第八話

 美しいものだけを見ていたかった。きたないものは、私の体であっても心であっても、きたないものに他ならない。

 有沙との生活を頭の中に描く。彼女が言っていたことを、すべて。幸せと呼べるかはわからないけれど、ありふれた様な生活を。

 理にかなっているのかもしれない。至極単純にそう思った。でも、私にそれを伝えるほどの勇気は、まだない。


 有沙がこの家に来るようになってから、ひと月が経過していた。今日は五月十六日。毎日のようにやってきて、バイトがどうだとか、大学がどうだとか、くだらない話をしては帰っていく。たまにセックスをする時もあるが、誘うのは毎回彼女からだ。私は程々の相槌と少しの問いかけをするぐらいで、頷くでもなくただ話を聞いていることの方が多かった。まるで別世界の出来事を聞いているようで、何も言えないのだ。まるきり同じではないにしろ、一度通った世界のはずだったのに。あの頃はいったい、何をしていたのか。何を考えていたのか。どうしたって思い出せない。のうのうと生きていたことだけは、はっきりと覚えている。

 私はといえば、彼女が昼過ぎにも来るようになったことで、午前中には目が覚めるようになった。それでもまだ家から出ることが億劫で、彼女にお使いを頼むことも多い。内容は煙草と水。それだけしか頼まないというのに、彼女は色々気を利かせて買ってきてくれる。それらはサラダだったり、電子レンジにかけるだけで出来るハンバーグなどの惣菜だったり、コーヒー豆だったり、食べ物が多い。ろくに食べることもしない私を見かねているのだろうことは嫌という程わかる。

 家に来る前には、必ず電話があった。電話の後は、だいたいいつも十分ほどでインターホンが鳴る。その度に期待は裏切られ、有沙に対する根拠の無い罪悪感が湧き、そしてそれらを見なかったことにする。そんな自分に反吐が出た。

 一体全体、いつまであの男に執着しているのか。有沙にしておけばいい。彼女は私を、きっと愛してくれる。わかりきったことだった。こうして毎日のように訪れる彼女もいつかは離れていくかもしれない。しかし、限られた時間でも、愛されているほうが余程良いではないか。自己嫌悪に浸り、ありもしない想像に頭を働かせ、頭を掻き毟るよりも、彼女からの愛に身を委ねてしまえばいい。

 しかしそれは、私の中では絶対に許されない行為だ。私自身に対する裏切りだった。

 有沙は私に何も求めない。勿論私から求めることがないのは分かりきったことだとして、彼女の方はどうだろう。仮にも私のことが好きだと言っているのだから、何かを求めても可笑しくはない。

 今更思えば、私は彼に、その何かを求めすぎていたような気がする。キスやセックスもそのひとつではあるけれど、違う。愛が欲しかった。それこそ、恥も外聞もないほど愛して欲しいと、強請り過ぎていた。手を繋いで歩きたかったし、くだらない話をしたかった。もっと笑い合いたかった。お互いがどろどろに溶けて、ひとつになってしまうぐらい、一緒に居たかった。なにより、私が彼に注ぐ愛と同じだけ、彼にも私を愛して欲しかった。我儘だろうか。我儘なのだろう。いい歳をこいて、こんなこと。未練がましく、彼との思い出だけを抱え込む私に、有沙は私が欲しかった愛情をくれる。それなのに、私からは返せない。彼女のことは嫌いじゃない。でも、愛してはいないのだ。確実に。

 チャイムが鳴る。私はひとつ深呼吸をして、重い腰を上げた。

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