吐きだされたもの

切子

吐きだされたもの

 男は焦っていた。急ブレーキで駐めた車を運転席のドアも閉めずに降り、だだっ広い自宅の庭を全速力で走って横切り、息せき切って玄関の扉へ駆け寄る。もどかしく鍵を差し入れ、それを蹴るように勢いよく押し開け、彼女の名を叫んだ。

 その声は、悲痛な祈りのように、しんとした無人の室内に響いた。


 男は隣町の小さなスーパーまで、週に一度の食料と生活用品の買い出しに出ていたところだった。仕事はネットを通じて自宅でできるが、田舎暮らしの自分に買い物を届けてくれるネットスーパーはない。どんなに手際よく済ませても買い出しには車で往復一時間はかかる。

 自宅を離れている間じゅう、男はスマートフォンが鳴らないかずっと気にしている。メールやめったにない電話を待っているのではない。自宅のデスクに置いたもう一台の端末からの通知が来ないかと怯えているのだ。この日、初めて他とは別に設定した通知音が鳴った。聞くなり男は会計もそこそこに買い物中のスーパーを飛び出し、はやる気持ちで自宅へ戻った。

 その通知は、スマートタグが端末から離れたことを知らせるものだった。GPS機能のついた小さなプラスチック製のタグで、本来の用途は鍵や財布などに取り付けて貴重品の紛失に備えることにある。3センチ角ほどの小さな薄い正方形のタグは、「貴重品」と一緒だった。それが自宅を離れたのだ。おそらく己の意志で。


 「貴重品」は、生き物だった。人間ではないが、人間の形をしている。そして掌に載るほど小さい。小人、妖精、コロボックル、そういった名前で呼ばれる架空の生き物のことを男は本で調べてみたが、どれにあたるのかは判然としなかった。

 彼女はある日、唐突に男の前に現れた。庭先の郵便受けの上にちょこんと座って、じっとこちらを見ているのと目が合った。男は夢を見ているのか、それとも頭がおかしくなったのかと思った。彼女は腰までの長さの金色の髪を風になびかせ、深い緑色のワンピースのような服を身につけて、足は裸足だった。顔と体つきはの10代の人間の少女くらいに見える。足音を忍ばせてゆっくり近づいても、彼女は消えも逃げもしなかった。触れられるものかどうかそっと手を近づけると、動きに応えるように顔のそばでかわいらしく手を振った。

 その日以来、男は少女らしい外見のその小さい人とあちこちで顔を合わせるようになった。庭に咲く雑草の花に囲まれて、あるいは日なたに駐車した車のボンネットに寝そべって、あるいは小鳥のように木の小枝にちょんと腰かけて。彼女は男に気づくと黙って手を振って挨拶してくる。男はそれを目にするたびに、驚き、それから温かい気持ちになった。夜になると裏山のフクロウの鳴き声くらいしか聞こえるもののない寂しいこの家で、男はそれまでずっと孤独だったからだ。


 やがて彼女は気まぐれに、男の自宅の中にも姿を現すようになった。古い建て付けの悪い家のどこかに隙間があるのか、それともどうやってか鍵を開けて入ってくるのか。キッチンの笛吹ケトルの取っ手の上に、風呂場の蛇口の下に、男が仕事に使うパソコンのディスプレイの上に。生活に入り込んできて、何をするでもなく去っていく彼女の姿が、男の中に邪な好奇心を芽生えさせるのにそう時間はかからなかった。

 男はある日、台所から持ってきて用意しておいた金属製のザルを、いつものように現れた彼女の上にそっと被せた。それで捕まえられるかどうかは、男にも半信半疑だった。不思議な力か何かで煙のように抜け出すか、ぱっと消え失せてしまうんじゃないか、と思っていた。でも違った。彼女はきょとんとした表情で動かずにいたあと、はっと気づいて立ち上がり、ザルの目に触れた。それを拳で叩いて、出して、と目で訴えた。男は彼女の言うとおりにすることができなかった。出してやったら最後、彼女が二度と自分の前に現れないことが分かっていたから。


