そして冬へ

笑子

第一話

 銀の灰皿に煙草を押し付ける。火種が飛び散って、また吸殻がひとつ増えた。昨日捨てたばかりの灰皿の中身は、いつの間にか山盛りになっていた。私の心も少し重くなって、もうそろそろ、身体が持ちそうにない。乾ききった目の中に映るのは、山盛りになった吸殻と服とゴミが散乱した暗い部屋だけだ。

 馬鹿みたいだ。死にたい死にたい死にたい。思うだけで実行には決して移さない。この部屋の床にこびり付いたコーヒーの跡のように、乾いて、汚れきっている私。自己嫌悪と自己顕示欲の塊の醜い私。首を吊ろうと思って買ってきたロープも、もう、どこにいってしまったのか分からない。

 何もしたくなかった。唯一出来ることは、眠ることと食べることと自慰行為だけだった。睡眠欲も食欲も性欲も、私の意志とは関係なく生まれるもので、私はそれに従うしかないし、抗う術をもっていない。食べた物は私の身体に吸い込まれていく。眠れば身体の疲れは多少なりとも癒される。自慰をすれば、心地よい快楽が与えられる。馬鹿みたいにそれを繰り返すだけの日々。

 鏡を見ると、ふやけた顔が浮かぶ。しみの浮いた顔。私は泣いた。泣いた顔すら醜かった。掻きむしり、ボロボロになった顔の皮が剥がれ落ちる。もう午後三時を回るところだというのに、朝から何も飲まず食わずだったことを思い出した。ろくに声の出ない喉を自らの手で絞めた。手に力が入らない。与えられるのは死でなく、心地よい浮遊感だった。緩まる手の力に、ああまた死ねなかったと絶望する。それでも涙は枯れていた。

 煙草に火をつける。銀の灰皿に押し付ける。何度同じことをしても死ねないことへの絶望、否、死ぬことが出来ない自分への失望で叫びたくなる。

 自嘲的な笑みが思わず漏れた。


「死にたい」


 呟いても何も変わらない。薬物を摂取することも考えた。けれど、薬物依存に陥った人のことを馬鹿だと言った彼の言葉が忘れられなくて、やめた。

 彼ならば私をすくい上げてくれただろうか。金魚すくいのポイで、私を、汚れた水に溺れる私を。

 からからと笑った。彼はもういない。私の元を去った彼。この部屋にもう、彼の痕跡はない。あるとするならば、この埋もれた灰皿と煙草だった。

 なぜ煙草を吸うのか、ベランダでそれを吸う彼に聞いたことがある。彼は曖昧に笑って何も答えることは無かったけれど、彼の煙草を吸うようになって、少し、分かった気がした。今更、理解出来た気がしたのだ。何もかも遅いというのに。曖昧に笑う彼の眦の皺を思い出す。あの皺を、私は愛していた。

 頭をぼりぼりと掻けば尋常ではない量のフケが落ちる。ベッドの布団はいつから干していないのか、シーツはいつから洗っていないのか、よく分からないが、汚れていることは確かだ。洗濯機を回したのもいつか覚えていない、冷蔵庫の中身を入れ替えたのもいつか覚えていない。辛うじて、二日前にコンビニで買った、ありがちな安い弁当を食べたことは覚えていた。

 水だけでいつまで生きていられるのだろう。そんなことを考えながら、くらりと頭が揺れた。視界は白く塗り潰されて、でも気づかないふりをした。案の定小指をどこかにぶつけたらしく、鈍い痛みが走る。じわじわと痛む足に我慢出来なくなって、その場にしゃがみ込んだ。

 きゃっきゃ、と、外で子供が遊んでいる声がする。ベランダに出て、外の景色を眺めた記憶が、溢れ出た。子供が欲しいなんてことも、何度も言いあった。幸せな家庭を築く、ただそれだけを目標に、必死に働いた。

