第十話

 起床したその瞬間、頭がぐらぐらとして、こめかみの辺りがドクドクと力強く脈打つのを感じた。僅かに開いた目をしぱしぱと瞬かせると、白いレースカーテン越しのぼんやりとした光でさえ今の私には眩しすぎて、再び目をぐっ、と瞑る。ベランダの手すりにバラバラと落ちる雨の音。私は眉間に皺を寄せて深い溜め息を吐く。ここのところ治まってくれていた偏頭痛が私を襲った原因は、おそらくこの雨だ。忌々しい。

 一度起きてしまえばまたしばらく眠りに付けないことは、今までの経験上分かっている。布団を被って出来る限り光を遮断し、静かに眠気が訪れるのを待つしかないのだ。

 眉間に皺が寄る。目頭を右手の親指と人差し指でぐりぐりと押すと、少し楽になるけれど、それも長くは続かない。それも、分かりきったことだった。

 偏頭痛の時は冷やすのが良かったのか、温めるのが良かったのか。思い出そうとして、けれど痛みで思考がまとまらない。こめかみに手を当てると、血管がドクドクと脈打っている。冷えた手のひらを額に押付けると、少し気持ちがいい。冷やすのが良いのかもしれない。

 ふと気になって、スマートフォンで時間を確認すると、時刻は昼を回っていた。確か、有沙は今日授業が早く終わると言っていた。もう少しで来るかもしれない。

 手のひらはすぐにぬるくなってしまった。少し、熱があるようだった。どこにやってしまったのか分からない体温計を探す気にもなれず、芋虫のように布団にくるまる。眠気が訪れる気配はない。雨のせいで部屋の中まで蒸していて、布団をすっぽりと被ると死ぬほど息苦しい。窒息死してしまえばいい。ああでも苦しいのは嫌だ、なんて、とんだ我儘だ。

 有沙にひと言連絡を入れておこうかとスマートフォンに手を伸ばしたけれども、合鍵を渡したことを思い出して手を引っこめる。

 そう、合鍵を渡したのだ。つい3日ほど前に。別にこの行為になんら深い意味はない。毎度インターフォンを鳴らされるということが、私にとって負担だと感じたから渡したまでだ。期待することはしたくなかった。ただ、それだけ。

 彼は、私がこんな時、どんな風に傍にいてくれたのだったか。もう一度手のひらを額に当てる。ああ、思い出した。彼も、冷えた手のひらをこうやって額に当てて、私がもう一度眠るまで慈しみに溢れた目で私のことを見つめたのだ。その目がなんだか母に似ている気がして、母とは似ても似つかない男の手のひらに頭を擦り付けた。時折動かされる親指の感触。黙っているのが嫌で普段より饒舌に喋る私の話に耳を傾けながら相槌をうち、しばらくすると「もう寝なさい」と嗜めたあの声。私は子供のように駄々を捏ねて、でもその優しい声が心地よくて、すぐに寝てしまった。子供もびっくりの早さで。そして私の意識が遠いていくその時には、いつも「おやすみ」という声が聞こえた。

 幸せな思い出に浸りながら、私は泣いて、そして眠る。

 あの声が聞こえた気がしたのは、きっと、私の都合のいい妄想だ。


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