ペルセウスの夜

@mk1005

1話目

木立の間から差し込む、わずかな月明りを頼りに暗い森を駆ける。

聞こえるのは自分の足音と、荒くなった息づかいだけ。

立ち止まってはいけない、私は逃げつづける。

あの時もそうだったように、私は逃げることしかできないのだろうか。


私とあなたの間にあったのは、たった数歩の距離。

その数歩が、運命を別けた。

先を行くあなたが振り返り上げた警告の声は、次の瞬間には断末魔の悲鳴へと変わった。

音も無く近づいていたそれは、悲鳴もろともあなたを呑み込んだ。

私にできたことは、その場から逃げ出すこと。

何も考えられなかった。

ただ体が、本能が告げていた『逃げろと』。

バネ仕掛けの玩具のように、私は駆けだしていた。

友人である、あなたを助けようともせずに。

私は逃げ出したのだ。

「いったい何ができたというんだ」

走れ、走れ、駆けつづけろ。

「あれには、かなわない」

振り返るな、全力で逃げろ。

「きみもわかってるだろう、逃げるより仕方がなかったんだ」

言い訳、言い訳に過ぎない。

私は卑怯者だ、友人を見捨てて逃げた卑怯者だ。

振り返ったあなたの顔が、脳裏に浮かび責め苛む。

恐怖に慄き、見開かれた黒い瞳が私を見つめる。

「あぁ、私も一緒に死んであげればよかったのだ」

卑怯者は、見捨てた友人の良心に付け入り縋りつく。

あなたは優しいから、きっと私を許してくれるだろう。

本当に、あなたは優しかった。いつも私を気にかけてくれた。

だからあの時も、振り返ったのだ。

私を逃がすために。

それからずっと、私は逃げつづけている。

死んでしまうことは容易い、立ち止まってしまえばいいのだ。

友人の最後の行為を、無駄には出来ないから。

卑怯者の戯言に聞こえるだろうが、私は逃げつづけなくてはいけない。


下草か何かに足を取られて、地面に叩きつけられるように転ぶ。

心臓がはためき、呼吸は引き攣り笑いのように乱れていた。

限界だった、もうこのまま立ち上がらずに何もかも諦めてしまいたい衝動にかられる。

私だけの命だったのなら、とっくに投げ出していただろう。

嘘、卑怯者の方便だ。

私は卑怯者だから逃げるのだ、臆病な卑怯者だからこそ逃げられるのだ。

あれが見ているはずだ、暗闇の中を土にまみれて無様に逃げ惑う私を。

すぐ近くから、こちらを窺っている。

その恐怖が、私を突き動かす。

体を捻るように横に転がり四肢に力をこめ、すぐ脇の茂みに逃げ込む。

茂みから這い出ると、立ち木にもたれ掛かりなんとか身を起こす。

痛む足を引きずり、歩を進める。

木立を縫うように抜けると、前方が明るく感じられた。

明かりに勇気づけられ、力を振り絞って前へ進む。

そこは木々がまばらで、森の中にぽっかりと空いた広場のような場所だった。

私は広場の中ほどへ、よろよろと進み出るとその場で座り込んだ。

もうお終いなのだ、よくここまで逃げてこられた。

引き攣れたような呼吸は、嘲るような嗤いに変わっていた

疲労と痛みで朦朧とした意識の中、私は最後の瞬間を待った。

祈りはしなかった、確信していたからだ。

残酷な現実というものを。

背後に気配が膨れ、大気が揺らめく。

その瞬間、私は振り返ることなく、足元にある小さな穴へ崩れるように身を投げた。

追うようにシューシューと響く威嚇音が聞こえ、大地を穿つような衝撃。

それにつづいて、大地を打ち据えもがき這いずり回るような振動が起こった。

恐怖と苦痛による、死の舞踏。

あぁ、死とはなんて容易いんだろう。

穴の中から外を窺うと、一匹の蛇がその頭を梟に踏み拉かれていた。

不思議と高揚感は無かった。

友人の敵を討てたというのに、私はどこか冷え冷えとしたものを感じていた。

もしあの瞬間に振り向いていたら、蛇の末路は私の運命だったかもしれないのだ。

蛇の必死の抵抗も、梟は意に介せず。超然とあたりを睥睨していたが、ふと此方へ目を留めた。その大きな瞳は、私が企てた奸計も弱さも全てを見抜いているように感じられた。

小ねずみ一匹なぞ、腹の足しにもならないと思ったのか。私を一瞥すると、梟は羽を広げ大地を蹴って飛び立った。

鉤爪に蛇を捉え、月の明かりを受け白く輝く翼で飛翔する姿は、私にペルセウスの神話を思い起こさせた。神々の寵愛を受け、試練に打ち勝ち、王たる運命をもって生まれた英雄のことを。それに比べて、何と我が身の卑小なることか。

「まあそれでも、ねずみの身では上出来と言わなきゃ。肝心の所は他人任せだったにせよ、本懐は果たせたんだから」と私は呟くと穴の中へごそごそと這い入った。

それから、ほんの少しだけ涙を流し、あとは泥のような眠りに落ちた。

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