第31話 森の奥へ


「はははは」

「ふふふ」


 談笑する俺と九谷さん。


 九谷さんは、俺に背を向けたまま会話をつづけていた。


 そのため、俺の真後ろで進行していた現象に、彼女もまた気づけない。


 ゴボゴボゴボゴボ


 汚らしい発泡音を立てながら、縦に膨張を続ける泥塊。


 膨らみ切った泥は、入道雲さながらにおおきな姿を取る。


 目もない鼻もない。手足もない。


 泥入道のような輪郭に、ただ巨大な口だけがあったという。


 口からは、腐臭にも似た呼気が、ふしゅ、ふしゅう、とまき散らかされた。


 泥の怪物が、巨大な口を開くと、猫だってすりつぶせそうな大臼歯が、ずらりと並んでいたという。


 無防備な俺の後頭部に、巨大な歯が近づいてくる。


「いやあ、九谷さん。本当にありがとう」

「しつこい。それ以上礼を言うようなら、許すのをやめるぞ。ふふふ」


 俺たちは、この期に及んでも談笑をくり返すばかりで、死神の足音にまったく気づいていなかった。


「気づけ! このバカ共!」


 聞き覚えのある声が、突然、俺の鼓膜を打った。


「は? へ?!」


 異様な存在が、すぐ背後にいることを、ようやく察知する。


「う、うわああ?!!」


 この世のものとも思われない異形の口が、俺の頭部にかじりつく寸前だった。


 素早く、全身を前に倒す。


 ガチン


 怪物の歯が、俺の後ろ髪をわずかに噛み千切った。


「な、何!?」

 と、九谷さんも、ようやく異常事態に気づく。


「ば、バカな。こ、こいつは?」

 しかし、彼女でさえも、あまりに突発的すぎる緊急事態に即応できない。


「あ、あうう」


 俺に至っては、勢い余って地面に伏したまま、自分の髪をもぐもぐと食べる怪物を、呆然と見上げるばかりだった。


「ええい、まどろっこしい奴らめ」


 俺たちへの注意の声は、岩壁に立てかけられた、九谷さんの鞄の中から放たれた。


 そこから今度は、糸の様に細い稲妻が、ほとばしり出る。


「グエエエ」


 雷は、泥の怪物に、光に近い速さで命中する。


 化物が、絶叫を上げて、地面に横たわった。


 泥水が乾いた砂に吸い上げられる様に、怪物の身体がみるみる縮んでいく。


 最後、岩の足場にわずかに残った泥塊。


 そこから、銀色の輝く粒が放出されだした。


「し、精霧しんむだって!?」


 風に乗って流れていく、極小の銀粒は、まぎれもなく、リザードマンやトリカゴドリを構成していた、あの粒子と同じものである。


「こ、これはまさか……」


 九谷さんが緊張感みなぎる声を上げた。


「サキ! 迷夢宮がこの付近にあるぞ。しかも、幻魔獣が、そこから外に出てきている」

「ル、ルシュフ?」


 身体に巻き付けるタイプの鞄から、例の愛くるしさ随一の悪魔が、姿を見せる。


「お前! また私のプライベートを覗こうとして」

「違う。それは誤解だ。これは偶然の事故なんだ」


 ルシュフは必死に弁明を行う。


「今朝、君の鞄に朝食の食べカスが付いているのに気づいてね。このままでは君が友達の前で恥ずかしい思いをしてしまう。俺は急いでそれを拭きとろうとしたんだが、急ぎすぎてしまったのが珠にキズ。鞄に登ったはいいが、ファスナーに足を滑らせて、そのまま鞄の中へと真っ逆さま。頭を打ってついさっき目を覚ますまで、完全に寝こけて――」

