り下ろされた2本の右前脚は人間の背骨を軽くへし折る程に強力で、カルドは水面に飛び込むような勢いで地面を転がって必死にかわした。すると、交わしたその先に子供の火炎虎フレイムビーストが飛びかかり、カルドの頭部を目掛けて左前脚2本を突き刺すように振り込んできた為、カルドは両腕の仕込み刃で受け流してかわした。それからすぐに立ち上がって、川沿いの崖へまっしぐらに走った。崖に辿り着くとすぐに振り返って岩壁を背にして向き直り、2頭の獣に相対した。

 「これは死ぬかもな…」とカルドは自分の置かれた状況を冷静に分析し、可能性の高そうな結末を導き出していた。子供の火炎虎フレイムビーストでも手こずっているのに、レベルが段違いの大人まで相手にするのは到底無理だと思われた。カルドは緊張で全身がチリチリと燃えているような感覚になった。これまで感じた事のない感覚で本能的に「死地にいる」と身体が感じているのだと思った。ここでカルドはエドワード王子に危険が及ばないように少しでも小屋から離れるべきだと考えだしていた。そう考えると彼の現在地は小屋を背にしておらず、真逆の位置になっていた。獣達がいきなりカルドに背を向けて王子達のいる小屋の方へ向かうとは思えなかったが、自身を犠牲にして獣達を小屋と反対側へ引き連れる事は出来るはずだと考えた。そうすると今自分の背を預けている崖の方向へゆっくりと退却するのが獣達を王子から遠ざける方法なのだが、川崖はよじ登れるような高さではなく、真後ろへ遠ざかることは不可能だった。首を左右に振って崖の切れ目や登れそうな部分を探してが、2匹の猛獣に気を配りながら崖の詳細を把握することは非常に難しく、ほとんど一瞬の視線変更でそれを見つけることは出来なかった。カルドの絶望はさらに増加した。何故なら俊敏な2匹の獣から逃走する事は不可能で、自身を囮にして王子から獣達を遠ざける事も難しかったからだ。その考えが身体中を駆け巡るとカルドは全身が小刻みに震え出した。果たしたい思いを遂げることができそうにはなく、逃れることができそうにない死が迫っていた。カルドの強い忠誠心を持ってしてもこの絶望的な状況を目の前にして冷静な精神状態を保つのは難しかった。それでもカルドは我を忘れて敵に背を向けたまま逃亡するようなことはなく、戦闘における冷静な判断はできていた。

 2頭の獣もカルドの持つ雰囲気を感じ取ってなのか、距離を微妙に詰める程度でほとんど動かなかった。火炎虎フレイムビーストの子供がカルドの右手にいて、親が正面にいたので、カルドは自身の左側へジリジリと後退していた。半分ほどは本能的に、残り半分ほどは意識的に、2頭から遠ざかろうとしていた。それは仲間達のいる小屋からは遠ざかることを意味していたが、獣を引きつけて仲間達から遠ざけることも意味していた。カルドと獣の親子の距離は変わらなかったのでジリジリと小幅に移動していた。この遅々として進まない戦況に対して子の火炎虎フレイムビーストが痺れを切らしてカルドに襲いかかった。小型の獣が地面を蹴る音に反応したカルドは自らの右側に反射的に身体を向けて、振り下ろされた左前脚2本を身体を捻りつつかわしながら爪先を避けた。避ける際に獣の脚を左手で押す様にして受け流したので、獣は勢い余ってカルドの左側は大きく吹き飛んだ。獣の左手はカルドの先の地面に突き刺さり、砂や小石を噴き上げて爆発したようだった。

 飛び散った砂で獣が見にくくなる中でカルドは背後の殺気を感じ取っていた。

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