第029話 笑顔

『暗く絶望な状況の中にも希望に満ちた光のような笑顔が咲く』


 月光を反射して輝く湖面を背にして佇む魔王レヴィスターの城は静かに時が経つのを待っているようだった。白い光を煌々と放つ満月は薄緑色の湖面を白銀に染め、さながら凍ってしまったかのようだった。柔らかな風によって湖面が若干揺らいでいるために実際に氷結した訳では無い事が確認できたが、それも月明かりを頼りに湖面を凝視しなければ分からない程湖面は凪だった。


 魔術師ルーンマスターのティスタに充てがわれた個室は湖側に面していて、彼女は凍ってしまったように見える湖面を不気味に感じていた。母国の純白王国フェイティーで夜を照らす月もここと同じように白く輝いていたが、水面を白く程に強い光を放つ事はなかった。この半島よりも高地の断崖絶壁上にある母国の空の方が月に近いはずだが、不思議な事にここで見る月の方が大きくて近く感じられた。

 高地である大陸では当たり前である事がこの半島では当たり前ではなく、これまで培ってきた感覚や慣れ親しんだ常識が通用しなかった。魔王の樹海に入ってから出会った怪物モンスター達は母国で遭遇したそれよりも強力で凶暴なものが多く、同じ種類であっても保有する基本的な能力が高かった。精鋭として選ばれたはずの多くの仲間が命を落とし、王子を含めて3人しかここに辿り着く事が出来なかった事を考えると、この半島を生き抜くにはこれまでよりも高いレベルが要求されるのだろう。そして自分自身がそのレベルに達していないという感覚が強く、時折心を折られそうになっていた。軍隊所属の魔術師ルーンマスターとして教育を受け始めた頃に『恐怖は絶望を生み、絶望が生存への執着を削ぐ。故に恐怖に支配されるな』と教わったが、今になってそれをしみじみと感じていた。思わず両腕を胸の前で組み、手と反対の二の腕を掌できつく抱きしめて、折れそうな心を奮い立たせていた。

 

 その時部屋の入り口の扉を3回ノックする音が聞こえた。硬い木製の扉は落ち着いた音を立てた。二の腕を抱きしめていた両手を離してだらりと真下へ下ろし、身体ごと扉の方を向けてから「はい」と返事をした。

「ティスタ、案内しに来たよ」

それは魔王レヴィスターと一緒に暮らすクウィムの声だった。彼女は天真爛漫な性格で緊張している空間を和ませる独特の感覚を持つ少女で、ティスタは彼女に良い印象を持っていた。

「扉は開いてるわ」

身の危険を感じない魔王の館内なので、扉を施錠していなかった。その台詞を聞いてからクウィムはすぐに部屋に入って来て、ニコニコしながらティスタの方へ真っすぐ近づいて来た。クウィムはティスタの前まで来て、自分より背の高いティスタを少し見上げながら、案内の内容を口にした。

「お風呂の準備が出来たよ。長い間森を彷徨って汚れているだろうから、綺麗にしてきたらどうかな?」

クウィムの親近感のある喋り方や上目遣いと爽やかな笑顔でティスタの気持ちは和らいでいた。王国を出発してから半島に降りて魔王の樹海を彷徨い、汗や泥や血にまみれながら進んで来たので、だいぶ野性的な体臭となっていた。それは冒険しているので仕方なかったが、魔王の館のように安全なエリアにいるのであれば身だしなみを整えておきたくなるのは当然の事だった。ティスタはクウィムの案内に従う事にした。

「それはありがとう。すぐに着替えを準備するから、浴室に案内してくれるかな?」

ティスタの答えにクウィムは即答した。

「うん、待ってるよ。準備出来たら教えてね」

少女は笑顔を維持したまま答えた。ティスタは荷物を入れた大きめのバックパックから速やかに着替えを取り出して、小さな巾着袋にそれを入れ替えて手に持ち、そそくさとクウィムの元にやって来た。

