第29話リーゼリット、影法師と対峙する
距離にして十歩。
踏み込むのなら、一足の距離。
騎士は正面に構えた剣を影法師に向け、微動だにせず。影法師は考えを巡らせる。
あの出来損ないの暗黒騎士がいたのなら、何とかなった。どういう訳か知らないが、奴はこの騎士と仲が良いようだ。ならばこそ、囮にする、集中的に狙う。それも生かさず、殺さず、嬲るように。そうすれば、この騎士は黙ってはいないだろう。
だがしかし、今この場所に、騎士が守るべきものはいない。守らなければならない者たちは、すでに影法師が葬り去った。
たら、と冷や汗が流れる。
いくら時間稼ぎとはいえ、そう長くは保つまい。
そう考えつつも、目の前から意識を外すことが出来ない。
そうしなけれざ、影法師は一刀の元、真っ二つにされているだろう。
ーー意識は外していない。
その筈だった。
ふっ、と騎士の姿が見えなくなった。
同時、影法師が影を練り上げ、盾を成形する。
重い、金属音が静かな森に響き渡った。
「ーーーーなっ!?」
目の前の敵が驚愕したように目を開く。
何を驚くことがあるのだろう、とリーゼリットは思った。
ただ、彼女は踏み込み、何時ものように剣を振るっただけだ。
赤熱した刀身が、影を焼くように音を立てる。段々と沈み込むようにして、このままいけば押し切れるといったところで、唐突に手応えが消失する。
リーゼリットは前につんのめり、そのまま二歩、三歩と前進し、踏み止まる。
その瞬間。
「ーーふっ」
リーゼリットが振り向き樣に剣を振るう。回転し、遠心力の乗ったそれは、背後から迫った影の槍を容易に弾き飛ばす。
焼けるような臭いが周囲に充満し、形なき筈の影が、バターのように断ち切られた。
「……やっぱり、強いや」
ずるり、とリーゼリットから、たっぷり二十歩程の距離をおいて、影法師が木の影から現れる。
額に浮いた冷や汗は、ともすれば自分が殺されてしまうのではないか、と思っている風にも見える。
「逃げるか? 逃がさんがな」
改めて、剣を構え直し、間合いを図る。踏み込んで二足。時間にして一秒にも満たないが、それだけの時間があれば対処されてしまう距離。さて、どうしたものか、とリーゼリットは考えを巡らせる。
「逃げないよ。やっぱりあなたは先へは行かせられないからね」
言って、影法師はにやりと笑う。
「だから、ちょっと卑怯な手に頼らせてもらおうかな」
まるで今までの攻防が卑怯でなかったとでも言いたげに、影法師の姿が影に溶ける。
同時に笑い声が、周囲の木々の合間から漏れる。
「僕は影法師。影の中に存在する魔族。ならばこそ、影は我が領域である」
木の影。
樹洞の隙間。
木の葉の舞い散る揺れる影。
根っこの織り成す影。
焼け落ちた馬車の影。
影に貫かれた、部下たちの影。
周囲に存在する、ありとあらゆる影から声がする。
そしてーー
「っ!」
リーゼリットが勢いよく首を傾げる。先程まで顔のあった場所を影の槍が通過する。
ぞくり、と背筋の凍るような感覚に、リーゼリットは身体を投げ出すようにして、地面に転がった。身体のあった場所で、まるで剣山のように影の槍が突き出した。
「ちぇ、よく避けるね」
「貴様、まさか」
「そう。僕は影。あらゆる影が僕だ」
四方八方。
まさに四面楚歌。
影が全て襲い掛かってくるのは、まるで悪魔のようだ。
どこからでも襲い掛かかり、避けたとしても終わりがない。
これ程時間を稼ぐことに特化したものはないだろう。
「だがーーっ!」
その全ての敵意の影を、リーゼリットは躱し続ける。檻のように重なる影も、矢のように飛来する影も、剣のように引き裂く影も、その全てを躱し続ける。
どちらが倒れるのが先かの根比べだ。
たがしかし、当たらない。
終わらない。
終わることがない。
だからそうなるのは、当然であった。
「どうした? そんな曲芸まで繰り出して、私に当てることさえ出来ないのか?」
それはーー
それはきっと禁句だったのだろう。
「ふん、いいよ。次は、当てる」
息一つ乱さない相手に焦れていたのだろう。
リーゼリットの影から、まるで触手のように実体を持った影が伸びる。
それは体躯をくねらせながら、リーゼリットに追従する。
「こいつはーーっ!」
「君は影から離れることは出来ない。それは人にしてみれば絶対だ。生きている影を操るなんて、疲れるんだけど仕方ないよね」
走っても、跳んでも、転がっても、影は常に後ろにある。
迫る槍を相手にしながら、それを躱し続けることはどだい無理な話なのだ。
リーゼリットの身体を影が捉える。
巻き付き、拘束する。
蛇のように相手を絞め上げ、腹部から胸骨を圧迫され、リーゼリットは思わず呼気を漏らす。
「やっと、捕まえたーー!」
足を止めた騎士に、影が殺到する。
足留めではなく、それは明確な殺意を持って、リーゼリットに迫る。
拘束され、動けない彼女に、それを避ける術は存在しないーー
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