第031話 好機

『この機を逃す事はできない』


 純白王国フェイティーの北部には領土全体に横たわる巨大な山脈が聳え、人類の侵入を拒絶していた。山脈はその険しさを保ったまま南部に向かって一部が伸びたように広がっていて、王国の平野部はアルファベットのCのようになっていた。王都グランシャインはそのCの最下部付近にあり、領土の南部中央に位置していた。暗黒帝国ブレイクに近い商業都市コームサルと最も遠い宗教都市リガオンの中間にあり、地理的にも役割的にも正に中心だった。その中心都市では王都グランシャイン軍とドラゴン達の攻防が続いていた。


 王都グランシャインで発生した白く輝く光の塊は王城の構造から外部に漏れる事はなく、ほぼ全ての者がその変化に気付く事はなかった。その変化の真っ只中にいた冒険王ジョージとエリスは強烈な白光に包まれ、空中を浮遊しているような感覚になった。自分の足が石床に接している感覚がなくなり、自分の頭が天井側にあるという感覚もなくなった。眼を開けている事ができなかったので、全てを白光に委ねるしかなかった。2人は強い光の影響で認識できなかったが、光の色が白から銀に変わり、その光量は更に大きくなった。光の量が最大になった後、銀光はフェードアウトしながら薄くなり、やがて何事もなかったように消えた。すると2人が感じていた浮遊感とは裏腹に、周辺が光り出す前と変わらず、石床にしっかりと立っている事に気づいた。2人とも眩しくて閉じていた眼をゆっくりと開けた。


 冒険王ジョージとエリスは目の前の光景に唖然とした。何故ならそこに1人の男らしき人物が立っていたからだった。突然の出現に2人とも咄嗟に武器を抜いて構えた。その者の格好が純白王国フェイティーのものではないとすぐに分かったからだった。しかしそれは暗黒帝国ブレイクのものにも見えなかった。まして亜人種デミヒューマンのものでもなかった。

 これまで見た事のない異様な容姿だった。黒光りするこの世のものとは思えないのような材質に全身を覆われていて、それが布なのか皮膚なのか判別がつかなかった。月光を細かく反射しているように見え、全身が鱗に覆われているようにも見えた。身長は冒険王ジョージよりも2割程度高く、人間と基準すると、非常に大きな部類だった。鎧や衣服の類を身につけていないように見え、武器らしきものを携えているように見えなかった。筋肉質な男性に見えたが、身体の細さは女性のようだった。頭のシルエットはほぼ丸く、髪の毛があるかどうかも判別出来なかった。

 冒険王ジョージとエリスから見ると月光を背にして対峙していたので、身体の前半身が影となって見えにくかったが、眼の部分だけが夕陽のように赤く光っていた。瞳孔の様子が分かりにくく、2人を見つめているのかどうか不明だった。

 2人とも眼の前の存在に恐怖しか感じなかった。に思考が停止しかけていた。世界を冒険して多くの事象を見聞きしてきたこの2人がこんな状態に陥るのは非常に珍しく、ほとんどありえない事だった。全身が小刻みに震え、悪寒が止まらず、冷や汗が全身からびっしりと出ていた。無意識のうちに口を開いてしまい、呼吸はとても荒くなり、ほぼ肩で息をしている状態だった。まるで一般市民が突然戦闘に巻き込まれてしまい、対処方法が分からずに固まっている姿に良く似ていた。

 動けずにいる2人を尻目にがゆっくりと近づいて来た。何故か足音はしなかった。そして、数歩近付いた所で立ち止まった。先程まで逆光で見えにくかったの姿が見えた。やはり全身が黒光りする膜のようなものに覆われていて、それは皮膚のように見えた。頭に髪の毛はあるようだったが、それも膜のような皮膚に包まれていたので、髪型や髪色ははっきりとしなかった。顔立ちは人間よりもエルフに近かったが、黒光りする皮膚の為に人類とは違う種族のようだった。眼球全体が赤黒く光っていて、視線がどこを向いているか判別するのは不可能だった。鼻や口は人類とさほど変わらなかったが、膜のような皮膚の影響で穴が開いていないようにも見えた。身長は非常に高く、細身で、筋肉質だった。上半身は男性のように胸板が厚く、下半身は女性のように細くて長かった。比率は上半身が3に対して下半身が7位で、これも人類と違っている点だった。腕は人類と比較するとだいぶ長く、掌が膝のあたりまで伸びていた。衣服や鎧の類は身に着けておらず、靴などの履物も履いていなかった。