「お待たせ。じゃあ、浴室まで案内してね」

少女の笑顔に負けないような満面の笑みを返しながら、少女に浴室への案内を依頼した。


 純白王国フェイティーの王子に充てがわれた部屋はティスタの部屋と廊下を挟んで反対側で、窓からは深い森が見えた。僧兵ムンクのカルドと同部屋でティスタの部屋より倍以上の広さがあり、大きめのベッドが窓と扉のない2面の両壁側に1台ずつ設置され、部屋の中央には円卓とそれを囲むような円形のソファが置いてあった。

 そのソファにエドワードとカルドはそれぞれベッドを背にするようにして向かい合って座っていた。部屋には簡易的な台所があって飲み物が置いてあり、カルドはそこから2つのグラスに葡萄酒ワインを注ぎ、円卓まで運んでいた。エドワードは手渡されたグラスにすぐには口を付けなかったので、カルドもそれに倣って同じように口を付けなかった。

「エドワード様…。どうなされましたか?」

葡萄酒ワインを口にしない王子に対して疑問を口にした。魔王レヴィスターへの助力要請が受け入れられ、休憩する部屋も充てがわれていたので、カルドは少しだけ緊張が和らいでいたのだが、王子はまだ緊張が続いているようだったからだ。質問に応えて王子が口を開いた。

「ここは気になる事が多くてさ。レヴィスターを説得している時はその事に必死で気付かなかったけど、僕の常識が通じない事ばかりだ」

チラッとカルドを見てから続けた。

「レヴィスターもクウィムという少女もとても異質だ」

一呼吸置いてから

「レヴィスターはドラゴンを威圧して引き下がらせたり、剣を持っているのに魔法を使っている」

カルドが頷き、エドワードは続けた。

「クウィムは呪文を詠唱せずに傷を治してくれた」

その事にカルドが付け加えた。

「しかもあの少女は治癒キュア回復リカバリーを同時に行いました。神官魔法プリーストマジックの常識ではあり得ません」

エドワードはカルドの話に頷いた。

「レヴィスターもクウィムも世界ガーデンの常識から外れている気がする。暗黒帝国ブレイクを打ち破るためには彼らのようなに頼るしかないのかもしれない。まあ、少女に戦ってくれという気はないけれど…」

カルドは王子の話に同調した。

「前線の商業都市コームサルだけではなく王都グランシャインまで堕ちたとなると、暗黒帝国ブレイク軍の力は相当なものだと考えられます。それをひっくり返すとなるとそれ以上の力が必要となりますので…」


 その時部屋の扉を叩く音が3回響いた。ティスタの部屋と同じ木製の扉は同じような音を発した。その音にカルドが反応した。

「開いておるぞ」

その声が届いたようで扉がすぐに開いた。クウィムが入ってすぐの場所で立ち止まり、要件を伝えた。

「お風呂の準備が出来たよ。長旅で疲れているだろうから、ゆっくりと休憩したらいいんじゃないかな?」

クウィムの満面の笑みにエドワードとカルドの緊張感は和らいだ。城の外には凶悪な怪物モンスターが潜んでいるという事を一瞬忘れさせる程だった。カルドが答えた。

「案内をありがとう。準備は痛み入る。大変申し訳ないが、良ければティスタを先に案内したい。こちらの勝手で申し訳ないが、純白王国我が国では入浴は女性が先となっているのだ」

カルドは自国の風習を持ち出した。

「あっ、それならレヴィに聞いてたから、ティスタには先に(入浴を)済ませて貰ったよ」

エドワードとカルドはその情報を聞いて肩透かしを喰らった気分になったが、風習の通りに対応してくれた少女に感謝した。その風習を的確に指示した魔王レヴィスターにも同じだった。入浴の準備を整えてからエドワードとカルドの2人はクウィムの案内で浴場へ辿り着いた。

「じゃあ、ごゆっくり。レヴィとティスタが食事の準備をしているから、私は手伝いに行ってくるね」

と言って可愛い笑顔を残して調理場へ小走りで向かうクウィムを見送って、2人は浴場へ入って行った。2人の顔にも同じような笑顔が浮かんでいた。

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