PLAYBALL

 午後六時。いつもと違う雰囲気の中、試合が始まった。

 相手チームの攻撃を初回からベンチで眺めるというのは、久しぶりのことでなんとなく落ち着かない。

 先発投手の水上はボールが先行して球数が多くなったものの、なんとか三者凡退に切って取った。

「何球や?」

 監督が投手コーチの河原かわはらさんに球数を訊く。河原さんは投手陣が閻魔帳と呼ぶ手帳に目を落として答えた。

「二十二球です」

「あっそう、多いな。……今日は忙しなるでえ」

 監督は柏手をひとつ打つと、フッフッフと笑い声をあげる。

「おい、月岡よ」

 監督からいきなり名前を呼ばれた。「はい」と返事をすると、

「お前、何回くらいに自分の出番があると思う? 相手ピッチャーは誰や?」

と訊いてくる。

「それは、監督次第なんじゃないですか?」

 暫く考えても答えなんか出なかった。選択肢が多すぎる。試合の流れでどうとでもなるんじゃないだろうか。

「そんなわけあるか。逆算せえ」

 監督がそう言うので、もう一度考えてみた。

 考えているうちに、一番打者の宇佐美が三遊間を破るヒットで出塁する。ところが続く嬉野さんが低めのボールを引っ掛けてショートへの併殺打となった。

「四回か、五回くらいですか? バース相手に」

「ほほう。根拠はなんや?」

「そのへんで水上に打順が回ってきたところで代打かな、と」

「ほんじゃ、そこで出たとして何を打つ?」

「ツーシームです。一番投げてくる可能性が高いから」

 俺がそう答えると、監督はにやにやと笑い出した。

「ほほう。月岡さんはツーシームをホームランにしますか」

 監督は帽子を脱いで頭を掻いた。

「あのな、あいつのツーシームはバットの芯を外すための球やぞ。簡単にホームラン打ててたまるかい」

 俺は頷いた。室内練習場で岩屋さんを相手にゴロを量産していたことを思い出す。確かに芯で捉えるのが難しいボールだ。

「さっきの宇佐美と嬉野、見たか? どっちもゴロやったやろ。ホームラン打つんやったら、狙い球から外せ」

 その時、バットがボールを捉える音がした。グラウンドに目を遣ると、三番の城崎さんが打った強いゴロがセカンドのグラブに収まったところだった。一塁にボールが送られ、スリーアウトチェンジ。

「ほれ、思う壷やないか。あなたもああなりますよ」

 監督は肩をぐるぐると回してストレッチを始めた。

 俺は悔しそうにベンチに戻ってくる城崎さんを見た。インパクトの違和感が残っているのか、首を傾げて手首の返しを気にしている。

長岡ながおかか、草津くさつやな」

 監督がぼそりと呟いた。俺が振り返ると、

「あなたの出番の話ですよ。七、八、九回」

伸びをしながら監督は言った。さらにこうも続ける。

「今のうちから、イメージ固めとけ」


 長岡大輔だいすけ、草津康祐こうすけ。ともに中京ドルフィンズの屋台骨を支える救援投手だ。この二人に萩孝志はぎ たかしを加え、頭文字を取ってNHKという国民放送のようなあだ名が付いた勝利の方程式を形成している。

 長岡さんはとにかくコントロールが良く、特にスライダーの精度がえぐい。コースだけでなく、球速や縦横の変化まで自在に操る。

 草津は百五十キロを超えるホップ成分の高いストレートと、落差のあるフォークが武器のクローザーだ。他の球種を投げるのは一試合に一球あるかないか、二種類のボールだけで打者を牛耳る。

 どちらも一級品の救援投手だ。この二人に比べたら、先発のバースの方がよっぽど与し易いとさえ思える。

「あほう。点の入りやすさとホームランはまた別の話や。確かに、バースと比べたら二人とも遥かに手強いピッチャーや。四球は出さへん、三振は取る。でもな、フライ多いねん、あの二人」

 俺の意見を一刀両断した監督はさらに続ける。

「フライが多いっちゅうことはや、その分ホームランも出やすいっちゅうことやろ。特に草津なんかまともに当たったら飛ぶぞ」

 草津のホップするストレートは球速が速くスピン量も多い。まともに当たれば飛ぶのは確かだろう。それが至難の業なのだが。


 試合は四回を終えた。

 先発の水上は三回まで一人のランナーも許さなかったが、五十球以上を要した。四回に相手打線に捕まり、二点を失う。うちの打線はバースからちょこちょことヒットは打つが、決定打を欠いて無得点のままだ。四回も二死満塁のチャンスを作ったが、六番の高山がセカンドゴロに打ち取られている。

 二点を追って五回に入った。

 この回の水上はテンポ良く投げ、二つの三振を奪って三者凡退に抑えた。その裏、一死から十和田がセンター前ヒットで出塁する。次の打順は九番の水上だ。

 監督がベンチを出た。審判に代打を告げる。


──神宮オウルズ、選手の交代をお知らせいたします。

 観客席が静まり返った。固唾を呑んでスタジアムDJのコールを待っている。

──バッター、水上に代わりまして、東山ひがしやま。バッターは、東山。背番号三十一。

 落胆のため息がそこかしこから聞こえてくる。

「月岡あ! 出て来おい!」野次が耳に痛い。


「気にすんなよ」

 打席に向かう東山と一言二言やりとりをした後ベンチに戻ってきた監督は、そう言って俺の隣に腰掛けた。

「どや、足の具合は? ほんまに行けそうか?」

「はい。テーピングをガチガチに固めてもらってます」

 監督は「さよか」と言ったあとに、ため息をついた。

「さあさあ、頼みましたよ、みなさん」

 おどけた調子で言いながら、監督は盗塁のサインを送る。ツーワンからの四球目に十和田が盗塁を決め、一死二塁。東山はショート正面のゴロに倒れた。十和田は二塁に釘付けのままだ。

