第4話 知っていて、知らない、でも知っていた
「――――」
精神が絶望に呑み込まれかけるも、知る限りのメンタルコントロール法を駆使して、俺は、かろうじてパニックを免れていた。
「ひえええええ!」
遠ざかっていく、佐久間の声と足音。
思いつく限りの罵倒を投げつけてやりたいが、今はそれどころではない。
最優先すべきは自己の生存である。
「……」
振り向いて、壁を背にする。
前方には、一本の直進路。そして、その先には曲がり角。
咆哮の聞こえ方からして、あそこを曲がった先にトカゲ人間がいるのは間違いない。
(ど、どうする?)
ここに待機と言う選択肢はない。
もし、トカゲ人間の方から近づいてこられたら、ここでは逃げ場がまったくない。
「う、うう」
全ての勇気を振り絞って、ゆっくりと前に進む。
自ら恐怖の対象に近づくというのは、大変なストレスである。
わずか百歩足らずの道のりにもかかわらず、
「はあ、はあ、はあ」
10キロマラソンを走り終えたみたいに全身で息をしている。
おそるおそる角の向こう側をのぞいた。
「い、いた!!!」
トカゲ人間が、という意味ではない。
いや、もちろんトカゲ人間はいる。
それは確定事項である。
俺が驚いたのは、トカゲ人間と対峙している、もう一人の人物のことである。
恐れを知らない切れ長の目。
すらりとした長身でパンツルックを着こなす。
こんな時だというのに、黒髪が美しく風にたなびいた。
「く、九谷さん」
九谷貴咲とトカゲ人間が、わずかの距離を挟んで向かい合っている。
トカゲ人間がもう半歩踏み込めば、その大剣の切先が九谷さんに届くほど、わずかな間合いだ。
(ど、どうする)
『九谷さんを助けて死ぬか?』
『九谷さんを見殺しにして自分だけ助かるか?』
状況からして、俺に選べるのはこの二択だけである。
どちらを選んでも悲劇的結末といえる。
そして、考える猶予すらほとんどない。
「ぐ……」
クラスメイトを犠牲にして自分だけ生き残るのか? 命は一つしかない。命の価値は皆同じ。死の恐怖と激痛。後悔。懺悔だけの人生。道徳の授業。人間愛。英雄的行動。フェミニズム。男女平等。
心の振り子が、激しく揺れ動く。
この手の問答に正解はない。善悪と言う単純なものさしでは測り切れず、万人を納得させられるような解答は、とうてい導きようがない。
それでも、俺はどちらかを選ばなければならなかった。
揺れは少しずつ小さくなりはじめ、そして、ついに振り子は一点に留まる。
「お、おおお、おい!」
突如上ずった声に乱入され、九谷さんとトカゲ人眼が、目を丸くする。
「あ、天屋君!?」
「ギイイ?」
「か、かかか、かかかか、彼女から離れろ、このトカゲ野郎うう」
威勢のよい啖呵を切ろうとしたのだが、恐怖と緊張で、素っ頓狂な裏声しかでてこない。
「何をしにきた。逃げろ。天屋君!」
九谷さんはそう言うが、それは不可能である。
角を曲がるのに全精力を使い果たしてしまい、もう立っているのがやっとだ。
「ギギ」
トカゲ人間の尖った鼻先が、俺の方へと向き直る。
死が一歩一歩近づいてきた。
俺の震える身体は、後悔で満たされていた。
(ああ、どうして俺は、九谷さんを助けようなんて思ったんだろう)
トカゲ人間が俺の眼前に立った。
石の大剣をゆっくりと振りあげる。
極めて冗長な動きだった。
切っ先がまっすぐに天井を向く。
一瞬の静止の直後。
とてつもない速度で、石剣が、俺の脳天目がけて急降下する。
(ああ!)
磨かれた刃が放つ、真っ白な反射光。
その光の中に、俺は確かに走馬灯を見ていた。
初恋の女の子。
小学校で別れたあの子が、いつもの勝気な笑みを浮かべている。
(
もうすぐ君にまた会える……………………………………………………、あれ?
刀身がいつまで経っても、俺の頭に到達しない。
「??」
頭髪のつむじすれすれのところで、石剣はなぜか完全に停止していた。
「ギイ! ギイ! ギイ!」
「な、なんとか間に合ったか」
「く、九谷さん?!」
彼女が、なぜか俺の隣に立っている。
そして、その細い指先が、トカゲ人間の武器に添えられている。
「………………!」
彼女が、とてつもない速度で俺の横に回り込んで、片手で石剣を受け止めた。
そう理解するのには、相当の時間が必要だった。
「ギイイイイ」
トカゲ人間は剣にさらに力を加えるが、
「ふん、リザードマン風情が」
九谷さんは軽々とそれに抗ってみせる。
「……」
俺の頭はもう、現実から完全に取り残されていた。
「はあああ――」
九谷さんが、もう一方の手に握り拳を取らせた。
「ふん!」
大した力も込めていないようなフォームから、パンチ一閃。
とてつもない音が迷宮を揺るがす。
インパクト時の衝撃波が、俺の衣服を波打たせた。
ロケットで加速されたみたいに、トカゲ人間の身体が吹っ飛んでいった。
頑強な壁を一枚、二枚、三枚と突き破る。
四枚目にめり込んだところで、肉の砲弾はようやく止まった。
トカゲ人間の胸部には、無残な陥没痕がくっきりと確認できる。
近づいて生死を確認する必要はまったく感じられない。
「!?」
その亡骸に奇妙な変化が起き始めた。
はじめは死後けいれんかと思ったが、よくよく観察すると、トカゲ人間の輪郭が朧になりはじめている。
しばらくして、トカゲ人間の体表が少しずつ蒸発していっているのだと、理解した。
生まれる気体は、例の銀霧である。
変化はそのスピードをみるみる速めていった。
皮膚が、筋肉が、内臓が、むき出しになっては、霧となって消散する。
ついに血の一滴までも霧化され、トカゲ人間が存在した痕跡は、完全に消失する。
「あ、あの怪物まで霧から作られていたのか?」
ダンジョンを構成しているのが銀霧なのは既知だったが、まさか生物まで創造していたとは。
「ふう」
トカゲ人間が、完全に消失すると、九谷さんは残心を解く。
「く、九谷さん。君は一体」
返事は言葉ではなく、行動であった。
――パチン
彼女の左手の平が、俺の頬をひっぱたく。
年齢相応の女子の力で打たれた頬が、じんじんと痛んだ。
「君は一体何を考えているんだ! あんな無謀な真似をして。もう少しで死ぬところだったんだぞ!」
そう声を荒げるが、その釣り上がった瞳は、かすかに潤んでいる。
誰よりも厳しく。誰よりも正しく。そしてあまり知られていないが、誰よりも優しい。
彼女は紛れもなく、俺の知っているままの九谷貴咲であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます