第36話 良星とルシュフの冒険
闇の中で俺たちを待ち受けていたのは、急こう配の下り坂であった。
岩から削り出されたそれは、表面が鏡の様に磨かれていて、ウォータースライダーより滑らかに、俺たちを下へと運び続ける。
「うわああああ」
「ひぃええええ」
滑り台は起伏に富み、急カーブも多数設置され、俺たちに新鮮な恐怖を提供しつづけた。
そのスリルの
ただ、この巨大滑り台には、娯楽用には成りえない、致命的な欠陥があった。
(な、なんて殺意に充ち満ちたスライダーだ!)
安全性に不備ある、というか、ハナから安全思想がない。
必須のはずの転落防止対策が皆無で、それどころか、転落しやすいように傾斜までつけられている始末である。
傾斜は、特にカーブの膨らみに顕著で、乗客を振り落としたい欲求が明白だ。
「ぐ、ううう」
ここが迷夢宮内である以上は、落ちた先にクッションがあることだけは、絶対に期待してはならない。
「ひやややや」
ルシュフは、その小さな身体が幸いして、転落の心配が俺よりは少ない。
そう思っていたのだが。
「あ!?」
奴の背中のハリが一本、スライダーの亀裂に引っかかった。
高速で移動する物体は、ごくわずかな衝撃で、簡単に不安定になる。
高速走行する自転車が、横からのわずかな接触によって、大事故を起こすようにだ。
それと物理的にまったく同じことが、今ルシュフの身体に起きていた。
「た、助けてくれえええ」
軌道を乱し、左ギリギリから右ギリギリへと、危険なジグザグを辿る。
あいつの眼前に迫るのは、本日一番の急カーブである。
「あぁぁれえええ」
カーブの頂点で、ルシュフの愛らしい身体が、ついに空中に投げ出された。
「く、……くそお!」
こういう時、無心に行動できる人間を、俺は心から尊敬している。
『事故にあった人を助けたい一心でしたね。自分の身なんてまるで顧みませんでした』
こういう英雄的セリフを、人生で一度くらいは吐いてみたい。
もっともそれは高望みである。
俺に出来るのは、自分の命も助かる算段をした後で、葛藤の果てに救助に向かうのが関の山。
「え、えええいいい!」
ルシュフがすっ飛んだ所から、俺も自身の身体を飛び出させる。
「あ、天屋?」
空中で、そのカワイイ身体を、ラグビーさながらにつかみ取った。
「君は戻っていろ!」
そのまま、ルシュフの身体をスライダーに投げ返した。
これでルシュフの救助は完了。
問題はここから。自分自身の救助。
俺のスライダーへの復帰は絶対に不可能だから、このまま地の底へ着地するしかない。
中空の俺は、必要な情報を必死に集める。
高度は?!