 打順がトップに還る。宇佐美が三球目をセンター前に弾き返した。二塁から十和田が一気に生還。ようやく一点を返した。

「ナイスバッティング、ナイスラン!」

 戻ってきた十和田とタッチを交わす。十和田は嬉しそうに笑った。普段は途中出場が多い十和田だが、久しぶりのスタメンで気持ちが乗っているようだ。動きがいい。

 次打者の嬉野さんはピッチャーゴロに倒れた。スリーアウトチェンジ。


 六回の表、代打の東山に代わってベテランの平山ひらやまさんがマウンドに上がった。ドルフィンズの打順は一番からの好打順だ。

 先頭の小浜にいきなり初球を打たれた。打球は平山さんの足元を抜け、センター前に転がっていく。二番の塩江がバントでランナーを進め、一死二塁で主軸に回った。

「嫌な流れやな」

 監督がぼそりと言った。

「ブルペン、どないなってる?」

 今度は河原さんに声をかける。

稲取いなとりに準備させていますが、まだ二球なので……」

 河原さんの答えに監督は眉をひそめた。

「手遅れにならんとええけどな」

 平山さんが三番の黒川に四球を与えると、監督は落ち着きなく身体を揺さぶった。しきりに「ううん」と唸っている。

 次のバッターは、リーグ本塁打王争いでトップの万座だ。四回の第二打席には先制のタイムリーヒットを打たれている。左バッターボックスに入った背番号二十五は、ゆっくりと足場を踏み固めて構えを取った。

 こいつ、雰囲気あるな。背中を見ながらそう思う。

 身長百九十センチの大柄な体格と、どっしりとした構えはバリー・ボンズを連想させた。両手を握り変えながらバットを揺らすタイミングの取り方も共通している。

 バッテリーは慎重に入った。外角低め、やや外れてボール。二球目は同じようなコースからストライクゾーンに入ってくるスライダー、いわゆるバックドアで見逃しのストライクを奪った。

 三球目のスライダーは内角低め、打者の足元めがけて落ちていく。見逃せばボールになっただろうが、万座のバットはこれに反応した。ゴルフのようなスイングで掬い上げると、打球はライトポールの上空を右に大きく逸れて場外へ消えた。その飛距離に観客席がどよめく。

「あっぶねえ」

 どよめいたのは観客席だけじゃない。一塁側ベンチではオウルズのチームメイトが一様に冷や汗をかき、胸を撫で下ろした。

 俺はというと、内心ですっかり感心していた。

 ストライクゾーンから外れたボールでも真芯で捉えるバットコントロールと、軸が全くぶれないスイングの完成度は同じ左打者としてお手本にしたいくらいだ。

「打ち取れるイメージが湧けへんわ」

「どこ来ても打ちそうな雰囲気ありますよね。監督が現役ならどうしますか?」

 ぼやく監督にそんな質問を投げかけてみた。

「ストライクは投げへんな。際どいとこのボールで勝負や。フォアボールになっても構へん」

 次のボールは内角高めの吊り球だった。万座はこれには反応せず、ツーボールツーストライクの平行カウントになる。

「じゃあ、いっそのこと敬遠しますか?」

 選択肢のひとつとして、それもありだと思った。しかし監督は気が乗らないのか、ううん、と呻き声を上げた。

「矛盾するようやけど、流れがなあ、ちょっと悪いわ。簡単に先頭を出して、一発で送られて。どっちも初球や。ほんでフォアボールやろ。ここでもう一遍フォアボール出したら、五点、六点一気にいかれてまう気がすんねん」

 五球目は外角低めへのチェンジアップだ。万座の右脚がすっと前に出た。上半身がくるりと回転する。鞭のようにバットがしなり、ぐしゃりとボールを叩いた。力感のない、それでいてとんでもなく速いスイング。完璧だ。そのシンプルさ、自然さに俺は目を奪われた。

 内角を二球続けた後の外角。ストレートとチェンジアップの緩急差。それらに全く惑わされず、充分に引きつけて放たれた打球は快音を残してセンターへ飛んだ。

 万座は大きくフォロースルーを取ったあとバットから手を離し、ゆっくりと一塁へ歩き出した。マウンドでは平山さんが打球を目で追うことなく項垂れている。

 センターを守る高山は打球を追って下がっていたが、やがて諦めて見送った。

 スコアボード下のコカ・コーラの看板に打球は直撃した。塁審の掲げた右手がくるくると回る。痛恨のスリーランホームラン──。


 隣の監督の顔を見ると、苦笑いをしていた。

「えっぐいな、あいつ。ようあそこまで飛ばすもんや」

「代えますか?」

 河原さんが監督に尋ねる。

「いや、この回は平山に任せるわ。ランナーおらんようになったから、切り替えられるやろ」

 そう言ったあと監督は深い溜息をついた。

「月岡よ」

「はい」

「そろそろ、準備に入れ」

「はい」

 俺は立ち上がり、バットを持ってベンチの裏へ下がった。

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