第十一話

 つい三日ほど前から、セミが鳴き始めた。ミンミン、シャンシャン、うるさいことこの上ない。ベランダに出れば、どこまでも続きそうな真っ青の夏空と、白い入道雲が待ち構えている。木々はその濃い緑の葉をぬるい風に遊ばせた。日差しは私の目を、肌を、髪を、至る所を一瞬で焼く。子供たちが公園で水遊びをしている。その水飛沫でさえもきらめいて、何か尊いようなものに思えるのだから、恐ろしい。子供から少し離れた場所で、母親らしき女性たちが、その様子を見守りながら談笑している。このクソ暑いのによく笑ってられる、などと思いながらも、そこに羨望、嫉妬、そういう感情があるのは自分が一番よくわかっていた。私にも、あんな未来があったかもしれない。子供がいて、水遊びをして、同じ母親の友達がいて、優しい夫がいて、毎日こんなヤニの臭いが染みついた暗い部屋などではなく、白い壁の、花が飾ってある、庭付きの一軒家に住んでいたかもしれない。

 乾いた笑いが漏れた。想像が私を突き刺す。何をどうあがいてもそうならないことを、日が差しているのになぜかどうしようもなく暗い部屋を振り返り見て確信した。現実の私は酷く愚かで、滑稽で、それはもう目も当てられない。

 日差しがチリチリと私の肌を焦がす。心地よい痛み。そのままアイスみたいに溶けてしまえればいい。溶け落ちた私は、蟻が食べてくれるだろう。

 額から汗が一筋、二筋、と落ちていく。私の首筋に垂れた汗を、あの人が舐めたのを思い出した。しょっぱいね、なんて笑って言ったから、私は怒ったのだ。怒った私の機嫌を取るために、彼は冷たいレモンのチューハイを作ったけれど、少しアルコールが強かったのを覚えている。爽やかなレモンの香りが鼻腔をくすぐったような気がした。夏の記憶。





 「なにしてるの」

 ゆるゆると後ろを振り返ると、汗だくの有沙がそこにいた。片方の口端を持ち上げた笑い方には、無邪気さが溢れている。手に提げているビニール袋の中身は、恐らく飲み物だろう。私が飲み物すらろくろく摂取しないせいだ。分かっていて彼女に甘えている。何もできない自分にもどかしさを感じながらも、その場から動けずにいる。

「なにも」

 ベランダ用のピンク色のスリッパを脱ぎ捨て、私の領域に戻る。冷たいフローリングの床に座り込んで、ローテーブルに肘をついた。彼女は私の返事を聞くと小さく笑って、冷蔵庫へと足を向ける。相変わらず外へ出ない私の代わりのように、彼女の白い肌は日に日に健康的な小麦色の肌に近づいている。日焼け止めを塗らないのか聞いたら、面倒だから塗らない、と、心底嫌そうな顔で言っていた。

「何飲みたい?」

 私はその問いに答えるのに、しばらくの時間を要した。頭が茹だっている。思考がまとまらない。でもそれが心地よくて、彼女がいつまでも返事を待っていることにまた甘えて、その時間に浸る。

「レモンのおさけ」

彼女はニヤリと悪そうな顔をした。

「昼間からお酒とは、悪い奴だ」

そう言いながら、彼女の買ってきたものの中にアルコールがあるのを私は知っている。彼女はもう一度冷蔵庫に向かい、レモンと炭酸水、焼酎を取り出す。グラスに氷を入れ、こなれた手つきで炭酸水と酒を混ぜ合わせながら、レモンを絞る。マドラーとグラスが氷と触れ合ってカラカラと音を立てた。それを、ぼうっと見つめる。

 昔から、人が何かしているところを見るのが好きだった。それは例えば母親の化粧であったり、料理であったり、父親が髭を剃っているところであったりした。特に化粧は、何をしているのかよくわかっていなかったから、余計に面白かったのだと思う。母が化粧をする時は、いつも後ろか横にいて、終わるまでずっと見ていた。母は嫌がらなかったけれど、なんとなくくすぐったい、というような顔で笑って、私の頭を撫ぜてくれた。優しい手。ハンドクリームの柑橘っぽい匂いが好きだった。

「涼子」

 私の髪をゆっくりとひと撫でしたその手はいつかの母のようで、私はうっとりとして瞼を落とし、微かに震わせる。テーブルに置かれたグラスからは、レモンの匂いと、炭酸のシュワシュワという音がした。彼女は私から離れ、二週間ほど前に出した扇風機のスイッチをオンにする。冷房は極力付けない。彼女が体が冷えることを嫌うから。

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。その先には泡を生み出し続ける飲み物があった。手を伸ばし、グラスに浮いた露を撫で、持ち上げる。のろのろとした亀のような私の動きに、彼女は文句ひとつ言わない。ただニコニコと綺麗な顔に笑みを浮かべて、私の動き一つ一つを逃さないように見ている。氷の下から這い出てきたレモンの残骸を反対の手の小指で沈め、ようやく口をつけた。アルコールはきつすぎず、レモンの加減は丁度よく、しゅわりと舌の上で弾ける炭酸が気持ちいい。

「おいしい」

「そう。よかった」

 彼女は私の答えに満足げな表情を浮かべそう言うと、自分の酒を作りにキッチンへ向かった。私は、彼の作った酒を思い出すなんてことは言えず、ちびちびと彼女の作ったそれを飲む。

 少々雑にマドラーをかき回す手つき。ガラガラと氷を入れる音。一つ一つの動作や音は鮮明に覚えているのに、どうしてだか、その時の声や言葉ははっきりと思い出せない。首筋にかいた汗の匂いも。

 セミは飽きることなく鳴き続ける。まるでつい数か月前までの私のようで、嫌になる。早く死んでしまえばいい。どうせ一週間の命だ。交尾をして、それで終わり。私にはそれすら出来たことではないのだけれど。

 有沙は作った酒を持って、私の隣に座った。そしてひと口それを飲むと、私の肩に腕を寄せ、頭の上に顎を置いた。優しく、丁寧に、慎重に。あの人ほどの力強さはない微かな抱擁じみたものに、私はひどく安心を覚え、そして母の体温を思い出す。


 夏だ。夏がやってきた。頭の回らない、感覚を頼るだけの夏が。

 私は、ほんの少しだけ酔いの回った頭を彼女に預け、もう一度瞼を落とした。

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