「うっ……」
想定よりも地下が深い。
着地までは、マンション十階、十五階、二十階、……いや、もっと高い。
いかに
重力による加速で、俺の身体は、みるみると降下速度を上げていく。
「あ、天屋!」
スライダーを滑る、ルシュフの声が、はるか頭上からした。
(大丈夫。大丈夫だ。実地訓練はまだだけど、助かり方は九谷さんから学んでいる)
高所からの落下訓練は、迷夢宮に潜る白魔封士にとっては、必修科目の一つであった。
『いいか、天屋くん。自分の精の限界を超えた高度から落ちた場合には、両足で着地しても絶対に助からん。衝撃を受け止めるのではなく、いなすことを考えろ』
足の裏に、みるみる硬い岩盤が迫って来る。
恐怖の悲鳴を必死にこらえて、俺はタイミングを図る。
「ここっ!」
両つま先に硬い感触があったと同時に、俺は自ら、地面に向けて前転をかけた。
もちろん、この神業も、精の恩恵あってこそである。
落下の衝撃を、回転に転換して、逸らす。
どうにか即死だけは免れた俺だったが、命の危機はまだ続く。
「う、うわああ」
落下による運動エネルギーは、方向を変えただけで、消滅したわけではない。
よって、そのエネルギーが、今度は、俺の身体を激しく回転させようとする。
(地面と一点で接するな。多点で、面で触れろ)
九谷さんの教えを、心の中で暗唱する。
一点で接触すれば、負荷の集中で、骨すら簡単にへし折れる。
複数個所で地面に接して、その衝撃を分散させることで、俺は五体をバラバラにできるようなエネルギーをどうにか受け流していく。
「ぐう! がはっ! げぇっ!!」
身体が回るたびに、激しい衝撃が、内臓まで揺さぶる。
「――――」
落下地点から十数メートルを経て、ようやく、全てのエネルギーを、地面との摩擦力に変え尽くした。
「う、うう」
全身が激しく痛むが、奇跡的に骨に異常はないようである。
「だ、大丈夫か、天屋!」
スライダーを無事滑り降りて来たルシュフが、俺が巻き上げた砂埃を、突っ切って来る。
「ダ、ダメかもしれない」
俺は咄嗟に弱弱しい声を出していた。
「ああ、なんてことだ。俺を助けようとして、自分が犠牲になるなんて。天屋! お前こそが皆が見習うべき、白魔封士のお手本だったぞ」
ルシュフが感極まって涙をこぼす。
「た、頼みがある、ルシュフ」
「何でも言ってくれ。末期の人間の頼みを無下にするほど、俺は冷たい悪魔じゃあないぞ」
「い、一度だけでいいから、君の身体を思う存分撫でさせてもらえないか?」
「なんだ、そのくらい……、え!?」
「た、頼む!」
「ああ、待ってくれ、天屋。お前も知っているだろう。俺にとってこの外見は最悪のコンプレックスなんだ。それを撫でまわさせたら、最悪、俺の自我が崩壊してしまうかも」
「うう、苦しい。げほげほ。お、折れた肋骨が肺に刺さったのかもしれない」
「ああ、天屋。う、ぐうう。い、致し方ない。命を助けてもらった恩がある」
ルシュフが生娘のような仕草で、俺の手元にやってきた。
「ど、どうぞ、お好きに!」
微かに声を震わせて言う。
俺は野獣のように、その愛らしい姿形にむさぼりついた。
「ああ、このフワフワのほっぺた。ポカポカのお腹。全身どこに触れても極上の感触だ。背中のハリのチクチクさえ心地よい」
俺の指先は、この時たしかに天国に在った。
「う、ううう」
俺は、小さく悲鳴を上げるルシュフの全身を、くまなく撫でまわし、頬ずりをし、最後はキスをしようとする。
「むちゅうう」
「うぎゃああ!」
ルシュフの背中のハリから、電撃が迸った。
「ぐおおおお!」
顔面に電気を流され、俺はその場を転げまわる。
「な、なんてことをするんだ。死にかけの恩人に通電させるだなんて」
「い、いきなり気色悪い顔を近づけるからだ。……というか、なんだ、お前。随分と元気に動き回れるじゃないか?」
「あ……」
「く、くそ、俺をはめたな」
「ま、まあ大目に見てくれよ。命の恩人なのは確かだし。ははは」
「ははは、じゃない」
雷を帯びたハリを、白く輝かせながら、ルシュフが俺をにらみつけた。
「はい。おふざけはここまで。今からは真面目なお仕事の時間です」
「お前が仕切るな!」
「それにしても、随分と奇妙なところに迷い込んだね」
「聴け!」
言いながらも、ルシュフは、俺につづいて周囲を観察する。
「……確かにな。なかなか厄介そうな空間じゃあないか」
地底深くにて、俺たちを覆いつくすのは、色を完全に失い、半透明となった岩盤。
そこに坑道のような通路が入り組み、複雑な岩の迷路を構成していた。
「ここからボスと遭難者を探しださなきゃならんのか? 気が滅入るな」
うんざりとした様子で、ルシュフの声が重たい息を吐いた。
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