第四話
目を覚ました時、私は丁寧に布団をかけられ、寝かされていた。傍に有沙はおらず、それが少し寂しくもありながら、安堵する気持ちの方が強かった。それは私の罪(と言っていいものなのだろうか)を背負わせてしまったような気がしていたからだと思うし、もし、目を覚まして彼女がいたら、私は今度こそ徹底的に依存してしまっていただろうなと思う。煙草に依存するのと同じだ。やめられなくて、泣きたくなる気持ちを抑えてくれる、万能薬。
時間は既に18時をまわっていて、水を求めて開いた冷蔵庫には、水すらも入っていなかった。水があると期待などしなければよかった、そんなことを思う度に、身体のどこかに風穴が空く。コップに水道水を汲んで、キッチンの壁にもたれかかり煙草を吸った。シンクに直接灰を落とす。水をかけられた煙草はジュッ、と音を立てて消えた。水分を含み過ぎている吸殻をゴミ箱に捨てて、ずるずると座り込む。左も右も壁に挟まれた狭い空間にいると、人間ではない何かになった気分だった。ネズミ? ネコ? いや、空気のような、私という存在がどこにもいないような、そんな安心感があった。少し黄ばんだ白く冷たい壁に頬をつけるとたまらなく泣きたくなった。声は出ないし、涙も出なかった。けれど、泣きたくなって、口を大きく開けて大袈裟に泣いたフリをした。心が泣いているのに、身体が追いつかないのだ、きっと。
ぶるりと身体が震えた。寒さは、存外厄介なものかもしれない。私がここに確かに存在していることを示すし、それに、彼を思い出すから。
早く夏になればいい。そう思う。茹だるような暑さの中、考えることなどたかがしれている。何も考えられない暑さを、熱を、体が欲していた。けれどそれは与えられることはなく、少し冷たい春の夜の空気が私を包み込んだだけだった。
彼は今、何をしているだろうか。あの豊かで美しい金髪の妻と、二人で晩酌でもしているのだろうか。ベランダで月を見ながら、冷えたビールを片手に、煙草を吸っている彼の姿が鮮明に、私の目の前に映る。白いカーテンがふわりと揺れているのが幻想的で、その瞬間だけを、切り取ってしまいたいぐらいだった。
窓を開ける。さわさわとゆるい風に吹かれて木々が揺れている。ベランダの手すりにもたれかかってビールを呑む彼の姿がそこにはある。
「おいで」
微笑む彼に、私は少しずつ近づいていく。幸せだ。目の前に彼がいて、あの女ではなく私に笑いかけてくれる、その幸せに胸が詰まる。
「こっちだよ」
彼は手すりを乗り越えて、歩いていく。星空の中を、いとも容易く颯爽と歩く彼の背中を追いかけて手すりに足をかけた。体が半分乗り出すか乗り出さないかという時、ふと下を向いた。視界に映った暗闇に、ゾッとした。
ゾッとした? 私が? 死に対して?
その事実に打ちのめされる。死を望んできたはずの私が、死に対して恐怖を抱く、それはあってはならないことで、私というものを形成している何かが、がらがらと崩れ落ちていくのを感じた。ゆっくりと手すりにかけた足を戻す。身体中が震えているのを自覚する。それはもう目の前に彼がいないことを知ったからか、それとも。
「いつまで私を苦しめれば気が済むの、貴方」
は、と乾いた笑いが込み上げる。声までもが震えている。いくら独りごちても、彼には届かない。風に乗って言葉が届くなどというどこかで読んだような御伽話が、本当であればいいのに。顔を覆ってプリンセスのごとくすすり泣いても、王子様は現れないし、涙は宝石には変わらない。煙草の灰で灰被りの女になるだけだ。
そのまま十分ほどが過ぎただろうか。冷え切った身体が大きく震える。やはり春とはいえど、夜の寒さは部屋着一枚で耐えきれるほどのものではない。それでも、動きたくなかった。
ぴんぽん。インターホンが鳴る。十秒ほどして、私は愚鈍な亀のようにノロノロ動き出した。立ち上がって、歩いて、モニターを見るまでに三十秒かかっている、いや一分はかかっているかもしれない。ドアの向こうにいるのが誰かはわからない。もう立ち去ってしまったかもしれない、けれど。
ありえない少しの期待は、裏切られた私を見下ろしている。
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