第五話
玄関の鍵をカチャリと回して、扉を開けた。そこにいるのは、艶やかな黒髪を春の風に靡かせた美しい女だ。
「なにか忘れ物でも?」
涙の跡で薄汚く、触れなくともわかるほど瞼が腫れている醜い顔で、至って平静を装う私を、有沙は何もせず何も言わずただ見つめているばかり。彼女が一体何をしにここまでやってきたのかはわからない。思えば、昨日電話をしてからここに来るまで、それほどの時間も経っていなかった。近くに住んでいるのかもしれない。それでも、ここに来る理由などない。ない筈だ。
「とりあえず、上がって」
相変わらず私の顔ばかりを見つめる彼女に痺れを切らし、家の中へと案内する。それを待ってましたと言わんばかりに、彼女は靴を脱いでさっさと家の中に入った。
少々ならば物を置ける程度の丸テーブルに、コーヒーの入ったマグカップを二つ。彼女は床に敷いたラグの上に足を崩して座る。きょろきょろと見渡すその姿は思春期の子どものようで、愛らしい。けれど、細身の濃い色味のデニムジーンズに薄手の白いセーターを着た彼女は、露出は少ないながらも、服の上からはっきりとわかるほどの美しい身体を持っている。
私も向かいに腰を落ち着ける。砂糖やミルクは何も入れていないただのブラックコーヒーを、少しずつ飲む。今日は少し濃い目だ。相変わらず彼女との間に会話はない。何も話すことがないのだから仕方がない。ならば何故ここに? 頭が回らない。砂糖を入れたほうが良かったかもしれない。
しばらくして、彼女がコーヒーに手を付けた。細長く先のとがったアーモンド型のような形の良い爪には、何も塗られていない。それが逆にセクシーで、あまりにも無防備に見えるものだから、真っ赤なマニキュアを塗ってやりたくなる。
ひと口コーヒーを飲んだ彼女は、綺麗な顔を思い切り顰めた。
「……よくこんなの飲めるね」
開口一番言い放った言葉がそれなのだから、思わず笑ってしまう。私は彼女のために、台所へとミルクと砂糖を取りに行く。その後を、彼女は自分のマグカップを持って着いてくる。鳥の親子みたいだ。彼との子どもが出来ることはなかったけれど。自分の下腹をいくらさすったところで、生命がそこに宿るわけがなかった。苦々しい自嘲的な笑みが思わず溢れる。彼女は何も言わない。
「……ミルクとお砂糖、いくらでも自分で好きなだけ入れてもらって構わないわ」
そう言って、私はミルクと砂糖を手渡した。彼女は少し迷ったあと、ミルクを二杯、砂糖を三杯いれて、甘い甘いコーヒー(もはやカフェオレのような)を作った。それを持って、また丸テーブルの前に座り直す。
「リョーコが、死ぬかもしれないって思った」
唐突な話の切り口に、私は少しばかり戸惑った。そこには、その言葉が真実であることや、加えてそれを見抜かれていることへの驚きが少なからず含まれている。
「アタシ、リョーコのこと、ずっと見てた」
彼女は甘いコーヒーを一口飲んで、続ける。
「言っちゃえばストーカーなの。ゴミ袋漁ったりとかそんなことはしないけど、向かいのマンションの同じ階を借りたし、大学がない日はリョーコの部屋を覗いてた」
それが当たり前かのように、彼女はそう口にした。なぜだか私も嫌悪感は覚えなかった。私一人だけを見てくれる人に飢えていたからかもしれないし、彼女が美しい女だったからかもしれない。美しいものは、存在するだけで相対する人や物やその場を狂わせると、私は信じてやまない。実際、私だって狂わされているのだ。美しい彼に。美しい彼女に。
人生をも狂わせる美しいものたちを、私は愛してやまない。
「そう」
私はそれだけ答えた。それ以上に言うべき言葉はなかった。ぬるくなったコーヒーを一口。それを見て、彼女も甘いコーヒーを口に含んだ。
「それだけ言いたかったの」
テーブルに手を付き、身を乗り出して、私の唇にひとつキスを落とす。唇を舐めると、甘いコーヒーの味が舌先にじわりと広がっていく。私はなんだかたまらなくなって、苦いコーヒーを口に含み、彼女の口へと注いだ。苦しげに、嫌そうに歪んだお綺麗な顔が嗜虐心を刺激する。唇を離すと、コーヒーのことなどすっかり忘れてしまって、彼女の体にむしゃぶりついた。それはもう足の先から頭の先まで、全て。ほくろ、痣、傷跡を、ひとつとして逃さないよう、唇を落としていく。つん、と上を向いたどちらかというと控えめな乳房に手を這わせ柔らかな感触を楽しみ、少しちくちくとする、それでも滑らかな脚を撫でさすり、漏らす吐息すらも私の中に閉じこめる。それは、私たちが、溶け、混じり合い、一体となったかのような錯覚を起こさせ、酷く私を興奮させた。溶けかけのバニラアイスのような、彼女の飲んでいたコーヒーのような、甘ったるいセックス。舐める乾いた唇は、まだ少し甘い気がした。
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