第六話
「あたし、この家に住みたい」
開けっ放しになっていたベランダの手すりに腕をかけた有沙が、ぽつりと呟く。黒の下着だけを身に纏い、ぼんやりとした月の光を受ける彼女の表情は見えない。その光景を、冷めきったコーヒーに口をつけながら眺めた。甘ったるさは霧散し、あと数日で満ちるだろう月が煌々と光り輝いている。かぐや姫の生まれ変わりなんじゃないか、なんて馬鹿な考えが頭をよぎった。それほどまでに、彼女と月は、違和感なくそこに存在していた。つるりとした陶器のような背中。少し浮いた肩甲骨の窪みの影。片側に寄せられた黒髪のひと房が背に垂れている。耳の縁が淡く光る。
「ここに住んで、毎日一緒に過ごすの。朝起きて、あたしは大学に行って、帰ってきたら晩ご飯を食べて、テレビを見て、お酒を呑んで、くだらない話をして、抱き合って眠る。毎日囁くの、おやすみ、って。あたしの大学がない日は、一緒に掃除をして、お昼ご飯を食べて、買い物に行って、おやつを食べて、お昼寝して、セックスして」
楽しげに語られるそれは、まるで夢物語のようだった。夢を見ていたあの日々は、遠い過去のようで、でも思っているよりも近い。
「やめて」
体のあらゆる力を使って絞り出した声は、情けないほど揺れた。彼女は振り向いて、「どうして?」と、首を傾げる。その口元が、心無しか微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「どうしても、よ」ゆるく唇を噛む。
「あたしはどうしても、ここに住みたい」
「言うこと聞きなさいよ、あんたの家じゃないのよ」強く、唇を噛む。
「だからお願いしてるの」
「幸せになんてなりたくない!」
声を荒らげるなんて、久しぶりのことだった。自分で思ったよりも大きな声が出たことに、私自身が一番驚いた。
「……ごめんなさい、こんな、大きな声を出すつもりじゃなかったのよ、ほんとに」
言い訳がましくつぶやく声は、だんだんと小さく、か細く、やはり情けなく震える。かさついた声。俯いた視界に映るのは、ぼさぼさの髪と、きたない跡の残った腕。
「明日も来るよ」
それと相反する、凛として、しっかりと根を張り、枝葉を伸ばした大樹のような彼女の声が、私を揺さぶる。
「明日も、明後日も、明明後日も、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も、毎日会いに来るから、だから」
裸の足が近付いて、思わず顔を上げた。人口の光に照らされた彼女が私の手を取り、その甲に口付ける。伏せられたまつ毛までもが微かに光り、白い瞼の下から覗く黒々とした瞳が、ゆっくりとこちらを窺う。名残惜しそうに離れていった少しかさついた唇は、言葉を紡ぐことを躊躇している。頬、首筋、耳の順に、彼女は掌を滑らせ、最後に私の髪を耳にかけさせた。膝立ちになった彼女が私を見下ろし、視線と視線は絡まりあう。
「今日は、帰るね」
私の前髪をそっとかきあげ、額にキスをひとつ落とした。彼女は散乱した衣服を拾い集め、テキパキとした動作で身に着けていく。時間が巻き戻っていくようで、思わず顔をくにゃりと歪めた。そんな私を、愛おしそうな頬笑みを浮かべて見つめる。
「明日も、来るよ」
ドアがガチャリと音を立てる。その背中を、いつまでも見つめ続けた。
期待はしない。明日も明後日も、明明後日も、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も、もしその日が来るとしても、期待はしない。期待、というのは、裏切られるために存在するのだ。ほんの二時間程前のように。
風呂に入る気にもなれなかった。もちろん、何かを食べる気にも。僅かな情事の跡を探して布団に潜り込むけれど、彼女の痕跡は、跡形もなく消え去っていた。ほら、やっぱり。
私はそのまま目を閉じて、ぬるま湯のような眠りに落ちていく。
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