第035話 遭遇

『危険は常にすぐ側に寄り添っている』


 魔王レヴィスターの城を出発して2日目の昼前から視界に捉えていた『分断の絶壁』の麓まで辿り着いたのは夕方近くになってからだった。太陽が西方にやや傾いて世界を赤みがかったオレンジ色に染め、その作り出す影は少し長くなっていた。簡素だが整備された街道を順調に進んだ一行の前に、小さな丸太小屋が見えてきた。それは丸太で組み上げられたロッジで、簡易的に寝泊まりができるようになっていた。窓や扉は木の板でしつらえられており、室内は外光を取り入れる事が出来ない造りだった。ベッドなどはなく持ち込んだ寝袋を敷いて雑魚寝するためのロッジで、住居としての機能はほとんど持ち合わせていなかった。隣には柱と屋根で簡潔に作られた厩舎があり、馬留として2頭分の馬が休めるようになっていた。

 御者をしていたティスタは器用に2頭の馬を操り、馬車を次第に減速させてロッジの前で静かに停車させた。それから他の4人が速やかに荷台から降りて、カルドとエドワードは厩舎で寝藁を準備してから馬を休ませ、レヴィスターとクウィムは全員の荷物をロッジ内に移した。

 魔王レヴィスターが提唱した『分け隔てなく役割を分担する』というコンセプトが馴染んできていたが、カルドとティスタは自国の王子に御者や荷物運びをさせている事に心苦しさを感じていた。ティスタはその感情をほとんど表に出さなかったが、カルドはティスタと2人の時に感情を露わにしていた。

「レヴィスターはエドワード様を王族扱いせずに失礼な奴だ!」

と言って薪割りに怒りをぶつけたりしていたので、その隣にいたティスタがたしなめた事もあった。それでも魔王レヴィスターの協力が絶対に必要な状況を考慮して、他の3人にその姿を見せる事はなく、編隊パーティーの表面上は


 この日の夕食の調理担当はカルドとティスタだった。2人は手分けして準備を進めていた。ティスタは調理の下準備で食材の切り分けをして、カルドは水を確保する為に少し離れた小川へ向かった。小川は緩やかな坂を下った先にある緩やかな流れの沢になっていて、人の足で5〜6歩程の幅でスネ位の深さだった。水辺はほぼ平地と言う程度に傾斜がなく、非常に採水しやすい環境だった。カルドは採水用の大きめの甕を両手に掴んで小川の中央部に降り、1つ目の甕の口を川上側に向けて水中に静かに沈めた。水が甕の半分程に入り込んだ事を確認したカルドは、その甕を水中に立てた。そして甕を満杯にする為に、首に下げてきたヒシャクで川水をすくい上げて、水を追加していった。この沢は水飲み場として作り上げられたかのような場所で、カルドの採水はとても順調に進んでいた。

 人間が採水しやすい絶好の場所であるという事は、他の種族にとっても飲水しやすい場所である事と同義だった。1つ目の甕に最後のヒシャク1杯分の水を注ごうとしていた時、獣の唸るような声が小さく水辺に響いた。カルドはその声が発生した方向に身体を向けて、最警戒の意識で低い体勢で身構えた。

 その視線の先には大きな虎型の獣がいた。それは火炎虎フレイムビーストと呼ばれる虎で、別名を龍虎ドラゴンタイガーと称され、ドラゴンのように炎を吐くという特徴があった。体長はロッジの側にある厩舎程あり、馬車馬2頭分の大きさがあった。口は大きく裂けてサーベルタイガーのように大きな牙を左右に持ち、口元から焦げ臭い臭いが立ち込めていた。虎柄の紋様は黒で、それ以外は炎を思わせる赤い毛で覆われていた。前脚が2対(4本)あり、つま先には鋭くて硬い爪が生えていた。後脚は1対(2本)だが、前脚と違って人間で言うところの太腿部分が非常に太くて頑丈な造りで、巨体にもかかわらず俊敏な動きを可能にしていた。尻尾は身体の半分ほどの長さがあり、その先は松明のような炎が灯っていた。

 カルドはこの凶悪な獣を知識として知っていて、尻尾の炎が松明程の大きさとなっている状態は攻撃態勢である事を示していた。それから今の距離感では獣の射程距離に巻き込まれていると感じていた。小川の中央部にいるカルドは火炎虎フレイムビーストから若干見下ろされる配置で、スネまで水に浸っていて対岸まで2~3歩の距離がある為に水に脚を取られて素早く動く事は出来なかった。知識の中にあるこの獣の俊敏性を考えると獣と反対側の岸に辿り着く前に追いつかれる事が容易に想像出来たので、カルドは逃走する選択肢を消さざるを得なかった。ドラゴンと比べると強力ではないとされる火炎息ブレスも小屋程度なら吹き飛ばす威力はあると聞いていて、足場の悪い今の状況ではそれを回避する事も難しそうだった。まさに絶体絶命と言って良い程不利な状況だった。