 冒険王ジョージは近付いて来たにどのように対処して良いか分からず、頭の中はパニック寸前だった。近付かれるほどに全身の震えが増している気がした。剣の間合いまであと2歩ほどの位置で立ち止まっているに攻撃を仕掛けるべきではないと感じていた。それは『到底敵わない』いう本能からで、エリスも同じだった。剣を持つ両腕が鉛のように重く感じられ、全身が呪縛の呪いをかけられたように動かなかった。


 が右手を銀色に光っていた石床に向けて少しだけ上げた。冒険王ジョージとエリスはビクッとなって半歩程後退したが、は彼らの反応を全く気にしなかった。

【ここにが…】

その声は突然に冒険王ジョージとエリスに届いた。それは音が発せられて鼓膜を揺らしたのではなく、頭の中で鳴り響いた感じだった。想定外の出来事に背筋がゾクッとした冒険王ジョージとエリスは思わずお互いの顔を見合わせた。

「聞こえたか…?」

「ええ、聞こえたわ」

「しかし、どこから?」

「恐らくは眼の前の…」

エリスはそこまで言ってからそれ以上を言う事を躊躇した。眼の前で右手を動かしたを口にしてはいけない気がしたからだった。エリスは唾を飲み込んでから

「いっ、一体…、って何の事かしら?」

「さあ…、何の事だかさっぱり…」

冒険王ジョージは視線をに向けたまま答えた。

「たぶんの事を言っているんだろう」

エリスは冒険王ジョージの直感と予想に素直に頷いた。

「そうね。それ以外に考えられない。だとしたら、絶対に好意的な相手じゃないわね」

冒険王ジョージとエリスは眼の前にいるを敵だと認識出来た時から思考力が復活した。するとこれまでの全身の震えが嘘のようにピタリと止まり、重いと感じていた身体の感覚は平常に戻っていた。

 その時が何かを口にし出した。それは2人にとってとしてしか認識出来なかったが、神官魔法プリーストマジックを駆使するエリスには呪文を唱えているように感じた。しかしそれは彼女が使い慣れた神官魔法プリーストマジックの言語ではなく、物質魔法ルーンマジックの言語でもなく、精霊魔法エレメントワードに使われる精霊の言語でもなかった。少し聞き覚えのあるエルフやドワーフの言語でもなかった。ゴブリンやオークなどが操る言葉かもしれなかったが、エリスにはどんな言語を使っているのか分からなかった。

 らしき喋りを止めるとまた石の床が銀色に光り出した。冒険王ジョージが呪文を唱えた後に見せた光は徐々に球体のように広がったが、今回は石床即ち地面から光の柱が立つように力強く光った。冒険王ジョージとエリスの2人は不意に強烈な銀光を浴びて眼が眩んだ為に一瞬だけ視力を失ったようになった。すぐに眼を閉じて真っ白とも真っ黒とも言える視野の回復を待った。眼を閉じていても光は視神経に届いていて、光は更に力強くなっているのが分かった。それでも2人の眼は次第に慣れてきてうっすらと眼瞼を開いた。景色はほぼ真っ白に近い銀光に包まれ、ほとんど何も見えなかったが、の黒いシルエットだけはぼんやりと認識できた。右手を少しだけ上げた体勢のままで、あれから動いていないようだった。

 更に眼が慣れた冒険王ジョージに向かって間合いを詰めて切りかかった。死守しなければならないに対して何かをしている眼前の敵を阻止するのは当然の行動だった。は武器も防具も持っていないのでこの時を逃す事は出来ず、冒険王ジョージの本能的な反応による攻撃だった。

った」

冒険王ジョージは間合いを詰めて剣を振り始めた時にそう感じた。それはこれまでの剣士としての経験で培われた直感だった。これまで彼がこの間合いで詰めて仕損じた事はなかった。彼の頭脳ではの首が宙を舞うイメージが浮かんでいた。


 王城の廊下の膨らんだ部分に金属独特のキーンという音が響き渡った。

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