第十二話
威勢のいい風と共にやってきた潮の匂いが鼻をくすぐる。運転席に座る有沙は、大きいサングラスをして、大きい音で気に入りの音楽をかけて、大声で歌って、随分と機嫌がいい。でも、時折こちらを見ては、溢れんばかりの笑顔を溢すその目が見れないのがちょっと、残念だと思う。
波に反射する日差しが目を焼く。目を閉じても、そのきらめきは私を離さない。まるで、私の瞼が光っているみたいだった。あの人のことすら、ほんの一瞬だけ、光で塗り潰してしまえるような気がした。
海に行こうと言い出したのは、勿論有沙だった。そして、当たり前のようにそれを却下した。
今は盆で、人は多いし、夏真っ盛りで暑いったらありゃしないし、そもそも水着など捨ててしまっている。しかも車という足がないうえ、もしあったとしても、以前運転をしたのはそれこそ覚えていないぐらい昔の話だ。事故を起こしかねない。私はそう説明したけれど、彼女は諦めなかった。
人があまり来ないいい穴場を知っている。水着なら持っていないだろうと思って今日買ってきたし、車は借りればいい。免許もあるし、免許取得から一年以上は経過していて、その海への行き方もしっかり覚えている。だから自分が運転すれば問題ない。
そこまで盛大に論破されてしまえば私には行くという選択肢しか残されていなかったし、しょうがないわね、と言った私の言葉に盛大に喜んだ彼女を見て、まあいいかという気持ちになってしまったところもある。結局のところ、絆されたというのが一番正しい。
「着いたよ」
目を開ける。駐車場のようだけれど、数台の車しか止まっておらず、穴場というのは本当のようだ。
車から降り、ぐっと伸びをする。有沙も車を降りて、後部座席に乗ってある荷物を漁り始めた。服の中に着こめなかった私の水着にしぼんだ浮き輪、日焼け止めクリーム、タオル、替えの下着なんかが詰め込まれたそれを準備していた彼女の嬉しそうな顔は、私の庇護欲をくすぐった。母性、と言い換えることは、出来そうで出来ない感情だった。
準備は後で手伝うことにして、私は服を脱ぐ。水着を下着の代わりに着ていたから、上の服を脱ぐだけでいい。谷間の辺りの布をクロスさせた深緑色のビキニトップスは、肩紐の辺りがタンクトップのようだし、アンダーも細すぎず安定感があるデザインで、私好みだ。下はビキニの上から、トップスと同じ深緑色のベースに、アジアンテイストの大きめの花や草木がプリントされているフレアパンツ型のボトムを取り出して履く。上下共に露出しすぎず、しなさすぎるわけでもない、いい塩梅の水着だった。
「あ、もう着替えてる」
「先に着替えてしまおうと思って。あとは私がやるから、着替えてていいわよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
膨らましかけの大きい浮き輪と空気入れを有沙から受け取る。昔は父と、どちらが先に膨らませられるかで勝負した。結局いつも父の勝利で終わるのは目に見えていたけれど、それでも、そういうじゃれあいが、馬鹿みたいに楽しかったのだ。
浮き輪はどんどん膨らんでいった。当然のことながら、空気入れで空気を入れる浮き輪は人が入れるよりずっと早くて、なんだかその勢いが恐ろしい。まるで、着実に、迅速に、スピーディーに終わりへと向かっていた、あの頃の私のようだった。終わりなんてないと思っていた。弾け飛んでしまうことなどないと。でも何事にも終わりは付き物なのだと、馬鹿で愚かで純真だった私はその時初めて知ったのだ。
「結構おっきい浮き輪だね」
はっとして斜め右上に顔を上げると、水着に着替えた有沙がいた。黒一色のシンプルとしかいいようのないビキニは、しかし彼女の魅力を最大限に活かしている。トップスはホルターネックタイプで、彼女の細く長いしなやかな首に絡みつく。惜しげもなくさらけ出された胸はツンと上を向いていて、その谷間はきっと男を誘う。腰よりもやや低い位置でボトムスのちょうちょ結びになった紐が揺れて、腰の細さを強調する。そこから続く足首までのなめらかな曲線は、美しい以外になんと形容すればいいのだろう。それなのに、剥き出しの何も履いていない素足はことさらに無防備で、今度はペディキュアだけれど、また同じ赤色を塗ってやりたいと思ってしまう。彼女の素足や手は、なぜか私には純真無垢な子供の手足のように見えてしまうのだった。
「そうね」
「ねえ。水着、凄い似合ってる」
彼女は私の水着姿をじっくり見ながら言った。世辞のように思えてならないけれど、それが本心からの言葉だということを、私はこの数か月間彼女と過ごして少しわかるようになっていた。いや、というより、彼女は私に対して嘘の一つもつかなければ、本心以外を口に出すこともないのだ。似合っていなければ似合っていないと言うし、誤魔化しの言葉を吐き出すこともない。それはこの社会の中に属するうえでひどく生きづらい癖だと思うのだけれども、私以外には嘘をついたり、お世辞を言ったりするのかもしれない。わからない。私は、私に対して真摯な目を向ける有沙しか知らなかった。
「あなたも、凄く似合ってるわ、それ」
「そう? めちゃくちゃ嬉しい。ありがと」有沙は照れ臭そうに笑う。
「私の水着も、選んでくれてありがとう。お礼を言うのが遅くなってしまったけれど」
「いいのいいの。私が無理に誘ったんだし。……あ、日焼け止めまだ塗ってないよね? 塗ってあげる」
お願いするわ、と言おうとした私の言葉も聞かず、後部座席のドアを勢いよく開けて日焼け止めクリームを探し出す有沙の後ろ姿を見ながら、私は額に滲み出る汗を腕で少々乱雑に拭う。あったあった! と喜び勇んで私の背後に回る彼女は、さっそく私の髪をかき分け、背にクリームを垂らし塗り始めた。私は自分の髪を胸のほうに抑えながら、背中を蹂躙していくその手の感覚を、目を瞑って追いかける。彼女に触れられている部分だけが、茹だってしまいそうだった。
「終わったよ」
そう私に声をかけた彼女のそれは凪いだ海のように穏やかで、ああ、今日は来てよかったと、その瞬間思った。無理くり連れてこられたようなものだったし、日差しはまだ、私には眩しくて痛くて、涙がこぼれそうになることもあるけれど、それでも、たった一言でこんなに胸が満たされるのなら、また来てもいい。
私は立ち上がって、彼女の背に回った。海を待ちきれない彼女が私を急かす。思わず笑う私に、彼女は怒ったふりをして、それから笑った。海のさざ波も、笑っているようだった。
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