MOONSHOT

「試合、どんな展開?」

 ダッグアウトに入ると、姿見の前で素振りしていた伊東いとうさんが訊いてきた。

「万座にスリーラン打たれました。一対五です」

「おお、やばいな」

 ブンッ──

 伊東さんのバットが空気を引き裂く音を聞きながら、俺はエアロバイクに跨り全力で漕ぎ出した。心拍数を一気に稼いで身体を活性化させる。

「足はいいのか?」

「痛いなんて言ってられませんよ」

「そうか」

 素振りをやめた伊東さんはアンダーシャツを新しいものに着替えた。

 ブンッ──

 今度は若手の上山かみやまが姿見を占拠し素振りを始める。神宮球場のダッグアウトは他のプロ野球の開催球場のそれに比べて格段に狭い。姿見の前でフォームチェックが出来るのは、一度に一人だけだ。伝統があるのも良いけれど、そろそろ環境が良い新球場が欲しい。

「伊東、上山、そろそろ上がってきてくれ」

 西川さんがベンチの方から二人を呼んだ。

「はい、すぐ行きます」

 応えた伊東さんは俺の方を向き、

「暖めておくからな」

とニヤリと笑った。


 ブンッ──

 足の状態を慎重に見極めながら、軽くバットを振る。だめだ、バランスが悪い。

 痛みそのものは我慢できないほどではないが、無意識に庇っているのか、我ながら不格好なスイングだ。

「月岡、足を上げたらどうだ?」

 ベンチからダッグアウトに下りてきた西川さんが、スイングを見て助言をくれた。

 俺はタイミングを足で取るタイプのバッターだ。左右の足に交互に体重をかけ、そのリズムで対戦投手とのタイミングを合わせる。動作中に痛みを感じ、それが身体の強張りに繋がっているのだろう、という指摘だ。

 プロ入りする前、高校や大学時代の俺は元々足を上げて打っていた。プロ入り後、その打撃フォームではプロのピッチャーが投げる変化球に対応できず、摺り足に近いフォームに変えた経緯がある。

 ブンッ──

 足を上げたフォームでのスイングを試してみると、摺り足に比べて、痛みが強い。だが、それは踏み込む一瞬だけのことだ。スイングのバランスは悪くない。

「どうだ?」

「なんか懐かしいですね」

 ブンッ──

 ドルフィンズのクローザー、草津が投げるボールをイメージする。ノーワインドアップから放たれる百五十キロ超のストレート。

 監督は長岡さんと草津、二人の名前を挙げていたが、おそらく俺の出番は草津が相手になるだろう。俺は長岡さんからはあまりヒットを打っていない。逆に草津が相手ならそこそこの数字を残している。そのデータは監督も知っているはずだ。

 ストレートとフォークの二択、どちらも一級品の威力があるから厄介ではあるが、長岡さんの変幻自在のスライダーよりは選択肢が絞られる。とはいえ──

 ブンッ──

 不安はある、というより不安しかない。

 草津は間違いなく日本で一、二を争うクローザーだ。この足の状態で挑むのは無謀というものだ。俺はなす術もなく三振し、いい笑い者になるだろう。

 出番がないまま試合が終われば楽なのにな。そんな考えが脳裡をよぎる。

「スイングが小さくなってるぞ」

 誰かの声が聞こえた気がした。

 もっと強く──。俺はバットを振るい、目には見えない速球を打ち込んだ。


「よっしゃ、よっしゃ、よっしゃっしゃあ!」

 伊東さんが奇声を上げながらダッグアウトに戻ってきた。早足で自分のファーストミットを掴むと、再びベンチへ駆けていく。

「どうなった?」

 その背中へ西川さんが声をかけた。

「取り返しましたよ、三点。てか、西川さん。なんで見てくれてないんですか、僕の華麗なる流し打ちを」

 振り返ってそう言ったあと、伊東さんは軽やかな足取りで走り去った。そのまま守備に着くらしい。

「一点差か」

 西川さんは短く息を吐いて「よし」と気合いを入れ直し、ベンチへ戻っていった。

 四対五。まだまだ勝敗はどちらに転ぶか分からない。


 俺がベンチに戻ったのは八回が終了してからだった。

 あれからスコアは動いていない。七、八回、稲取さんがドルフィンズに走者を許さぬまま抑えると、向こうは予想通り七回を長岡さん、八回を萩さんが投げ、こちらも走者を出すことが出来なかった。

