第三話

 午後19時、少し肌寒い春の夜を有沙と別れ、家に帰ってきた瞬間、襲いかかる混沌とした空気に私は叫びだしそうになった。汚れた床にベッド、散乱したゴミというゴミ、服、それらはまるで、私を侵入者かのように威圧する。そして私は、自分がまだ、彼女の空気を身に纏っていることを自覚した。彼女の匂いや空気、それらは私が思っているよりも、私の心を侵食し、そしてこの部屋をも侵食した。

 セックス後の疲れた体を奮い立たせたというよりは、もはや勝手に動きだしたと言ってもいい。自然と私は掃除を始めた。馬鹿みたいに大きいゴミ袋にゴミを拾っては入れてを繰り返していく。散乱した服はまとめて洗濯機に突っ込み、二回に分けて回した。本棚、タンス、カーテンレール、ありとあらゆる埃をはたき落とし、掃除機をかける。網戸にした窓から、ひやりとした空気が火照った体を優しく撫でる。有沙の手のようだった。

 朝日が射し込む頃、シーツと枕カバーを洗ってベッドマットを陽のあたる場所に置いた。フローリングにうつ伏せて、彼の冷たさを追う。頬が、胸が、お腹が、脚が、冷たくて、まるで彼に触れられているようだった。それでも私の記憶は薄れて、彼が触れてくれた感触も、もう今では曖昧なものになっている。それでも幸せだった。温もりよりも、彼の冷たさが恋しかった。



 そのまま眠ってしまった私が目を覚ましたのは午後二時過ぎで、また子供の声が聞こえた。冷えた腹に鈍い痛みが走る。体内からどろりと液体が出ていくのを感じて、眉を顰めた。重い体を引きずらせるように洗面所へ向かって、下着を脱ぎ洗面台へ放り投げた。トイレの棚からナプキンを取り出し、部屋に戻って下着を身に着け、ナプキンをつけた。洗面所にもう一度向かって下着についた血を洗い流す。薄れた赤い血が白い洗面台を流れていく。それを眺めながら、有沙にも生理というものは来るのだろうかと思った。彼女の子宮からも血は流れ出すのだろうか。ずきずきとした腹の痛みはあるのだろうか。

 ジーンズとTシャツに着替えて、スマートフォンの電源を入れた。なんの連絡も来ないこの機械の為に毎月お金を払っているのが馬鹿馬鹿しくて仕方がなかったのに、そこには一件の着信があった。一週間も前だ。音声を再生すると、そこには彼の声が入っている。


「やあ、元気かい」


 そんな言葉から始まった彼の言葉は、ひとつも昔と変わらない、彼独特の雰囲気をまとっていて、胸が詰まった。はくはくと口を開けて、唇を噛み締める。息苦しかった。水の中にいるみたいだった。また、私は溺れてしまうのか。


「君と別れてから、ずっと気になっていたんだ。食事はちゃんと摂ってるかい。君は自分のこととなると、途端にめんどくさがるから、心配だ」


 そんなことを言うぐらいなら、どうして私の傍にいてくれないの。胸から溢れ出しそうな言葉は、私の体に滞留していくばかりで、いくら経っても口から出ていってはくれない。痛む腹を押さえてぎゅっと目を瞑って、聞きたくないのに、シン、と神経を研ぎ澄ませて彼の言葉に耳を傾ける。水底の奥深く、そのまた奥で、私はいつまでも溺れている。


「これを聞いたらまた、連絡をくれないか。待ってる」


 それじゃあ、と言って、躊躇いがちにプツリと切れた留守番電話。もう一度再生してしまった。また再生してしまった。繰り返しているうちに、私の口から出てきた言葉は「あいしてる」で、彼が望んでいるのはそんなありふれた言葉ではないのだと思うと腹が痛くなった。


 彼に電話をかけたかった。それなのに、私がかけたのは昨日交換したばかりの連絡先で、何をしているのだろうと思いながら、動けなかった。今すぐ切るべきだと思っても、切れなかった。


「もしもし、どうしたの?」


 電話が繋がった瞬間に、有沙の空気を感じる。咄嗟に声が出なくて、必死に紡いだ言葉は彼女の名前だった。


「有沙」


「泣かないで」


 なぜ私の欲しい言葉をかけてくれるのかわからなかった。涙は出ていないのに、泣かないで、と有沙は言った。私は泣いているのだと思った。


「有沙、会いたいの」


 掠れた声で言葉を振り絞る。


「いいよ、家に行く。 住所を教えて」


 有沙の声は、微笑んでいるように聞こえた。住所と部屋番号を教えると、二十分程して、本当に彼女はやってきた。ピンポーン、とインターホンが部屋に響く。ドアをゆっくり開けると、春の陽気で少し汗ばんだ彼女の姿があった。デニムにスニーカー、白いシャツ、手に持っているのは黒のカーディガンで、シルバーの輪っかになっているシンプルなピアスを付けている。

 なぜだか、有沙の姿を見ると、途端に心臓から力が抜けていった。ぎゅうっ、と押し潰され、誰かに握り込まれていたような心臓は、今や解放感に満ち溢れている。その場にへたり込みそうな体に力を入れ、「中へ」と言うのが精一杯だった。まだ、彼の言葉が、頭に染み付いて離れない。心臓に食いついて、それを餌に成長していく彼が、余計に大きくなった。私の体を、内側から食い破ろうとしているのだと思うと怖くなって、リビングに入った瞬間、腰が抜けた。ジーンズ越しのフローリングの冷たさに震える。もう、外側の彼はいないのに。

 有沙が私の目の前で跪く。そしてそのまま、その胸に私の頭を抱え込む。ゆっくり、丁寧に、葬式で死体を扱うように、髪を撫でられる。ここが死に場所ならば、私というものは消えてなくなれるというのに、そうではないことが恨めしくて仕方がない。彼女の胸から聞こえる心拍が、私の頭を通って体全体に行き渡る。生命活動そのもの、その根源である音に耳を澄ませた。どくん、どくん、と脈打つその心臓が私にもあるはずなのに、なぜこんなにも違うのだろう。なぜ、彼女の心臓はこんなにも生命力に満ち溢れていて、大きく、はっきり聞こえるのだろう。

 ゆっくりと彼女の背に伸ばした左腕には汚い横線のカサブタが蔓延っている。きたないきたないきたない、キタナイ汚い穢い。私は腕からだらりと力を抜いて、頭を抱えられたまま言った。

 

「もう、大丈夫よ」


「ウソ」有沙はすっぱりと言いきった。


「どうしてそう言いきれるの?」


 震えた声の問いに返事はない。その代わりに、頭を抱く力が強くなる。耳に押し付けられた胸元から音がする。ドッ、ドッ、ドッ、と規則的に鳴る心拍を数える。私の体内にも同じ音が流れているのだろうか。有沙と同じ血は流れているのだろうか。背中に回すことを諦めた手は、彼女のカーディガンの裾を軽く掴むにとどまった。

 そうしているうち、有沙の美しい手は私の背で、とん、とん、と一定のリズムを刻みだす。そのあまりの心地よさに、このまま眠ってしまいたくなる。眠って、眠って、何もかも忘れて目覚めたい。何もかも忘れられたら、彼のことなんてどうだってよくなって、私の中には何も無くなって、からっぽになって、セミのぬけがらになれる。無慈悲な子供たちに踏み潰されるだけの存在になれるのに______。

 眠りに落ちていく私を抱きながら何かをつぶやいた有沙の言葉を聞き取ることは出来なかった。足掻くだけ無駄な睡魔に身を委ねる他、私になすすべはなかった。


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