ホルマリン漬けの恐怖

井澤文明

白梟と断末魔

 目が覚めると、天井に人がぶら下がっていた。

 その人が果たして、まだ生きているのか、或いはもう生き絶えているのか。それは私には分からない。ただ分かったのは、私の命が危機にさらされていることだけだった。


 そこは、暗く古めかしい、中世ヨーロッパを彷彿とさせる、狭い部屋の中。腐ったりんごのような悪臭が部屋の中を漂い、私の鼻孔をくすぐり、肺に満ちる。私は、自分の冷たい石の地面で寝転がる体を奮い立たせ、立ち上がる。

 ふらりと世界が揺らぎ、鈍い痛みが頭の中を駆け巡る。


 部屋の中を見渡した。


 ホルマリン漬けにされた小動物や人体が部屋中に、嫌という程、丁寧に並べられていた。

 壁には、有名絵画が飾ってあるかと思えば、そのすぐ横に、鋭利な刃物がかかっている。黒いシミが、壁にこびりついている。よく見れば、それが血の跡だと分かる。

 べっとりとした冷たい汗が、身体中から吹き出る。

 遠くから、人の叫び声がした。男とも、女ともとれる叫びだ。


 断末魔。


 なぜかその言葉が、頭に浮かんだ。あの叫び声断末魔は、きっと、誰かが最後に吐き出した、唯一できた、犯人に対する抵抗なのだ。

 ぶるりと、体が震える。

 私もいずれ、ああなるのだ。

 天井に吊るされるのか、或いは嬲り殺されるのか。もしくは、もっとひどい目に合うかもしれない。ホルマリン漬けにされるのだろうか。

 それが、ただただ、恐ろしかった。

 死にたくない。私は、まだ、まだ、まだ、生きたい、生きたい。


 部屋の外廊下から、大きなモノを引きずる音、そしてカツリカツリと、誰かの足音が響く。きっと、あの殺人鬼のものだ。

 濃い血の匂いが、部屋の中まで伝っている。

 心臓のばくばくという音が、私の身体中に響き渡る。口から内臓が飛び出そうだ。


 時間がない。


 脳に住む、冷静な私が警告する。逃げなければ。

 だが、部屋には扉は一つしかない。窓が一つあるが、あまりにも小さくて、私では通ることは不可能。


 考えろ。考えろ。考えろ。カンガエロ!!!!


 心臓の爆音と、殺人鬼の靴音が、思考を妨害する。

 硬い靴音と重いを引きずる音が、すぐそこまで来ている。


 だめだだめだだめだだめだめだめだめだめ来ないで!!!


 もう、呼吸することさえ、ままならない。

 冷えた両手で髪をむしり、解決策を導き出そうとする。だが、何も浮かばない。

 ただ、逃げなければいけないという事しか、頭にない。


「もう、だめだ」


 その時。

 あの小さな、小さな窓から、一羽の白い梟が飛び込んできた。

 それは、まるで願いを叶える流れ星のように美しく、勇ましく、すざましい速さで部屋に入ってきた。

 そしてその白梟救いの手の、小さくも鋭い両足は、おそらく白梟に負けないぐらいに白いであろう、私の顔に目掛けて、飛んできた。

 その鋭利な爪は、私の肌を、骨を、脳みそをえぐった――――かに思えた。


 だが、なぜか私は痛みを感じなかった。

 しばらくの静寂が訪れた。心臓の鼓動も、硬い靴音も、死体を引きずる音も。何もなかった。


 そう、夢だったのだ。


 どくん、と私の心臓は安堵のため息を漏らす。


 白梟の琥珀色の瞳が、私に静かに、だがいやに恐ろしく冷たく語りかける。


「もう、目覚める時間だ」


 そして、私は目を覚ます。


 目が覚めると、天井に人がぶら下がっていた。

 その人が果たして、まだ生きているのか、或いはもう生き絶えているのか。それは私には分からない。ただ分かったのは、私の命が危機にさらされていることだけだった。

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ホルマリン漬けの恐怖 井澤文明 @neko_ramen

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