第018話 戦慄

『忍び寄る恐怖と抵抗する危機感』


 国王と密偵は左の手で握手をした。それは純白王国フェイティーの挨拶の習慣で、同士が行う親密の証だった。密偵の顔は控えの間に入ってからみるみるうちに悲壮になっていき、泣き出す寸前のように見えた。その光景を少し離れた場所から眺めていた大神官はとても懐かしい感覚を覚えながら、2人の動きを静観していた。

 まず国王が口を開いた。

「ありがとう。生きて帰ってきてくれてありがとう。そしてとても辛い思いをさせたようで済まなかった」

「ここに辿り着いたのは運に恵まれただけで私は何もしていない。でもお陰で重大な事態を伝えられる。それには悔しいけどに感謝しなきゃな」

「アイツ⁉︎」

「ああ、それは追々話す。それよりもジョージ、純白王国フェイティーにとって一大事が発生した」

深刻な表情でヴェスは続けた。

「恐らくだけど商業都市コームサル漆黒帝国ブレイクに制圧された」

国王・ジョージは思わず顔をしかめてから、ほんの数秒だけ眼を閉じた。それは犠牲になったであろう市民達の冥福を祈っているかのように見えた。その後力強く眼を開けて強烈な眼力を貴重な情報をもたらしてくれた密偵・ヴェスに向け、呟くように

「申し訳ないが、それは…本当なのか?」

微かな希望と非常に大きな願望を込めて聞いた。いや、こう聞かずにはいられなかった。万が一それが誤報であればそれに越した事はなく、また商業都市コームサルがそんなに短期間で制圧されるような都市ではないと考えていたからだった。せめて「交戦中で劣勢に立たされている」位の状況を望んでいたからだった。

ジョージの台詞と表情から苦しい胸の内はひしひしと伝わってきたが、自分の持つ情報を正確に話す事が密偵の役割であり、この国の進むべき道への足掛かりになると考えるヴェスは情報を包み隠さずに伝える事を信条としていた。そして口を開く前に数回首を横に振ってから「申し訳ないが、それは本当だ」と言った。

その一言に国王は痛みに耐えるようにして眼を強くつぶった。ヴェスと握り合ったままの左手に無意識に力が入った。その力強さにヴェスの左手がと動いたのに気づいてすぐに力を弱め、じわりと握手を解いた。

左手を腿のあたりに戻したヴェスはさらに報告を続けた。

「正確に商業都市コームサルが陥落したのを見届けたわけじゃない。我々、密偵とりはその前に情報を伝えるために街を出て伝来する決まりになっている」

黙ったまま聞いているジョージの眼を見たまま続けた。

漆黒帝国ブレイク軍に侵入されたから王都グランシャインを目指したが、城門を出たところで私の仲間は全員死んだ」

ヴェスを含む商業都市コームサルの密偵達は純白王国フェイティーのエリートであり、その彼らがほぼ全滅する事は想像しにくい現実だった。おそらく想像を超える事態が発生しているはずだ。

「何が起きたんだ?」

ジョージ王はやや緊張の色が帯びた声でそう聞いた。彼の想像を超えている事態はこの世の中でそうないはずだが、少なからず未知への恐怖があったのかもしれない。

その雰囲気はヴェスにも伝わっていた。きっとそれが重大で過酷な事態だと想像して知るだろう。

だが、おそらくこの事態は想像できないはずだ。

上位龍エルダードラゴンに襲われた」

ヴェスは唇を噛み、悔しさが爆発しそうな顔でそう伝えた。あまりに力んでいるので唇から出血するのではないかと思うほどだった。涙が出るのを必死に堪えているようだった。

「えっ…、そっ、それは本当か?」

ジョージは思わず自分の耳を疑った。聞き間違いだと思った。冒険王と呼ばれた彼でも想像できない回答だったからだ。

 ドラゴンは生態系の頂点に立つ絶対的存在であり、人類が対抗できるはずはなかった。巨大な体軀に比例する圧倒的なパワーや強靭な肉体、龍息吹ドラゴンブレスに代表される特殊能力等は世界に匹敵するものはなく、この世の支配者と呼んで良かった。唯一の救いは彼らが人類を捕食しないため、日々の生活に関与しない事だけだった。彼らに出会う事はすなわち「死」を意味し、その運命から逃れる事は不可能だった。

しかもヴェスが出会ったのは下位龍レッサードラゴンではなく更に強力な上位龍エルダードラゴンだった。ドラゴンは人類などの他種族に無関心であり、彼らのさえ損ねなければ被害を受けることはなく、人類の都市を襲撃する事はこれまで聞いた事がなかった。特に上位龍エルダードラゴンはその傾向が強いとされていて、にわかには信じがたい話だったが、命をかけて奇跡の帰還を果たした盟友が嘘を言うとは思えなかった。

あまりの凶報に固まり気味の冒険王に対して密偵は冷静沈着な様子で報告を続けた。

「残念ながら、本当だ」

真剣な眼差しで報告する彼女の表情からジョージは真実だと確信し、そして絶望感に襲われた。数多くの市民と兵が失われたと思われたからだった。彼らを守ってやれなかった無念が心に充満していた。しかし、この国家の王として考えなければならない事は他にもあった。それが彼を正気に戻した。

「そうか…、それは残念だ。それでは任務として質問させてくれ。敵の事はどこまで把握できているんだ?」

国家の為政者の長として敵国の侵攻に対抗するためのスイッチが入った顔になり、非常に思慮深い面持ちでヴェスを見た。絶体絶命の危機から命からがら生還した彼女が正確な状況を把握できているとは思えなかったが、少しでも情報を提供して貰い、対策を考えたかった。

ヴェスは回答に窮した。自分の持っている情報に正確な要素はほとんどないと思われたからだ。

「…。もっ、申し訳ないが、正確な情報はほぼない」

任務の性質上、正確ではない報告をする事は憚られた。ヴェスは自分に課せられた責務を果たせていない気持ちに押しつぶされそうで、心の中で無力な自分を責め立てていた。

彼女の性格を知っている国王はその表情から気持ちを読み取ったかのように、

「分かっているだけでいい。商業都市コームサル上位龍エルダードラゴンの見たままを私に話してくれたらいい」

慈悲深い白き神々の様な眼差しで優しくヴェスを導くジョージ。彼の性格を良く知るヴェスは自分の見たまま、体験したままを話した。


ヴェスの報告を書き終わったジョージは身体が震えそうになっている事に気づき、全身に力を入れてそれを抑え込んだ。これまで恐怖で身体の自由を奪われそうになる事などなかった。上位龍エルダードラゴンという存在は冒険王と呼ばれる純白王国フェイティー随一の騎士にさえ恐れ慄くものであった。

大神官のエリスは身体の震えを堪えていたが、それでも完全に押さえ込む事は出来ず、小刻みに震えていた。実はジョージとエリスがまだ若かりし頃に一緒に冒険していた時に下位龍レッサードラゴンに遭遇してしまった事があった。経験は今より浅かったが血気盛んで肉体は今よりも強靭だったが、戦闘の結果は惨憺たるもので、命からがら逃げ延びるのが精一杯だった。その時にドラゴンが想像を超えた能力を持つ存在であると思い知らされたのだった。

大神官は微々ではあるが震えている自分を奮い立たせて国王を諭した。

「ジョージ!有史以来の純白王国フェイティーの危機だ!敵の襲撃を迎え撃つ準備をしなければっ!!」

大声で力強く上奏してくれた盟友の声に国王はゆっくりと、しかし力強く頷いた。

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