 その頃の私は、仕事も家事も、自分のことも、勿論彼のことも愛していた。そのすべてが幸福で、素晴らしく、祝福されているとすら思えた。

 ぼたぼたとまた溢れ落ちる涙は穢れている。自分の涙ですっ転んで、ちんけなサスペンスドラマみたいに、机の角に頭を打って死んでしまえたらいいのに。そんな馬鹿なことを考えてそこに蹲るばかりで、何をすることも出来なかった。ただ無気力で、何をしたくもなくて、でも何かしたくて、ただ泣いて、煙草を吸う日々を送る。煙草の残りは十本だった。

 こんな哀れな女を、愛してくれる人など誰もいない。自分すら、自分を愛せない。他人を愛する気力は、もう、私には無かった。死ねない私を愛してくれる人は、どこにもいなかった。

 父も母も死に、親戚すらもいない天涯孤独の女が、汚い床に蹲ってぼたぼたと涙を零す。醜い光景だ。とても。よたよたとベランダに近づけば近づくほど、キーンとした耳鳴りと共に子供の声が近くなる。ここは五階だというのに、耳障りなほど子供の声というのはどこまでも遠く飛ぶ。希望に満ちているというふうに、遠く飛ぶ。

 カーテンの隙間から射し込む日差しが、今日は晴れだということを示していた。今日は一体何月何日なのだろう。あの日から何日が経ったのか、わからない。前にテレビをつけた時は、もうすぐ春だと言っていたような記憶がある。

 ガラ、と窓と網戸を開け、裸足のままベランダに立った。ざらつく感覚が足の裏を覆う。真っ直ぐに顔を上げると日差しが目に痛い。子供の声はもっと近くなる。

 青空とは、こんなにも広く、青いものだっただろうか。雲というのは、あんなにも早く動くものだっただろうか。日差しというのは、こんなにも眩しく目に痛く、涙を滲ませるものだっただろうか。そのどれもが、自分の記憶とは違った。

 ここから飛び降りれば、子供たちの目の前で、頭はスイカのように割れ、汁が飛び出し、グチャグチャになってしまうのだろうなぁ。

 ぼー、と考える頭の中に、辛うじて理性はあった。私はまだ人間をやめていなかった。その事に自ら驚いた。哲学には詳しくない。けれど、理性を失った人間は人間ではない、というのは分かっていた。私はまだ人間だった。

 子供はどこかへ行ってしまった。あのキンキンと頭に響く声が、私の頭を冷やしたのかもしれない。爽やかに吹く風を背にベランダをあとにして、私は服を脱いだ。よれたティーシャツも、下着も、すべて脱ぎ去った。

 三日ぶりの風呂は身体に染みる。汚れが洗い流されていく感覚、それを感じながら、私の心は汚れたままだと思い知る。暑いシャワーの湯が私の身体を滑り落ちてゆく。すべて湯に溶けてしまえばいい。身体も心も、なにもかも。少しだけ零れた涙は排水口に流されていった。

 髪を乾かし、下着をつけ、服を着る。ストッキングを履いて、紺色のワンピースを着て、白いカーディガンを羽織った。肌が荒れてしまっているから、ファンデーションは塗れない。眉を描き、少しでも血色をよく見せる為にピンクのチークと口紅をつける。アイシャドウもピンク系統の色のものを瞼にのせて、目尻だけに茶色のペンシルでアイラインを引く。まつ毛を上げ、マスカラをまつ毛の根元からたっぷりと塗れば、私の完成だ。

 財布と口紅、ハンカチとポケットティッシュ、充電の切れたスマートフォンの代わりに内容のほとんど覚えていない読みかけの小説を鞄に詰めて、ワンピースと同じ紺色の、ヒールが低いパンプスを履いた。

 汚れた部屋を一瞥して、私は一歩を踏み出した。ガチャン、と鍵を閉めたそのドアを振り返ることはしなかった。


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