第七話
柔らかな光が白いカーテンを通して部屋に差し込んでいる。その光に照らされれば、こんな引きこもりの女が住んでいるだけの部屋も、不思議と明るく、正常に見えてくる。何が異常で何が正常かなんて、定義は無いのだけれど。
眩しさから目を背け、壁に向かって寝返りを打つ。もう一度眠ろうとしたその時、ぴんぽん、と間抜けなインターホンの音が流れた。思わず眉根を寄せ、迷いつつも、仕方なしに起き上がる。足裏にひやりと冷たさが伝わり、顔はさらにくしゃくしゃになる。ドアスコープを覗いたその先にいたのは、有沙だった。
一瞬躊躇いつつもドアを開けると、彼女は「おはよう」とにっこり笑った。微かなえくぼが浮かび上がる。
「……おは、よう」
「今起きたでしょ。寝癖、ついてるよ」
私の髪を、細長い指先で梳く。起き抜けの回らない頭で抵抗することなくそれを受け止めていると、「とりあえず上がらせてよ」と勝手知ったると言わんばかりに私の家へ上がっていく。
その後を着いて歩きながら、おはよう、という挨拶を交わした最後の記憶を思い出そうとした。いや、既に思い出していた。
最後の夜を彼と共にした、翌日の朝10時。晴天としか言いようのない、雲ひとつない青空が広がっていた。丁度、あれは秋口の辺りだったか。布団から抜け出すと、寒くて、彼の体温が欲しくなった。ほんの少し寂しそうに笑う彼の顔なんて見たくもなくて、私は色褪せた青空だけを、窓越しに眺めていた。
「おはよう」
返事などもう必要ない。
まとめた荷物を持って、彼は静かにこの部屋を出て行った。震える私を置いて、振り返りもしなかった。だから、彼の最後の顔は思い出せない。
思えば、ほとんど一緒に住んでいたようなものなのに、彼の荷物はボストンバッグひとつで事足りる量だった。
つまりは、そういうことだ。ボストンバッグひとつに収まる程度の、小さな小さな女だったのだ、私は。その事実からいくら目を背けようとしても、ひとつの変化もない部屋が私に希望を抱かせる。
「きっと帰ってくるわ」
寝ぼけたことを呟いた声は、無意味に部屋中を駆け回り、自分の耳に反響した。
「涼子?」
「……なんでもないわ」
私は頭を軽く左右に振って、コーヒーでも入れようとキッチンへ向かった。ケトルに水を入れ、スイッチを押す。食器棚からマグカップを二つ取り出し、インスタントコーヒーをざらざら入れようとしたところで、一杯分しかそれがないことに気がついた。仕方無しに彼女の分だけにお湯を入れ、余ったマグカップを食器棚に仕舞う。淹れたてのコーヒーと砂糖、それにミルクを昨日と同じように目の前に置いた。ありがとう、と言って、彼女は砂糖とミルクをダバダバと入れた馬鹿みたいに甘いコーヒーを作りはじめる。これでは糖尿病まっしぐらだ。
「涼子の分は?」
「……ちょうど、豆が無くなったの」
彼女は少し思案し、カップをこちらに差し出した。
「……飲む?」
「とてもじゃないけど、飲めたものじゃないわね」
「ひどいなあ」
残念そうな顔をして、まだ熱いコーヒーに口をつける。小鳥が水を飲むように、少しずつ。伏せた睫毛は長いことこの上ない。
「あ、じゃあ、豆買いに行こうよ」
「……気が向けばね」
今は、外に出ることすら億劫だった。こんな、何もかもカピカピに干からびてしまいそうな晴れた日に外に出るなんて、考えるだけでたまらなく嫌になる。なんなら今でさえ、遮光カーテンを閉め切って、暗闇の中に閉じこもってしまいたいのだ。死んでしまったカタツムリみたいに。
一昨日の私を突き動かした衝動とは、一体なんだったのか。でもあれがなければ、有沙とは今も出会ってはいないのだ。出会ってしまったのが正解なのか、間違いなのか。それは分からないけれど、然るべきことだったのだろう、きっと。彼がいなくなってしまったことも。私がこんなふうになってしまったことも。時の流れに慈悲はない。そして、彼女にも。
「ねえ、クローゼットはどこ?」
テレビの横のクローゼットを指さすと、彼女はなんの躊躇いもなく扉を開けた。
「ちょっと」
思わず声が出た。それでも彼女は手を止めず、クローゼットの中身を物色しながら、ぶつぶつとなにか呟いている。
「ちょっと!」
「え? なに?」
やっと漁る手を止めこちらを振り向いた彼女は驚きの表情を浮かべている。驚きたいのは私だ。
「行かない、って言ってるでしょう」
前髪をぐしゃりとかきあげた。頭が痛くなりそうだった。
「じゃあいつ気が向いてくれる?」
「子供じゃないんだから、」
「あたし、まだ子供だよ。19歳だもの」