 火炎虎フレイムビーストが今までよりも頭を低く下げた。それに合わせて4本の前脚もやや下がり、その分だけ尻尾は先程よりも高い位置で燃えていた。それは猫が獲物に襲い掛かる手前の動作だった。

 カルドはその動きを見て自分の位置を甕の横から後ろへと移動し、火炎虎フレイムビーストと自身の間に甕を置いた。カルドの膝ほどの高さの甕が盾になる事はなかったが、それ以外に遮蔽物はない為、無意識のうちに甕の後ろへ移動していた。そしていつも戦闘前と変わらずに呟いた。

「全能なる白き神よ。従順な下僕なる我にご加護を」

 火炎虎フレイムビーストはカルドに向かって大きな声で咆哮した。それは獲物を威嚇してその反応を見るという猛獣が良くやる行動で、その反応で獲物のレベルをはかり対処を決めることが多いとされていた。

 獣が発した大きな咆哮に対して覚悟を決めていたカルドは全く動じなかった。それどころか反応を見ている火炎虎フレイムビーストの僅かな隙を見逃さず、防御の呪文を唱えた。

「崇高なる全知全能の神に謹んで申し上げる。迷える貴信徒をお導き頂く為に、御身の絶大なる御力を持って、この身をお守り給え。聖力抱擁ホーリー

呪文を唱え終えると同時にカルドの身体は白色で淡い輝きの光に包まれ、遠目には水蒸気をまとっているように見えた。小川の中央で膝を曲げて腰を落とし、左手を胸前に突き出し、右手を右脇に付けて、攻撃体制を取る獣に正対した。

 それを見た火炎虎フレイムビーストは頭を下げた態勢のままカルドの様子を窺っていた。白い光に包まれた人間を不審がり、自分の咆哮に腰を抜かしたりせずに正対している事にやや戸惑っていた。僧兵ムンク火炎虎フレイムビーストに緊張した空気が生まれ、どちらかが動き出すのを待つ、チキンレースのような間合いになった。その時カルドの身体2つ分程上流で川魚がパシャっと音を立てて空中に跳ねた。カルドは火炎虎フレイムビーストから視線を外す事は全くなかったが、ほんの一瞬だけ意識をその音に移してしまい、獣との間合いでの集中を減らしてしまった。

 火炎虎フレイムビーストはそのほんの一瞬を見逃さずに6本の脚で大地を蹴り、瞬く間にカルドを前脚で捉える事の出来る距離まで詰めた。跳躍の間に左前脚の2本をカルドの頭と腹をめがけて振りかぶっていた。カルドは一瞬の集中のズレを点かれたが、至って冷静だった。脚元にある水甕を右脚で火炎虎フレイムビーストの顔に向かって蹴り上げ、敵の集中に隙を作り、右から繰り出されようとしていた獣の左前脚の攻撃を避けて、自らの左側に転がった。

 火炎虎フレイムビーストの左前脚が繰り出した攻撃は本来の標的を捉える事は出来なかったが、勢い余ってカルドがいた付近の小川の川底に当たった。その破壊力は凄まじく、川底が爆発したように弾け、水や石や泥をまとめて空中に巻き上げ、その周辺の川の流れがほんの一瞬だけ止まってしまったかのようだった。

 カルドは頭から全身がずぶ濡れになったが、火炎虎フレイムビーストの初撃はかわした。そしてそのままの勢いで自分から近い側の小川の岸に上がり、水に足を取られる小川の中から脱出した。それから両手に着けていた小手のボタンを押して仕込み刃を出して、獣に正対して戦闘の態勢を整えた。

 火炎虎フレイムビーストからすると、蹴り飛ばされた水甕による身体的な少しも被害はなかったが、攻撃の最中に気を取られたのは事実だった。初撃をかわされた火炎虎フレイムビーストはそれまでカルドのいた小川の中央部に着地して、元自分がいた側の岸に上がった人間に向き直って態勢を整えた。先程と同じように頭から上半身を低くしていつでも飛びかかれる態勢となり、下顎は流れで若干上下する水面に触れて濡れていた。

 再びカルドと火炎虎フレイムビーストの間に緊迫した空気が醸成され、またもや睨み合いが始まった。

 カルドは睨み合いながら対岸へ移動する方法を考えていた。現状では仲間達がいる場所と反対側の岸にいて、理想的だと考える「徐々に仲間達の元へ退却する」事が出来なかった。仮に仲間が異変に気付いて駆けつけたとして、対岸にいる事で形勢が良くなる可能性は低いと思われた。聖力抱擁ホーリーの魔法の力を借りて強行突破する事を考えたが、火炎虎フレイムビーストの攻撃力と俊敏性を考慮するとは難しそうだった。


 火炎虎フレイムビーストに全身の神経を集中させるカルドの背後には危機が迫っていた。

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