 男はハムスター用のケージをオンライン通販で注文し、中に彼女のために居心地のいい部屋をしつらえてやった。ふかふかのベッド、小さなテーブルと椅子、かわいらしい花柄のカーテンを選んで注文した。ミニチュアのそういった小物がちゃんと売られているのだ。

 彼女が逃げないか心配でずっと家を離れられなかった男が最後に注文したのが、スマートタグだった。それをアクセサリー用の金具と鎖で彼女に繋いだ。タグは彼女には大きかったので、小さな肩掛けかばんを縫ってそれに入れて持たせた。

 彼女はそうして自分のために用意された小さな部屋の中で、泣いてばかりで過ごした。はじめは非常に早口な聞いたこともない言葉で、小さな金属の鈴を鳴らすような高い声で懸命に何かを訴えたが、無駄だと分かると黙って塞ぎ込んだ。男は後ろめたさを覚えながら、ケージの扉にいくつも取り付けた鍵を確かめてから外出した。そして帰宅すると、彼女がいなくなっていないことを確認して安堵した。男は、人形のために作られた小さな色とりどりのドレスをいくつも買ってプレゼントした。彼女はそのうちの一着、フリルのついたピンク色のものを選んで身につけた。彼女の金色の髪によく似合っていたので、男は喜んだ。彼女は、用意するどんな食べ物も受けつけず、みるみる痩せていった。男は、彼女が食べられるものがないか探して、食料を買い出しに行かざるを得なかった。それでも何を試しても、彼女は首を横にふるばかりだった。

 やがて男のスマートフォンが通知を鳴らす日が来た。


 男はまず、彼女のケージを確認しに行った。扉の鍵はかけっぱなしだったが、中に彼女はいなかった。ケージのワイヤーがわずかに歪み、金具との継ぎ目にピンク色の糸くずが引っかかっているのが目に入った。痩せた彼女ならきっと通ることができたのだろう。

 次に男は、最後にタグの位置を知らせた通知を確認した。それは家の裏にある松林のほうだった。下草のほとんどない、赤茶けた枯れた葉が積もった明るい松の林で、足を踏み入れるとその針のように尖った葉が折れてさせるささやかな音が立った。十分ほど、獣道を外れて斜面を登ったのが、その最後の通知があった場所だった。周囲には何もなかった。ただ風が吹き抜け、ざわざわと松の葉ずれが聞こえるばかりだ。男は暗くなるまで彼女を探し、それでも見つけることができずに途方に暮れた。次の日も、その次の日も男は彼女を探し回った。石の下を覗いたり、木の幹を見上げたりしてみた。そしてようやく、地面の上にぽつんと落ちているそれを見つけた。

 ペリットと呼ばれる、フクロウの吐き戻しだった。肉食の鳥であるフクロウは、食べた動物の骨や皮など、消化できないものを塊にして口から出すのだ。それまで何度か見かけたことのあったそれに、今日は見たことのない人工的な色合いが混ざっていた。鮮やかなピンク。彼女のドレスの色だ。

 男は掌に載る大きさのその塊を丁寧に拾い上げ、自宅に持ち帰った。そしてめったに使わない平皿と割り箸を出してきて、端からそれをほぐしてみた。まず判別できるのは、見覚えのあるピンク色の布の切れ端だった。ちぎれてぼろぼろに裂けている。それから、金色の長い髪の束。真ん中あたりから、プラスチックのタグも割れて出てきた。それ以外のペリットの大部分は、様々な大きさといろいろな形の、おびただしい小動物の骨、骨、骨が占めていた。男はその塊をいじくりまわすのをやめた。そして静かに泣きはじめた。


 だが嘆く男は気づかない。皿の上にほぐして置かれたペリットの中に、あるはずのものがないことに。衣服、毛髪、おびただしい骨片の中に、人のものを指でつまめる大きさにそのまま小さくした頭蓋骨は見当たらない。ネズミのものらしい、門歯の目立つ細長い顎骨がいくつかあるだけだ。そしてスマートタグと彼女の手首を繋ぐ華奢な金鎖が固定されていた腕輪も、ちぎれていて見当たらない。だが男は気づかない。

 ホウホウホウ、とフクロウが遠くの松の梢で鳴く。それに続いて鈴を鳴らすようなかすかな笑い声が響いたが、それも男にはもう聞こえなかった。

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