第30話 微笑みと汚泥

「……さすがに、世の中そこまで上手くはいかないか」


 そこに有人がいないことが分かると、俺は一つため息をついていた。


「すごいな。まさか、こんなところに洞窟が隠されていたなんて。クライミングをした時には全然気づかなかった」


 俺が九谷さんを案内したのは、キャンプ場北端に位置する、天然の岩山である。


 いや。キャンプ場管理会社が、クライミングに使用するために手を加えたので、天然と言う表現は、今では正確ではないかもしれない。


 それはともかくとして、その岩山の一角、地面から少し高い箇所に、人知れず小さな洞穴がある。


 そここそが、俺が提案した避難場所であった。


「多分、キャンプ場のスタッフも存在には気づいてないんじゃないかな? 岩に根を張った木々が覆い茂って、入り口を隠しているし」


 濡れた岩盤に慎重に足をかけて、洞窟の入り口まで這い上がる。


「九谷さん、手を」


 先に登った俺が、九谷さんの身体を引っ張り上げた。


「あんまり広くはないけど、二人ぐらいならなんとかなる。雷雲が通り過ぎるまで、ここで小休止することにしよう」


 乾いた岩に囲まれた俺たちは、お互いに背を向け、濡れた身体を拭いはじめた。


「ん?」

 と、九谷さんが怪訝な声を上げた。


「ど、どうしたの?」

「いや、私のタオルがほつれているんだ。……鞄の中に、尖ったものでも入っていたかな?」


 もちろん、ここで、『どれどれ』、とつい振り返って、九谷さんの半裸を拝めるなんてラッキースケベは、現実には存在しない。


 実を言うと、一瞬、実行に移そうかとも思いはしたのだが、自分の危うい立場を思い出して、踏みとどまった。


(今の俺は仮釈放中の身だからな)


 九谷さんの恩情により、一時的に会話を許してもらっているだけで、この状況が終わってしまえば、また無言の時が訪れるのは、火を見るより明らかだ。


(そ、そうならないためにも、このチャンスに誠心誠意謝罪したいんだが)


 ポツリ、ポツリ、と岩から垂れおちる滴の音が、洞窟に反響する。


(謝るにしても言葉は選ばないとなあ)


 手抜きの謝罪が、かえって相手の怒りを煽るのは、自明の理である。


(うーん)


 俺が言葉の選別に手間取っていると、

「なあ、天屋くん? 実は、ちょっと話したいことがあるんだが」

 と、彼女に話題を先に振られてしまう。


「な、なんでしょう?」

「ま、前から訊こう訊こうとは思っていたんだが……」

「?」


 九谷さんは、らしからぬ歯切れの悪い口調だ。


「ど、どうも気恥ずかしくて、今日まで引き延ばしてしまった。い、今がそれどころではない状況とは分かっているんだが、こ、ここで訊いておかないと、次の機会がいつになるか分からない」

「ど、どうぞ? なんでも聞いてください」


 長い前置きに、若干ビビりながらも、質問を促す。


「そうか……、じ、実は、初代美月のことなんだが?」

「あいつの?」

「う、うむ。……すう、はあ。すう、はあ」


 九谷さんは何度も深呼吸をくり返してから、ようやく質問を口にした。


 ――君は、初代美月のことを好きなのか?


「そ、その、そのその。私にだって大体の見当をついているんだ。だが、君の口からきちんときいておきたくて。い、いや誤解しないでくれよ。こんな質問をしたからと言って、わ、私に変な気持ちがあったりするわけじゃないんだ」


 九谷さんは、早口で、山のように言い訳を積み重ねる。


「俺が、美月を好きかどうかですか……」


 正直、この時の俺は、回答にひどく窮していた。


(どうしよう。答えづらいな)


 九谷さんの質問に正直に答えてしまうと、けして伝えたくない、俺のある過去が掘り出されてしまうのである。


 いっそ適当なことを言って煙に巻こうかとも考えた。


「……」


 しかし、緊張がちな上目遣いで俺の答えを待つ九谷さんが、俺の目に映りこむ。


(いや、そんなことしたら、ダメだな)