 九回の表、ドルフィンズの攻撃は六回に馬鹿でかいホームランをかっ飛ばした万座からだ。

 マウンドには神宮オウルズのクローザー、加賀かがが上がっている。普通クローザーは僅差で勝っている展開で投げるものだが、どうしても点を入れられたくはないという監督の采配だった。

 平行カウントからの三球目、スライダーを捉えた打球は右中間を深々と破り、万座は悠々と二塁に到達した。スタンディングダブル──。

「あいつ、ほんまに三本打ちよったぞ。ちょっとは遠慮せえ、って言うといてくれるか、先輩」

「あいつ、先輩の言うこと聞かないんですよ」

「頼りにならへん先輩やな」

 監督と西川さんがそんなやりとりをしているうちに、フォアボールと送りバントで一死二三塁のピンチを招いた。打順は七番の長門だ。

「埋めますか?」

 河原さんが監督に声をかけた。敬遠で歩かせて満塁にするかどうかの確認だ。満塁の方が走者二三塁より守りやすい。本塁で封殺を取れるし、併殺も狙える。

「いや、勝負や。ここは逃げたらあかん。それに、長門は今日当たってへん」


 バッテリーはスクイズを警戒して初球を大きく外した。二球目はキャッチャーが座ったまま外してツーボール。三球目はストレートをストライクゾーンに投げ込む。そこからボールをひとつ挟んでファールが三つ。フルカウントだ。

 加賀が投じた内角高めのストレートは長門のバットをへし折り、打球がふらふらとライト方向に上がった。十和田が前に走るが、追いつくか?

「間に合う! 飛び込め!」

 俺は叫んだ。十和田がグラブを突き出して跳躍する。

 ボールはグラブの先に触れたが、次の瞬間翻筋斗もんどり打った十和田とともに芝生の上を転がった。

 三塁ランナーの万座が本塁に生還し、二三塁間で様子を伺っていた二塁ランナーの輪島も三塁を回って本塁を目指した。

 素早く起き上がった十和田がボールを拾い、ステップを踏んでホームに送球する。

 十和田の送球はノーバウンドでキャッチャー堂ヶ島のミットに吸い込まれ、本塁に滑り込んだ輪島の侵入を阻んだ。アウトだ、ツーアウト──。

 次打者の和倉さんをキャッチャーフライに打ち取り、九回表が終わった。四対六。追加点を入れられたのは痛いが、流れはどちらに傾くかまだ分からない。

 俺は立ち上がり、グラウンドからベンチに戻ってくるチームメイト達を出迎えた。


──中京ドルフィンズ、ピッチャーの交代をお知らせいたします。

 九回裏に入り、スタジアムDJが告げる。いよいよ守護神のお出ましだ。

──ピッチャー、萩に代わりまして、草津。背番号二十二。

 恵まれた体格、鋭い眼光。今や日本一とも言われるクローザーが最終回のマウンドに上がった。

 投球練習を見つめる。草津の右腕から浮き上げるような速球がキャッチャーミットに叩き込まれていた。調子は良さそうだ。

「月岡、九番で代打や」

「はい」

 打撃用のレガースとエルボーガードを装着し、革手袋を嵌める。愛用のバットを握った俺は深く息を吐いた。


 うちの攻撃は七番、途中出場の伊東さんからだ。

「見せてもらおうか、華麗なる流し打ちとやらを」

「よっしゃあ! 任せてください」

 西川さんに尻を叩かれた伊東さんが威勢良くバッターボックスに向かう。

──ットライーック! バッラァアウッ!

 落ちるボールに伊東さんのバットが虚しく空を切り、球審が三振を告げる声が球場に響いた。

「あのフォーク、えげつないわ。相変わらず」

 ネクストバッターサークルに向かう途中で、戻ってくる伊東さんとすれ違った。

「どうすれば打てますかね?」

「三振した人間に訊くなよ。……ストレートだけ待って、フォークが来たらごめんなさい、しかないな」

 打てよベーブ・ルース、と俺の背中を叩いて伊東さんはベンチに帰っていく。

 球場がざわつき始めた。お客さんがネクストバッターサークルの俺の姿に気付いたらしい。

 打席では十和田が二球で簡単に追い込まれていた。吊り球をひとつ挟んで、最後は伊東さんと同様にフォークで空振り三振。ツーアウト。


──神宮オウルズ、バッターの交代をお知らせします。

 スタジアムDJの声に球場がしんと静まり返った。

──九番、加賀に代わりまして、月岡。バッターは、月岡。背番号五十一。

 球場が揺れた。ものすごい歓声だ。ほぼ満員の観客席が、まるでひとつの生き物のようにうねっているように見えた。

「ホームラン!」「ホームラン!」と悲鳴にも似た合唱が始まる。

 だが、俺は迷っていた。

 四対六、二点ビハインドの最終回、二死走者なし。

 チームの勝利のためなら、ここで求められるのは塁に出ることだ。確率の低いソロホームランを狙う場面じゃない。ヒットでもフォアボールでも、確実に出塁することを重視したバッティングに徹するべきなのではないか──。

