第32話 森の奥にて

 豊かな土壌である森の地面は、吸水性に秀でているものだ。その大地が見渡す限り冠水している光景は、降り注ぐ雨がいかに記録的なものかを端的に示している。


 俺たちが一歩地面を踏みつける度に、激しい水しぶきが巻き上がった。


「う、うわっ」


 想定外に深い水たまりがあって、津波みたいな水しぶきが立ち上がる。


 もちろん、あの九谷さんが、それを無様に被るなんて真似はしない。


 ただ、水しぶきを巻き起こした俺自身が、頭から水浸しになっただけである。


「だ、大丈夫か?」


「も、問題ないです。い、急ぎましょう」


「分かった。……ええと、どこまで話したっけ?」


「迷夢宮に広がろうとする本能があって、建物の内側にどんどん拡大していくというくだりでした」


「そうだそうだ。おほん。迷夢宮は異次元の法則を駆使して、内側にどんどんと広がっていく。しかし、この世界に無限という言葉はない。あるとしたら、学者の机の上にだけだ」


 この世の全てに限りがあることは、うっかり忘れやすいが、とても大切なことだろう。


「迷夢宮の内部拡大もいずれはストップするということ?」


「そうだ。ただ、迷夢宮の拡大本能は、それでも留まることをしらない」


「……も、もしかして」


「多分、君の考えている通りだ。迷夢宮は、今度は、建物の枠を超えて、外部へと自分自身を広げようとする」


 俺の胸ポケットの覆いをどけて、ルシュフが顔を出した。


「なあ、天屋? 三小の迷夢宮でのことを覚えているか? 迷夢宮の内側から見ると、出入口が黒色の扉に変わっていただろう」


「ああ、覚えている」


 人間どころか、キリンや象だって通れそうな巨大な門扉。


「あれは『境界』と言われている。迷夢宮と現実の境目で、内部に成長しきった迷夢宮は、そこを壊して自身の構成要素を外へと飛び出させるんだ」


「げ、幻魔獣も、ということだね」


「厳密には迷夢宮内の全てだ」


 九谷さんが、再度、ルシュフから会話のバトンを奪った。


「迷夢宮内のルール、原理原則、そういったものまでもが外に出てくる。結果として、迷夢宮周辺の地でも、迷夢宮内の法則が適用されるようになり、それが迷夢宮外でも幻魔獣が生きられる理由である」


「そ、それってさ。と、とんでもないことだよね」


 あの凶暴かつ異形の生物たちが、人間の世界にはびこる。


 それは驚異以外の何物でもない。


「ああ、非常事態宣言クラスの大事だ。今、この森は半迷夢宮と言っても過言でない。このまま時間が経過すれば、この森はいずれ完全に迷夢宮と化し、異常なルールの適用範囲はさらに拡がる」


「!!」


 はっきり言って、俺の最悪の想定を、はるかに超えた最悪だった。


「ど、どうすればこの状況を沈められる――」


 言いかけて、また深い水たまりに、脚を取られた。


「だ、だああ」


 また、頭から水を被る。


「おっと」


 ルシュフは素早く、ポケットのカバーを傘にしていた。


「くそ、本当に走りにくい……、んん!?」


「どうした? 天屋君」


「九谷さん。これ」


 俺が足を滑られた水たまりの底に、俺と九谷さん以外の足跡がある。


「これはもしかして」


「間違いない、こんなオシャレなソールをしてるのは、あいつくらいのものだ」


 いつぞやの学校帰りの、有人との会話が思い起こされる。


『見ろよ、良星。この靴底の美しいパターンを』


『靴の裏側なんて着飾ってどうするんだよ。誰の目にもつかないじゃないか』


『分かってないな。オシャレ初級者め。こういう目に見えないところを飾る行為が粋なんだ。大仰に見せびらかすのは三流のすること。一流は、こんな風にチラッチラッと見せるからイカすのさ』


 あの時、有人が俺に見せびらかしたものと同じ模様が、水たまりの底を飾っていた。しかも、負けないくらいオシャレな靴底のパターンと二つ並んで。


「こっちは間違いなく有人のものだ。もう一つは多分宮嶋さんのものだろう」


「ああ、よかった。無事でいてくれたか。正直もうダメかと思っていたよ」


 九谷さんが胸の前で手を組んで、安堵を表現する。


 俺たちは、二つの足跡の追跡をはじめる。


「ゲゲゲゲ」


「グゲゲゲ」


 道中、度々マッディ・マウスと遭遇した。


「せいっ!」


 九谷さんが拳で、事もなげに、泥の怪物を土に還していく。


「いやあ!」


 俺も泥入道を次々と切り捨てていった。


「おお、調子がいいな。さっきの泥仕合がウソの様だ」


「シンプルな相手だからな。一度戦えば要領くらい分かるさ」


 マッディ・マウスは、胴体と口だけという単純明快な構造をしているため、行動パターンが極端に少ない。


 動作速度も噛みつき以外は非常に緩慢なため、アゴの動きにさえ注意を払っておけば、まず負けることのない相手である。


 授業料は若干痛かったが、不意を突かれない限りは、もう苦戦はありえまい。


 幻魔獣の群れを薙ぎ払った俺たちは、なおも前に進む。


「?」


 俺たちの進行方向に、自然界にはありえない、真四角のシルエットが浮かびだした。


 雨に霞んだその物体の正体に気付いたのは、ほぼ数メートル手前まで近づいてからのことである。


「キ、キャンピングカー?」


 間違いがない。


 野ざらしにされ大分痛んではいるが、居住と移動を兼ねた大型車両が、俺たちの前にそびえている。


「やれやれ。こんな森の奥に車を捨てていく奴がいるとはな。……多少のお金を払って正規の手続きを踏んだ方が、よほど簡単だろうに」


 九谷さんの言う通りである。車をここに乗り捨てて、一体どうやって帰ったことやら。


「しかし、今は不法投棄をした人に感謝しないとね」


 有人と宮嶋さんの足跡は、まっすぐキャンピングカーの入口へと続いていた。


 彼らはここを安全基地として、どうにか命をつないだらしい。


「おおい、有人。大丈夫か? 助けに来たぞ」


 俺がさび付いた扉をガンガンと叩く。


「……」


 内部からの反応は全くない。


「おい、有人? いるんだろう?」


「……」


 俺は、念のために足元を再度見る。


 やはり、有人たちの足跡はこの扉の直前で途切れていて、ここを出ていった足跡は存在しない。


「おい、有人。……まさか、怪我でもしたのか?」


 俺は、扉に手をかけ、思い切り横に引っ張った。


「!!」


 その時の俺の驚きと言ったら。


「!!」


 あの九谷さんでさえ、扉の中の余りの光景に、全身を硬直させる。


「やれやれ、よかったじゃないか。無事見つかった」


 一番先に衝撃から立ち直ったのは、一番他人事ひとごとのルシュフである。


「天屋の友達二人も、この異常事態の原因も、全部まとめて見つかったな」


 扉の中にあったもの。


 それは晴れ渡る空の下で、黒白にのみ彩られた、一面の花畑であった。


 そこを、色の無い蝶々が、花から花へと渡り歩いている。


「め、迷夢宮……」


 まごうことなき諸悪の根源が、異常極まる姿をもって、ついに俺たちの前に姿を現したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る