 そういう不誠実は彼女に失礼だし、自分の首を絞めることにもなりかねない。


 今ここで前回と同じ轍を踏むわけにはいかなかった。


「九谷さん。分かりました。すべて正直に答えます」

「ぜ、ぜひ頼む」

「俺は、初代美月のことを……」

「……」

「好きかもしれないし、そうでもないかもしれない。むしろ、九谷さんの目から見て、何か気づいたことがあったら、ぜひ俺に教えてほしいくらいだ」


 ……世の中というのは実に不思議なものである。


 誠実と正確を期した答えが、こうも曖昧模糊あいまいもこかつ挑発的になる。


「…………なあ、天屋くん」


 九谷さんの吐息は、真冬の寒波よりも冷え冷えとしている。


「もしかして、私は、君にバカにされているのかな?」


 同時に、その声は、灼熱の怒りも内包していた。


「く、九谷さん。はやまらずに。お、俺の説明を最後まで聞いてください」

「ぜひ、そうしてくれ。君の身の安全のためにも」


 物騒な言葉を投げかけられた。


「は、はい。み、美月のことは、た、多分、初恋の人なんだと思ってる」

「多分、初恋の人。 ……そんな日本語聞いたことがないぞ!」


 九谷さんが足元の岩を叩く。


 頑強なはずの岩石が、柔和なはずの手の平に、一方的に叩き潰された。


「そ、それも含めてきちんと説明させてくれ」


 はっきり言って、俺には美月を異性として意識した記憶はなかった。


 性的魅力のようなものは当時から一切感じなかったし、志童のことは悪趣味な奴だと、今でも思っている。


「そ、それなら、『多分』ですらないじゃないか! 『ちっとも』好きじゃあないんじゃないか?!」

「そ、それがそうとも言えない理由があるんだよ」


 あの事件。


 廃工場が原因不明の爆発事故を起こし、美月がそれに巻き込まれて死亡した、……と思われた一件。


 あの事故だが事件だかには、実は後日談があるのである。


「あいつが俺の前から姿を消してさ。もうこれで二度と会うこともないんだと思うと、俺は自分でもびっくりするほどに心のバランスを崩したんだ」


 思い出すだけでも散々だった。


 学校に行けないどころか、部屋から出ることもままならない。完璧な引きこもり状態。


「当時は本当にびっくりしちゃって」


 親や友人も驚いていたが、一番びっくりしたのは他ならぬ自分自身である。


 ――俺ってこんなにもろかったんだ。


 母親がいなくなっても、家事全般を九歳で任されても、そのことで教師に理不尽な扱いを受けても、我ながら堂々とやりすごしていたと思う。


 トラブルで精神的な変調を訴える人間なんて、軽蔑さえしていた。


 そんな俺が、まさか幼馴染一人いなくなっただけで、日常生活さえままならなくなるとは。


「結局は、ひと月以上その状態が続いてね。えー、何と言うか、友達のおかげで無事社会復帰することが出来たわけなんだ」


 より詳細に説明するならば、

『僕からミヅちゃんを奪うようなこの世界は、滅んでしまえばいいんだ』

 という危険思想に憑りつかれた志童が、原子爆弾の製造に着手しだしたのが、直接の原因だ。


(俺が出ていって志童を止めなかったら、今頃は馬末の名前は、海外で、広島長崎と同列に語られていたかもしれない)


 まあ、この辺のくだりは、九谷さんに興味がないと分かっているので、ざっくり割愛した。


「なるほど。それほどの喪失感を味あわせる相手なら、それは恋愛感情を抱いていたと言えるのかもしれないな」

「俺もそう思う。それでああいう答え方になってしまった。く、九谷さんをからかうつもりはまったくなかったんだ」


 実際のところ、九谷さんが俺にした質問と言うのは、ベッドの上で時折自問しているものと同一である。


「そうか。なるほど。そういう関係ね。……君が初代にもう一度会いたいというのは、自分の気持ちをきっちりと知りたい、と言うことなのかもな?」

「お、おっしゃる通り。そういう一面も確かにあるんだ」


 さらに付け加えるのなら、一体何があったのかを知りたいという気持ちも強い。ちなみにこれは、純粋に幼馴染の身を案ずる気持ちから発されたものだ。


「後はまあ、俺たちに生存を伏せていたことを怒っているくらいかな? 正直、俺はかなり裏切られたような気持になっている。言い訳があるならむしろしてほしい」


 全部でこんなところか?


 何一つ隠すことなく正直に答えたつもりだ。


「ふむ。ふ、ふふふふふ」


 九谷さんの反応は、なぜか、楽し気に含み笑いを漏らすというものだった。


「なんだ。君たちの関係は全然じゃないか。楽観視こそできないが、まだまだ私にもチャンスはありそうだ」


 小声で、何やらつぶやく。


「ん? 今なんて?」

「……ふふ、秘密だ」


 明らかに上機嫌な顔で、九谷さんが笑った。


 今気づいたが、美月と九谷さんにある共通点がある。


 色とりどりの花畑にも似た、感情の豊かさ。


 俺は、喜びと楽しみに充ち満ちた彼女の顔に、刹那見惚れる。


 機嫌の直った今こそが、謝罪の大チャンスであることも、まったく気づけていない。


「お、おっと」


 九谷さんが、俺の視線に気づいたのか、恥ずかし気に背を向けた。


「……ちなみに天屋くん。この間の一件だが、君は本当に心から反省しているのかね?」

「え!?」


 望外にも、九谷さんの方からその話題を振ってくれた。


「も、もちろんです。そりゃあもう猛省しています。九谷さんに口をきいてもらえなくて、本当に苦しかった。」

「……ちなみに、君は、いったい何が申し訳ないと思っているんだ?」

「お、俺の不実さです。俺は九谷さんに対して、あまりにも不誠実な態度を取りました。二度とあのようなことは致しません」


 彼女のまとった空気がほころぶのが、背中越しにも感じられた。


「……許すのは今回だけだぞ、二度目は無いからな」

「ああ、ありがとう、九谷さん。本当にありがとう」


 感激の謝辞を雨あられとくり返す。


「ふん、調子のいい奴め」


 この瞬間、俺と九谷さんの間の、緊張が雲散霧消した。


 ――おそらくは、奴はこの瞬間を狙っていたのだろうと、俺は後に回顧する。


 ポココココ


 あの時、森の茂みで見た、気泡を産む泥濘。


 それが、岩の風景に紛れて、いつの間にか俺の背後に在った。


 ゴボゴボゴボゴボ


 泥は、大きく泡立ちながら、どす黒いホイップクリームのように、どんどんと膨らんでいく。


「あははは」

「ふふふ」


 危機を伝えるサインはいくつもあったのに、俺たちは、自らの笑い声でそれをかき消すという、愚を犯していた。

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