第15話 目覚めた怪物

(ああ、どうして。どうして、二時間前の俺は、グーを出すなんて愚かな真似を……)


 職員室を後にした俺は、全体重を壁に預けることで、ギリギリ二足歩行を保っていた。


 花岡の罵詈雑言に、心身はすでに限界に達している。


 ズルリ、ズルリ。


 壁にへばりついたカタツムリみたいに、ゆっくりと前へ進む。


「なに、あれ?」

「さ、さあ?」


 部活上がりの生徒たちが、異様なものを見る目で、俺の横を通り過ぎていった。


「ああ、良星。よかった。やっと終わったか」


 見ると、職員室からそう離れていないところで、有人が俺を待ってくれている。


「ああ、有人。君という奴は」


 たかが有人の顔を見ただけで、俺の弱り切った心は、感動に打ち震える有様だった。


「早く。学校から逃げ出るんだ。ほら、鞄は持ってきたから」


 言うや否や、俺の肩に、手早く鞄をたすき掛けする。


「急げ、急げ」

「ち、ちょっと待って。なんだい藪から棒に。少しくらい休ませてくれ。俺が今どんな状態だと思ってるんだ」


 花岡のお説教に二時間付き合わされるということが、どれだけの重負荷となると思っている。


「分かるよ。自慢じゃないが、俺は花岡に三時間説教されたことがあるからな」


 確かに自慢にはなっていない。


 だが、あの時の有人は、確かにひどかった。

『良星。俺はこの世界滅ぼすと決めたぞ。人間という種はこの地球にとって病原菌でしかないのだ』

 荒涼とした目で、どこかの魔王から完コピした理想を語っていた。


「とにかく急ぐんだ。ほら、走るぞ」

「ち、ちょっと、いい加減にしてくれ」


 背中を押しつづける有人に、振り返って向き直る。


「理由を説明しろ」

「今はそんな余裕は無いんだ!」


 有人の慌てぶりは、いささか常軌を逸している。


「本当に何があった? 話してみろよ。別に驚きやしないから」


 花岡に散々叩きのめされた直後で、精神の表面は、カサブタのように硬くなってる。ちょっとやそっとのことでは、ダメージは受けない。


「じ、実は――」


 末期がんを告知する医師とはこういうものではないか、という深刻さで、有人は、その言葉を告げた


「――、し、志童が完全に目を覚ました」

「……え?」


 精神のカサブタなんて、なんの役にも立たなかった。


 あまりの衝撃に、脳を物理的に揺さぶられたように、足元がおぼつかなくなる。


「こ、こ、今回のターゲットは誰だ?」


 半分忘我の状態ながらも、もっとも重要な質問を、俺は選択していた。


 怪物が目覚めたのなら、巻き添えを被らないよう、その進行方向を知っておかなくては。


「あの、……さらに言いにくいんだが」


 有人の表情は、より一層深刻さを増す。


「あいつは今、『天屋良星はどこに行った』と、学校中を血眼で探し回っている」


(ああ――)


 きっとこの時の俺は、懲役百年を宣告された、海外の被告人みたいな顔をしていたんだろう。

 

 俺にはもう、自分が今足をつけているのが、床なのか、壁なのか、天井なのかすら、よく分かっていない。


「と、とにかく、早く学校から離れるんだ。明日になれば、志童は、興味を失って再び眠りにつく可能性だってある」

「そ、そうだ。その通りだ。とにかく急がないと」


 事ここに至って、俺たちはようやく、危機感を共有することができた。


「もう夕方なのに、元気ねえ、あの子たち」


 俺たちが慌てふためく様子を、ユニフォームから学生服に着替えた先輩方が、呆れ眼で見ていく。


「危ない! ナイフだ!」


 誰かが、叫んだ。


 全員の耳目が、声のした方角に集まり、そこを銀色に輝くものが通過した。


 鋭利な閃光は、まっすぐ俺目がけて、飛翔している。


「きゃああああ」


 気の早い女子が、もう悲鳴を上げた。


 高速で迫る光が、俺の頭部に到達する、その寸前。


「……ふん」


 俺は、超高速で腕を動かし、こともなげに、それを空中でつかみ取った。


「「「「「え!?」」」」」


 ショックにも似た驚きが、二階廊下を波のように広がる。


「り、良星?」


 俺のあまりの超人技に、有人は目を高速で瞬かせている。


「な、何か、今あの子凄くなかった」

「う、うん。手の動きが全然見えなかった」


 時速100キロ以上で動く球に慣れた卓球部員でさえ、驚きを露わにする。


(し、しまった。ついうっかり、『精』を使ってしまった!)


『いいか、天屋君』


 九谷さんの厳重注意が思い起こされる。


『『精』というものは、魔封士の世界では、白黒問わずのトップシークレットだ。人間を容易く超人にするこの力が知れ渡るようなことがあれば、この世界は間違いなく大混乱に陥る。くれぐれも軽率な使用は控えてくれよ』


 まさか、わずか一か月で馬脚を現すと羽目になるとは……。


(しかも、こんな子供だましにひっかかるなんて)


 今、俺の二本指の間に挟まれているものは、刃物でもなんでもない。


 プラ製の定規を、ただ銀色に塗っただけの代物である。


「ああ、やっぱり僕の思った通りだ。良星」


 いつの間にか、俺の視線の先に、見慣れた、小さな人影がある。


 高揚に頬を染めた状態で、そいつは、俺にゆっくりと近づく。


「人間の顔と言うのは雄弁だ。目が心の鏡だとするなら、顔はさながら日々の彫刻か? 顔は表情筋の集まりだから、毎日使われる表情筋は自然と鍛えられ、顔形に変化をもたらす。世界一の美女の美容法は、毎日美しいことを考えることだとか?」


「あ、ああ」


 怯えた声を上げ、有人が、そいつから一歩後ずさった。


「僕は、この一か月間、君の顔の変化が気になって仕方なかった。闘志、敵愾心、克己心。主に、そういった強い感情に反応する部分が、くっきりと目立つようになったからだ。もちろん、これまでの君とは、まったく無縁だった部位だよ」


 一歩一歩と歩を進めるたび、少年の、切りそろえられた前髪が波打つ。


「その表情筋の戦士化の意味が気になってね。つい子供だましのテストをしかけてみたんだが……。いやはや、想像以上に興味深い結果が得られた」


 大きく手を広げて、そいつは、精神の高揚を表現する。


「……うう」


『九谷さん。俺を君の弟子にしてくれ。つらい修行だろうが何だろうが、必ずやりとげる。俺も魔封士になりたいんだ!!』


 美月との別れを受け入れられない、俺の発した言葉が、耳の奥に鮮明によみがえる。


「さあ、教えてくれ、良星」

 少年が、ついに俺の目前にたどり着いた。


「このひと月、君に一体何があったのか? その力は何なのか? これから君は何をするつもりなのか? 包み隠さず答えてくれ」


 これからクリスマスプレゼントのリボンを解く子供のような、期待に膨らんだ笑みを、倉木志童は浮かべていた。

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