第二話

 久し振りの街の混雑は、私にとって苦痛ではなく、安心を与えるものだった。営業のサラリーマン、OL、学校をサボって遊んでいる学生、買い物を楽しむ子供連れの主婦、イヤホンをして歩く若者、ベンチに座って本を読む老人。行き交う人々は私のことなど目にもとめない。それが心地よかった。一人ではない、けれど独りのこの空間を私は求めていたのかもしれない。

 ホテル街への道は、私の足に染み付いている。真昼間からホテル街をうろついている男を探すのは至難の業だが、男性器がついていれば、それこそ誰でもよかった。太っていようが、どれだけ不細工だろうが、性器が小さかろうが、男であればいいのだ。男の誘い方は、私の口が覚えている。しなだれかかって、甘い言葉を囁いてやればいい。ただそれだけの事だった。金は要求しない。それだけが私の中での決まり事だった。

 暫くの間歩いてみるが、中々男はいない。そういう時は、ホテルの前で煙草を吸うのがセオリーで、目が合った男を手招きし、こちらに寄れば成功だ。だが、通りかかるのは、欲のない乾ききった目をしたサラリーマンだけだった。大方、この道が一番の近道だったのだろう。そういうのは『好み』じゃない。そんなことを考えながら、吸い終わった煙草をパンプスの裏で踏み潰した。

 今日は駄目な日なのかもしれない。ホテル街に着いてから、かれこれ三十分が経過している。ホテルたちの隙間から青空を見上げ、煙草の煙を吐き出して、私は思案する。煙草の残りも少ないことだ、もう諦めて帰ってしまうのが早いかもしれない。けれど、この久しぶりの外出がなんの結果ももたらさないということに、私は肩を落としていた。

 『もう少し、他の場所で』と考えて、ふっ、と、歩き出したその時だった。視線を背後から感じる。それは、いつも私が男に投げかけているような、ねっとりとした視線だ。

 嬉嬉として振り返ってみれば、そこには女がいた。美しい顔の女だ。一目見て、素直にそう思う。すっ、とした切れ長の涼しい目元、高く真っ直ぐ通った鼻筋、唇はふっくらと厚めで、シャープな顎のライン。黒く長く美しい艶やかな髪。髪をかけている耳でさえ、整った形をしている。すらりとした肢体に身に纏う服は黒のジーンズにスニーカー、白のロゴティーシャツとこのホテル街にはそぐわないラフなスタイルだが、それが逆に彼女という存在を際立たせているような気がする。

 彼女は言葉を発さず踵を返して歩き出すが、それが誘いであると私は判断した。どんどん歩いていくと、奥まった暗い路地裏に入り、ようやく足を止めて振り向いた。ざぁっ、と風が吹く音が耳に心地よい。

「着いてきたってことは、わかってるんでしょ?」

 鈴が転がるような音色の声で、女はそう言った。私はそっ、と頷く。

「女でもイケるタイプなの?」

「女は、はじめてね」喉が少し乾いていて、ざらついた声が出た。

「じゃ、教えてあげる。 着いてきて」

 彼女は軽く笑って、まるでそれが当たり前であるかのように私の手を取って歩き出した。彼女の手はさらりとしていて、細く、長く、美しい。爪の形ひとつとっても美しい形をしているのだから、いちいち驚いていたらキリがない。私は彼女の行動全てを受け容れることにした。それがたとえ、私を殺そうとしていたとしても、男に輪姦されるとしても、なんであろうと私にはどうでもいいことだった。ただ流れに身を任せて生きてきた私への罰なんだと、そう思うだろう。


 結果的に言えば、彼女とのセックスは素晴らしいものだった。シャワーを浴びることもせず、汗をかいたまま事に及んだ。啄むようなキスを繰り返し、彼女は微笑んで、私の耳や、首や、胸や、女性器を愛撫した。その美しい指先に触れられた箇所は熱を帯び、少しの刺激を徐々に与えられ、焦らされ、私はしめった吐息を漏らす。背筋がぞわぞわと粟立ち、絶頂に達した瞬間、どの男とのセックスよりも素晴らしいものだと確信する。それほどに彼女の指先は巧みに動いたし、手馴れていた。


 そして事後、彼女も煙草を吸った。気だるい肢体をうつ伏せに寝転ばせながら、ベッドの真ん中へ置いた灰皿に灰を落とす。白いシーツの上に灰が落ちて、シーツは灰色になった。彼女の煙草を吸う横顔は儚げで、しかし圧倒的存在感に満ちている。ふっくらとした唇が煙草を挟んでいるのが生々しく感ぜられて、私はそっと目を逸らした。

「気持ちよかった?」

 ストレートに聞く彼女に、私は素直に答えた。

 煙を吐き出す。「ええ、とても」

「でも、女とはしたことないんでしょ? 」

 彼女が私を見ている視線を感じながら、けれど私はそれを無視して煙草を吸い続ける。目を合わせてしまえば、本当に彼女の虜になってしまいそうだった。

「そうね」

 私は手短にそう言って、火を消した。消しきれていなかったのか、彼女は私の煙草を持ち直し、灰皿にもう一度押し付ける。

 スプリングの効いたベッドから降り、下着を身につけた。

「名前、教えて」

 彼女は言った。名前を言ったところでどうなるというのだろう。職を失い、男を失い、彼女のような美貌と肢体も持ち合わせてはおらず、私には何も残っていないというのに。

「知ったところで、意味は無いわ」

「じゃ、ウソの名前でいいから」

 面白がっている雰囲気が伝わってくる。私はその間も着実に服を身に付けていく。彼女は動かないつもりなのだろうか、仰向けに寝転んで顔をこちらに向けているのが目の端に映った。

「…涼子」

「リョウコ」

「涼しいに、子供の子」

 子供が言葉を覚えるように、彼女は私の名前を繰り返す。それは仮の名前ではなかった。私の名前。涼子、とまた繰り返した彼女は微笑む。

「私の名前はアリサ。 有限の有に、沙はさんずいに少ないってかくの」

「……有沙」

 有沙、彼女の名前は有沙。その名前が仮の名前なのか、本名であるのかは分からない。

「涼子、もういっかい」

 彼女は強請った。その魅力に抗う術を、私は生憎、持ち合わせてはいない。

 もう一度服を脱ぎ捨てることに煩わしさは感じず、それどころか、さらに私を興奮させる要素にしかならなかった。


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