「勝敗はこの際、考えんでええからな」

 審判に代打を告げた監督が、俺のところへやって来てそんなことを言った。心の中を読まれたのだろうか。どきりとさせられた。

「見ろ、この球場の盛り上がりを。みんなお前のホームラン見たがってんねん。勝ち負けなんか関係あらへん」

 ぐるりと観客席を見渡した。ここまでの大歓声を浴びたのは初めてのことだった。

 みんな、直也君に勇気を与えたがっている。そして、こんな俺が──大事な試合前の練習で怪我をするような間抜けな男が──ホームランを打つと信じてくれている。

 ぶるりと身体が震えた。

「プロ野球選手っちゅうのはな、月岡。勝ち負けなんか二の次や。なによりも美しくないとあかん。病気の子供のために打つ、美しいやないか。その美しさが、お客さんに感動を与えるんや」

 監督は帽子を脱いで、すっかり白くなった髪の毛を撫でた。

「おお。美しい言うたら、今日は中秋の名月やったな。あの綺麗なお月さんめがけて、かっ飛ばしたったらええねん」

 監督がライトスタンドの上空を指差した。煌々と輝く満月が、カクテル光線に照らされた球場を見守っている。

──迷いが晴れた。


 深呼吸をひとつして左打席に入り、足場をならす。左足で土を掘り、軸足の位置を決める。

 マウンドの草津と目が合った。ゆっくりとバットを構える。

 草津も投球モーションに入った。セットポジションから足が上がる。同時に俺も右足を上げ、タイミングを測った。狙うはストレート一本。

 キレのあるストレートが内角高めに投げ込まれた。俺はフルスイングで迎え撃つ。

 バットが空を切った。ワンストライク。スタンドのどよめきが聞こえた。

──差し込まれた。

 俺は歯嚙みした。振り遅れている。ボールが手元で伸びてくる。やはり草津の状態は良い。

 二球目は内角低め、膝元に迫るストレートだ。フルスイングで捉えると、打球は三塁側内野席に飛び込むファールとなった。観客席からどよめきと拍手が巻き起こる。ノーツー、追い込まれた形だ。

 まだだ。まだ振り遅れている。

 内角高めのストレートを見逃してワンボール、ツーストライク。セオリー通りの配球だ。となると、次は外角だろうか。フォークで落としてくることも考えられる。正直、フォークに手を出して打つ自信はない。伊東さんが言っていたように、来たらごめんなさい、だ。こうなる前に勝負をつけたかった。

 四球目、思った通り外角に投げてきた。しかしこれは──ホームベースの遥か手前でワンバウンドする。見逃してボール。フォークが抜けたのだろうが、草津には珍しい失投だ。しかし、五球目も同じように、中途半端なボールがホームベースの手前に落ちる。二球続けての失投。先ほど伊東さんや十和田から三振を奪った決め球とは完全に別物だ。

 なんにせよ、これでフルカウント、次が勝負だ。


「タイム」

 キャッチャーの和倉さんがタイムをかけ、マウンドに駆け寄った。

 普段からマウンドで感情を見せるタイプではないが、草津の様子はいつもと変わらないように見える。何事か話しているが、長めのタイムだ。球審がストップウォッチを手に、マウンドに近づいた。

 球審に促された和倉さんが、戻ってくるなり俺に声をかけてくる。

「月岡、手加減はしないぞ。だが、ストレート一本で勝負だ」

 俺は打席を外して和倉さんを見た。キャッチャーマスク越しの和倉さんから表情を読み取ることは出来なかった。和倉さんは三味線を弾くタイプではないし、マウンドの草津もそんな駆け引きを是とする人間ではない。