その言葉に素直に驚いた。こんなにも美しい女が、二十歳にも満たない子供であったなどと誰が思うだろう。いや、女ではなく娘とでも形容すべきだろうか。二十歳になったからといって必ずしも大人だとはいえないものの、しかし、まとわりつく雰囲気、オーラ、言いようのない何かが、彼女を酷く大人びて見させる。びっくりした? なんて言いながらクスクスと笑うその姿や、先程の言動は少し、子供らしさが滲み出ている気もしないではないけれど。
「ねえ」
いつの間にやら俯いていた視線を上げると、白いミモレ丈のワンピースが彼女の手によってクローゼットから取り上げられていた。何の柄も入っていない、ただただ白い、真っ白のワンピース。一度も着たことのないそれは、彼が立ち去るほんの少し前に買ったものだった。次のデートで着よう。そう思っていた。次が来ることなどないとも知らず、呑気に頬を緩め、デートの日を想像しては高鳴る胸を押さえながら。
「それだけは着ないわ」
気付けばそう口に出していた。涙が出そうだった。古くさい少女漫画の主人公みたいに、浮かれていた馬鹿な私。それを着られる日はきっと来ない。クローゼットの肥やしになるぐらいなら、視界に入る度に思い出してしまうぐらいなら、捨ててしまえばいいのに、出来なかった。無意識に眉間に皺が寄る。奥歯はギリギリと音を立てた。爪は口元へ運び込まれ、そして噛み裂かれる。やめたくてもやめられない。繰り返し行われたそれに耐えられず、私の爪は歪な形をしている。彼女の爪とは正反対のそれに私は嫌悪感すら覚えた。
「わかった」
彼女はそう言って、それを丁寧にハンガーにかけ、クローゼットの奥の奥、二度と見れないほどの場所に、そっと隠すように仕舞う。そして、私の体すら抱き締めて、何かから隠してしまった。何か、得体の知れないもの。私を苛むもの。逃げ続けたくて、でも逃げ続けられないものから。
「ねえ、逃げよっか」
私の耳元で彼女は囁いた。その言葉の意図は汲み取れない。どんな表情をしているのかすら分からない。
けれど一体、何から逃げるというのだろう。どこに逃げるというのだ。私は逃げられない。
小さくかぶりを振る私を、彼女はより一層強く、少し痛いぐらいに抱き締めた。じわりじわり、微かな温もりが、お互いの衣服を通り越して混ざり合う。危険から身を潜め、傷を舐め合い、身を寄せ合う私達は、獣だ。人間をやめた、なにか別の生き物なのだ。
いや、存外私は人間なのかもしれない。私よりもむしろ、彼女の方が、人ではない何か特別なもののように思えた。
「ねえ、豆を買ってきて。それと、煙草も」
しばらく一人になりたかった。久しく人と会っていない私に、この二日間は刺激が強すぎた。なだらかな砂漠の砂のように、穏やかに揺れる海の波のように、静かな場所で一人きりになりたかった。
「いいよ。銘柄なんだっけ?」
彼女はゆっくりと私から体を離し、天女と見まごうほど、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。喋る内容は子供じみているのに、なぜこうも縋りたくなってしまうのか。大の大人が、何をしているのだろう。ましてや十九の女の子に煙草のおつかいなど。
けれどもう考えることにも疲れてしまった。彼女が警察に捕まりさえしなければ、どうだっていい。
「赤ラークのロング。分かりにくかったらメモを渡すけど」
「へーき。コンビニでバイトしてるから、銘柄は結構覚えてるよ」
それにしてもチョイス渋いね。とからから笑う彼女に、曖昧な笑みを返す。
「じゃあ、いってきまーす」
ぱたん、とドアが閉まると、少し気の抜けた炭酸になった気持ちになった。今日も、締め切った窓すら通過して、春の陽気が部屋に立ち篭めている。
ここから一番近いコンビニまでは、歩いても五分ほど。甘ったるいコーヒーもどきが入ったマグカップをシンクへ追いやって、残った僅かな煙草に火をつける。ぷっかり浮かぶ煙に、思い切り息を吹きかけた。意味の無い行為。しばらくそうして、ひとり遊びに勤しんだ。そういえば、子供の頃はよく一人で遊んだ気がする。
彼女がドアを開ける音が聞こえていた。ただいまー、なんて言う呑気な声も。けれど聞こえないふりをした。億劫だった。見て見ぬふりをして、全部流れ去ってしまえばいいと思った。この二日間のことも、過去のことも、未来も。そうしたら、平穏で、まっさらで、おろしたてのワイシャツみたいに白い私になれるかもしれないじゃない。
は、と自嘲気味に笑う。ぐしゃりと灰皿へ火を押し付ける私の指先は、まるで獣の爪のように汚れ、黒に塗れていた。
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