「やかましい。細部まで作りこんだウソはたくさんだ!!」


 九谷さんが怒りにこわばった指を、ルシュフに伸ばす。


「ち、ちょっと、待て。今は緊急事態だ。それは分かるだろう」

「ぐっ!」


 九谷さんの指先が、ルシュフの眼前で止まる。


「く、くそ。今は確かに一人でも人手が欲しい。たとえそれが覗き好きな悪趣味悪魔であっても」

「故意じゃないぞ。あくまでたまたまだからな」

「やかましい!」


 二人のいつものやり取りに、

「こ、これは一体全体、どういうことなんだ?」

 と、俺が疑問形で割り込んだ。


 さっきの醜悪な泥塊が幻魔獣として、どうして迷夢宮の外に出てこられる。


 幻魔獣が迷夢宮の中でしか生存できないのは、絶対の原則だったはずだ。


「なんにでも例外ってのはあるものだ。まあ、詳しい説明は後にしよう。早く白連びゃくれんに連絡を入れないと、取り返しのつかないことになっちまう」

「そうだな。急いで関係各所に一報を入れないと」


 九谷さんが、ルシュフの隠れていた鞄から、スマホを取り出した。


「ええい、お前が隠れていたせいで、液晶がまたキズだらけだ」


 ルシュフの背中の針山を見ながら、九谷さんが苦情を言った。


「ほれほれ、早く電話。緊急事態、緊急事態」

「分かってる!」


 九谷さんは、ワンプッシュで、登録してあった電話番号に発信する。


「もしもし、白連東北支部か? ……、同支部の九谷貴咲だ。担当は馬末町他二市町村。所属番号は……」


 九谷さんは報告に先立って、本人証明を行う。


「そういやさ。九谷さん、白連とスマホでやり取りをしてるよね」

「それがどうした?」

「いや、魔法使いの組織なんだから、もっとこう、神秘的な連絡方法があるのかと思ってたよ」


 魔法の紙に魔法のインクで印字すると、白連側で、空中に文字が浮かび上がるとか。


「なんでそんなややこしいことしなくちゃならない? せっかく人間が便利な科学技術を進歩させてくれたんだ。こんなコスパのいいもの、使わん手はない」


 近年は魔法使いの間でも、パソコン・スマホは必需品だし、移動手段は専ら交通インフラだとか。


「うーん。夢がないなあ」


 個人的には箒で空を飛ぶ文化は失くさないでほしい。


「今時そんなことやってる奴、一人もいないさ」


 ルシュフがロマンの無い現実を突き付けてくる。


「だから、非常事態だと言っているだろう!」


 なにやら、九谷さんが、声を高くしている。


「何? 録音をしているだと? 知ったことか! 好きにやれ! こっちは本当に危機的状況なんだ。被害を拡大させないためにも、一刻も早く、『白牙びゃくが』の出動を。何、手続きに時間がかかる。だから、そんなことをしていたら、手遅れになるんだ! ……身分証明書のコピーの郵送だと!? そんな猶予は――」

「なんか、凄い揉めてるね」

「白連の奴らと話すときはいつもこんな感じだよ。公権力みたいな仕事を数百年つづけていたら、いつの間にか、奴らは完全なお役所気質になってしまってな。やることがトロくて、段取りにやたらこだわる。危機対処からはほど遠い組織になってしまった」


 ルシュフが呆れたように背中のハリをかく。


「それで、よく迷夢宮に対処できているね」

「そりゃ、現場の俺たちが優秀だからな」


 ルシュフがカッコカワイイ体勢で自分を指さす。


「……ぐっ」


 スマホで激写したい衝動をかろうじてこらえた。


「真面目な話、脳みそが腐っていても、組織は生き続けられるものだ。手足さえ健全ならな。ま、時間の問題で、そのうちに手足が疲れ切って、組織全体が壊死しちまうのが定番だがね」

「おお、なんか頭がよさそうに聞こえるよ」

「頭は本当にいいんだ!」

「ええい、くそ! 埒が明かん」


 九谷さんが通話状態を維持したまま、レインコートを着込みだした。


「君らも準備しろ。私たちだけでもとりあえず状況に対処する。白連の奴らに話が通じるのを待っていたら、キャンプ場の人間が全滅してしまう」


 言うやいなや、九谷さんは、洞窟の入り口を蹴って、豪雨の中に飛び降りていった。


「ち、ちょっと待って」


 俺も急いで雨具と長靴を着込む。


「よいしょ」

 ルシュフが、俺の胸ポケットに入り込んだ。


「一人だと危ないって、九谷さん」


 俺も、雷雨が荒れ狂う森の中へと、九谷さんの後に続くのだった。


                ○●○


「【エナジー・ソード】」


 詠唱を終えると、赤銅の光沢を持った剣が、俺の眼前に出現する。


「いやああ!」


 空中の柄を握り、一撃必殺を誓った気迫と共に、敵に斬撃を放った。


「グゲゲゲゲ」


 敵性体と認識されているのは、例の泥入道。


 正式名称は、泥の口マッディ・マウスと言うのだとか。


 敵の口元を狙った必殺の水平斬りだったが、

 ガチン!