 この勝負に後味の良くないものを残したくはない──そういうことなのだろう。


 六球目は外角のストレートだった。速い──。

 かろうじてバットに当てた。三塁側ベンチへ打球が飛び込む。スピードガンの表示は百五十七キロ。草津とは何度も対戦したが、今までで一番速いストレートだ。

 七球目の内角球は、バックネットに刺さるファール。前に飛んだわけではないが、ようやくタイミングが合った。

 八球目の外角もバックネットに。タイミングは掴めたが、球威に押されている。

 俺は上げた右足をゆらゆらと揺らしながらタイミングを測った。プロ入りした当時の打撃フォームだ。プロの変化球についていけずに摺り足のフォームに変えて久しいが、自分自身が元々身につけていたフォームだ。痛めている右足はふわふわして変な感覚だったが、踏み込みに支障はなかった。

 草津は全力でストレートを投げ込む。俺は渾身の一振りで打ち砕こうとする。野球の原点とも言える真剣勝負に、俺たちはのめり込んでいた。

 原点──。そう、原点だ。

 懐かしい感覚だった。ピッチャーはただ全力でボールを投げ、バッターはひたすら遠くへ飛ばそうとバットを振るう。野球を始めた小学生の頃はこうだった。変化球も駆け引きもない、純然たる力勝負。

 この後の何球かはどんなボールだったか、どう打ち返したかはあまり記憶にない。無我夢中でバットを振っていた気がする。後でスコアブックを見返すと、ファールが九球続いていた。だから十四球目までファールが続き、決着がついたのは十五球目ということになる。

 草津の指先を離れたボールが胸元近くへ迫って来る。俺の身体は無意識にスイングに移った。

 キャッチャー側に大きく引いた右脚が前にスライドされ、踏み込むと同時に左脚を引き込んだ。腰がまず回転して胸椎との間に捻れが生まれ、そして一気に加速する。左脇を絞り、右肘は抜いて耳の高さ。

 ボールを打とうと考えたとき、すでに俺のバットはボールを捉えていた。そのままバットを放り投げるように振り抜くと、高く上がった打球がライトスタンド上空に浮かぶ満月を目指してぐんぐん伸びる。俺は軽くなったバットから手を離し、ゆっくりと走り出した。

 打球はオウルズファンがひしめく右翼外野席の最上段に辿り着き、再び夜空へと跳ねる。俺はそれをどこか他人事のように、夢見心地で見届けた。

 一塁手の万座が帽子を取ってお辞儀する。一塁を回る際に、握った拳を奴に向けて小さく突き出してやった。

「どんだけ飛ばすんですか」

 ファーストミットで口元を隠した万座の目元は笑っていた。

 右翼の外野席からはトランペットの勇壮なマーチ。俺の応援歌だ。


  夢を乗せて飛ばせ

  遥か彼方

  白球は月へ翔る

  月岡翔太


 二塁を回りながら、ボールが消えたスタンドを見つめる草津の様子を伺った。

 ロジンバッグを握る草津の表情は相変わらず読めなかったが、憮然としているようにも、安堵しているようにも見えた。

 プロ野球選手は美しくないとあかん──監督の言葉を反芻する。

 草津もプロ野球選手らしくあるために、ストレート一本での真っ向勝負に拘ったのだろう。不器用ではある、だがやはり美しいと思えた。

 俺は思う。この試合、打席に立てたのは直也君との約束があったからだ。

 弱気になった俺の背中を押してくれたのは、ファンの声援であり、それに気付かせてくれた監督だ。

 打撃投手の岩屋さんや、トレーナーの指宿さんなど、裏方に徹してくれる人たちの支えがある。

 そして草津が真っ向からの勝負を挑んでくれたおかげで、俺も純粋に勝負の世界に没頭できた。あの一瞬だけ、右足の痛み、直也君との約束、チームの勝敗、何もかもを忘れて、ただひたむきにバットを振ることができた。

 今日のホームランは俺の力だけで打てた訳じゃない。周りに支えてくれる人がいるから、人間は前に進める。力を発揮できる。


──なあ、直也君。俺は君の支えになれたかい?


 三塁を回り、本塁へ向かう。球場のボルテージは最高潮に達していた。

 観客席では、お客さんが総立ちになり、盛大な拍手を送ってくれている。一塁側のオウルズファンだけじゃない。三塁側のドルフィンズファンまでもが俺のホームランを讃えてくれていた。

 本塁を踏む。永かった俺の打席が終わった。

 ボールガールがやって来て、ぬいぐるみを手渡された。神宮オウルズのマスコットキャラクター、ふく郎の人形だ。

 病室まで届けと願いを込めて、俺はそれを観客席に投げ込んだ。

 夜空に舞ったぬいぐるみが、カクテル光線と満月の光に照らされた。

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月へ翔る @shibachu

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