第32話暗黒騎士さん、兄と戦い、過去を思う


 暗黒騎士さんが兄について知っていることは多くない。




 それこそ、幼い頃の事しか知らない。




 まだ子供の時分、それこそ十歳かそこらの幼い頃だ。


 その頃、まだ兄と共に暮らしていた。




 母は優しく、父は厳しく、由緒正しい、暗黒騎士の家系と言って差し支えなかった。




「――あ!?」




 練習用に刃を潰した剣を取り落とし、彼女は膝を付いた。




「また俺の勝ちだな」




 笑って、兄は彼女を見下ろした。


 終ぞ勝つことの出来なかった、幼い頃の記憶。




 まだ小さな頃、兄妹で戦って鍛錬をするしかなかった頃のこと。




 暗黒騎士の家系に産まれ、暗黒騎士として生きることを定められた兄妹に名前はなく、ただ兄と妹として、育てられた。




 その頃は、きっと幸せだったのだろう。




 何者でもなく、ただ、兄と妹。




 毎日を同じように過ごし、毎日を訓練して生きてきた。




 兄が戦場に出るようになってから、そうした日々はなくなっていったけれど。


 それでも便りは届いたし、彼女のことを励ましてくれていた。




 だからきっと、これは幸福な記憶なのだ。



















 剣を振るう。


 疾り抜け様に振り下ろす、獣の一撃。




「ーーーーッ!?」




 流される。


 受け流し、その柄尻で暗黒騎士さんの背中を強打する。




「ーーぁぐッ!」




 息が詰まる。勢いのまま、転倒しそうになる身体を支え、即座に振り向いた。


 斬り合いを始めて、まだ数刻。


 されど一太刀さえも、暗黒騎士さんの剣は届かない。




 よしんば届いたとしても、その身体は影のようで、触れることさえ叶わない。




 せめて一太刀。


 殺されるのなら、抵抗した証が欲しいと、暗黒騎士さんは兄を睨む。




「お前が今、何を考えているか当ててやろう」




 と、兄が呟く。


 絶好の機会、だと言うのに、暗黒騎士さんの身体は動かない。


 兄は、喋りながらもその構えを崩さないからだ。




「せめて一太刀。そうだろう?」


「…………」




 動揺を隠すように黙る。


 上がった息を整え、反撃の機会を窺う。




「下らんな。貴様はせめて一太刀と思う内に、俺がいくら貴様を断てると思う。ただ一撃と思うだけでは獣と変わらぬではないか」




 その決意を嘲るように、兄は嗤う。




「捨ててしまえ、そのような決意。この戦場に必要なかろう」




 いつもそうだ。


 こちらが勝てないのをいいことに、上から目線でものを語る。


 一瞬、兄は視線を逸らす。


 背後の物音に気を取られたか。




 明らかな誘いであるのに、暗黒騎士さんにそれを判断する力は残されていない。


 まるで獣のように飛び出し、豪剣を振るう。




「……この太刀筋……バイアランの剣術か。はっ、人の真似事が好きなようだな、妹よ」




 通じない。ただの一撃でさえ通らない。


 弱いからだ、と自己嫌悪する。


 結局は勝てないのか、と息を吐く。




「ぁ……っぅ……」




 弾き飛ばされ、たたらを踏んで後退する。


 息が荒いのがわかる。


 呼吸がしづらい。


 こんな所で、足踏みをしている場合ではないのに、前に進めない。




「だ、だめ、なの……?」


「何がだ?」


「……ま、魔族、でも、こちら側にいちゃ……だめ、なの?」




 弱々しい口調は、かつての口調だ。


 弱い自分を象徴しているような言葉遣い。


 そのまま自分のことを表しているようで、段々と嫌いになっていったそれが、今は自然と口から出て来る。




 息苦しさのまま、零れる心情は言葉のままだ。




「……それでお前は何を得た?」




 兄は、静かに返す。


 その言葉に、暗黒騎士さんは答えることが出来なかった。


 どちらだとしても変わりないのだ。たとえ、魔王軍のままであったとしても、周囲の種族は違えど、きっと思考は似たようなものだ。




 最初から、暗黒騎士さんは流されるままで、何も自分で手に入れていないのだと、わかってしまったから。




 暗黒騎士さんの視界には、それ以外が、いつの間にか映らない。


 この広い世界に、まるで自分と兄以外が存在していないかのように錯覚する。




 広い筈の世界が、狭く、息苦しい。




「そろそろ終わりにしようか、妹よ」




 兄が、剣を構える。


 それは、初めて使用する魔剣の力。


 暗黒騎士として、確かな力を持った証であるそれに、魔力が行き渡る。




「そういえば……お前の前で名乗るのは初めてだな……我が魔剣はザッハーク。授かった我が名はイブリース!」




 兄の……イブリースの持つ大剣に、炎が奔る。まるで焼き付き、刻印されるようにして、その刀身に蛇が浮かぶ。二頭の蛇は、まるで互いを食い合うように絡みついている。




「では、死ね」




 まるで闇が渦を巻くように、暗黒騎士さんの視界を埋め尽くす。


 全身絡みつく暗黒の奔流の中で、暗黒騎士さんは全身の痛みのみを感じていた。


 何も見えず、聞こえず、ただ奈落の底に落ちていくような感覚。


 全身から力が抜けーーーー










 ――――次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。

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