「な、何?」

 巨大な臼歯に、剣は上下から挟み込まれてしまう。


 巨大な口にくわえこまれた赤剣の動作は、もはや俺の支配下に無い。


「ゲゲゲゲ」


 それどころかむしろ、剣を通じて、敵が俺の動きに介入してくる。


 敵が自身の身体を大きく捩じった。


 柄を通じて、俺の手に回転力モーメントがかけられる。


 柔道技を受けたみたいに、俺の身体が宙を舞った。


「ぐはっ!」


 高い水しぶきを上げて、俺は水たまりに叩きつけられる。


「こ、この――」

「ゲゲゲゲ」


 楽し気に笑うと、マッディ・マウスは、再び、俺の身体を大きく投げる。


「ぐぅ! げっ! がはっ!!」


 ぬかるんだ地面に多少のクッション作用があるとはいえ、こうも連続して投げ捨てられては、ダメージはバカにならない。


「な、何やってんだ、天屋!」


 俺の胸ポケットで、ルシュフが喚いた。


「もっと上手に戦え」

「う、うるさいな。上手くやってるだろう」


 地面に落とされる際、君が俺の身体の下敷きにならないよう、どれだけ気を使っているか。


 また、投げられる。


 また、背中に大きな衝撃。


「ぐふっ!」

「マッディ・マウスはパワーだけならリザードマンの何倍も上だ。まともに力比べをしたって勝ち目はないぞ」


 青いレインコートが、また大きく空中で弧を描いて、地面で水しぶきがあがる。


「げはっ!」

「ああもう、見ちゃいられん。なんて不器用な奴だ」

「い、いいから、黙って……」

「ゲゲゲゲ」


 敵が、また投げの動作に入る。


「……見ていろ!!」


 自身の身体が投げ飛ばされる瞬間、俺は横たわったまま、両足で地面を蹴った。


「グゲッ?」


 自身で力を発生させることで、空中での身体の主導権を取り戻す。


 巧みに、敵の頭上で体をよじり、長靴で地面に着地する。


「ふん!!!」


 そのまま、相手に投げられた勢いをそのまま転用し、相手の身体を意趣返しに投げ返した。


 赤剣を担ぐようにしての、一本背負い。いや、一本釣りか?


「ゲ!?!?」

 今度はマッディ・マウスの黒い身体が、空中を踊り、背面から思い切り叩きつけられる。


 その衝撃で、俺の刃を噛んでいた力が、弱まる。


「せいっ!!」


 渾身の力で、刃を下に押す。


 敵の噛む力を越えた。


「ゲェェェェ!」


 急所である喉を断たれたマッディ・マウスは、断末魔を上げて、ただの泥へと還っていく。


 泥の中から、精霧が立ち上る。


 上空へ登っていく銀の粒子と、天から落ちてくる雨粒。


 印象的な対比を見上げながら、俺は、疲労感からしりもちをついた。


「はあ、まったくヒヤヒヤさせやがって」


 俺の胸ポケットから顔を出しながら、ルシュフも疲れたような息を吐いた。


「う、うるさい。よく考えたら、君が手助けをしてくれてもよかったんじゃないか?」

「バカ言え! こんな大雨の中で雷を放とうものなら、この場の全員が感電死だろ」

「……ごもっとも」


 ちなみに、九谷さんは、まだスマホに向かって大声を出している。


「だから、さっきも説明しだろう。何!? そんな大事なことは最初に言え? こっちはずっと言ってたんだ!!」

 

 もっとも並行して戦闘も行っていたようで、彼女の周りには、元マッディ・マウスだったであろう泥塊が、無数に転がる。


「くそ! やっと話が通じた!」


 九谷さんが忌々し気に、スマホの通話を終了する。


「どうだって?」


 ルシュフが訊く。


「『白牙』の連中を送ってくれる話がまとまった。連中は、北東北での任務を終え、東北支部への帰路についていたところだったらしい。進路を変更してこちらに直で駆けつけてくれるようだから、到着予想は二時間後といったところか」

「二時間か。……良い状況とは言い難いな」

「ああ、状況がさらに悪化するまでには十分すぎる時間だ。私たちもできる限りのことはしないとな。特に、宮嶋さんたちの救助は、白牙の到着を待っていては手遅れになる」

「だろうな。まったく、あのバカップルは面倒なことをしてくれたもんだ」

「こんな状況、誰に予測できたものか。ほら、急ぐぞ」


 手短に会話を終えると、俺たちは森の中を再び駆け回る。


「!?」


 木陰で、人が蠢く様子が見えた気がした。


(なんだ……)


 それはただ、ちょうど人間の頭ほどの大きさの葉が、雨に打たれて上下しているだけのことだった。


「迷夢宮というものは、研究者の間でよく生物に例えられる」


 唐突に、九谷さんが話し出した。


「迷夢宮に意識があるかどうかは今でも分かっていない。それは科学の側でも、植物に心があるかはっきりしないのと同じようにだ」


 彼女が、現状の説明を俺にしてくれているのだと悟り、周囲に目を凝らしながらも、その言葉に耳を傾ける。


「ただ一つ分かっていることは、迷夢宮には本能のようなものがあるということだ。その本能の一つが拡大本能。迷夢宮はこの世界に出現した瞬間から、上下に水平に、前と後ろに、自らをどこまでも広げようとしてする」

「建物の枠の内側に、どんどん広がっていくわけだ」


 国語教師が聞いたら、目を吊り上げそうな日本語を、俺は話していた。


「――」

「――」


 会話を続けながら走る俺たちは、微かな雲の光さえ届かぬ森の奥へ、どんどん踏み込んでいく。

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