Lyric9:感じる痛みは自分だけ かなり最低の気分だね

 なぜ、モルフェが逃げたのか。

 ……誰もわからなかった。

 だって、その耳は――――ずっと隠していた耳は、ごく普通の耳だった。

 何の変哲もない、みんなと同じ形の耳。

 なぜ、それを隠していたのか。

 なぜ、それを恥じているのか。

 わからなかった。どうしても。

 わからなかったが、放っておくわけにもいかなかった。

 一同は手分けしてモルフェを探すことにした。

 アイラはパンジーと一緒に。無茶髭とルシオは単独で。

 モルフェが逃げ出す速度は相当に素早いもので、あっという間に見えなくなってしまったから、どこにいったのかまったく見当もつかない。

 が、それでもモルフェは目立つ女性だ。

 碧の瞳の、金髪の麗人。

 昨日のライブでその名が知れていることもあり、人づてに聞けばその足取りを追うのはそう難しいことではなかった。


 そして――――その手の作業が一番得意な人間が真っ先にモルフェを見つけるのが、当然の流れなわけで。


「……よ、今日のヒーロー。インタビューは受け付けてるかい?」

「…………ルシオ……」


 路地裏で、耳を抑えて縮こまるモルフェに声をかけながら、ルシオは苦笑した。

 まるで肉食獣に怯える小動物のようだ。

 小動物と呼ぶには背は高すぎたし、凛とし過ぎていたけども――――いや、今は凛とした雰囲気は失われているのだが。

 ルシオは眼鏡を軽く押し上げたあと、くるりと背を向ける。


「見ない見ない。見られたくないらしいし。ジャケットぐらいしかねーけど、かぶっとくか?」

「……すまない。その」

「いーっていーって。事情は誰にでもあるさ」

「……………………ああ」


 背中越しに投げ渡されたジャケットを頭にかぶり、モルフェはぎゅっとその裾を握りしめた。


「……それでも、謝らせてくれ。急にあんな……驚いただろう? 少し、混乱してな……本当に……」

「………………そーだな。マジで驚いたぜ? つーか心配した。いきなりだったもんなぁ」

「…………すまない」

「“ごめんなさい”よか“ありがとう”の方が好みかな」

「……………………………………すまない」

「こりゃ重傷だな……」


 ゆっくりと、ルシオが振り返る。

 モルフェは僅かに身を強張らせ、そっと目を伏せた。

 何かから身を守るように、うずくまって。

 本当に、先ほどの大立ち回りが嘘のようだ。

 何に怯えているのか。何を恥じているのか。

 踏み荒らすつもりはない。

 人にはそれぞれ事情があって、触れてほしくない部分というものがある。

 ルシオはそれを理解していたし、だからこれまでモルフェの経歴について尋ねはしなかった。


 ……けれど。

 聞くべき時というものも、ある。


 困ったように頬をかき、つられてか視線を横に逸らしつつ――――彼は、口を開く。


「――――――――最初はさ。エルフなんじゃねぇかって思ってたんだよ」


 エルフ。

 文明を嫌い、深き森に集落を作るという種族。

 滅多なことでは人里には降りてこないが、時折なんらかの事情で森を離れることがある。

 彼らは古き伝統を尊び、太古の精霊とより深く結びつく秘術を操るという。

 多くは絹のように美しい金の髪を持ち、エメラルドよりも透き通る緑の瞳を持ち、すらりと伸びた長い手足を持ち――――そして、尖った長耳を持つのだと、文献には伝わっている。

 それらの全てが、モルフェの特徴と一致していた。

 金髪、碧眼、長身、隠された耳。

 加えて先ほど見せた、舞踏による魔術。

 あれは人の世ではとうに失伝した、原始の精霊魔術なのかもしれない。

 そしてなにより、彼女は酷く世間を知らなかった。

 その全てが、彼女がエルフであるとすれば説明がついた。


 ついた、のだが――――彼女の耳は、長くはなかった。

 長耳はエルフの特徴の中で最も有名なものだ。

 曰く、彼らは耳の形の美しさが一種のステータスとなっているほどだという。


「でもまぁ、その耳だったからさ。違うのかなとも思ったけども」


 ではやはり、彼女はエルフではないのだろうか。

 その耳が示すように、ただのヒュームなのだろうか。


 ……いいや。

 いいや、いいや。

 そんなはずはない。

 そんなはずは、ないのだ。


 だって、それなら隠す必要がない。

 ヒュームと同じ耳を、恥ずべきものとする必要がない。

 彼女の耳は短くて、それこそが彼女が耳を隠す理由だとしたら?

 ……そう考えるのが自然だった。

 彼女がヒュームではないからこそ、その短い耳を隠すのだと。


「……さっきアイラに聞いちまったよ。呪い、受けてるんだってな」


 その呪いを解くために、旅をしているのだと。

 それと関係しているのでは、と。

 アイラはそう言っていた。彼女もどこかで、感付いていたようではあったけど。




「お前――――――――――――、だったんだな」




 僅かに、更に縮こまることが彼女の返答であり、肯定だった。


 ……なら、ヒュームのフリをして堂々としていればいいじゃないか。

 などと、無責任に言うことがどうしてできよう?

 お前の耳は恥ずかしくないから隠す必要は無いなんて、どの口で言えようか?


 勇者イトーが伝えた異界の創世神話に曰く。

 神が作り出した最初の人類は邪悪な蛇にそそのかされ、知恵が宿る禁断の果実を口にした。

 それによって知恵を手にしたその夫婦は、己が全裸体であることに気付いてしまった。

 大いに恥を覚えた彼らは葉を用いて己の体を隠し、そのことで創造主に罪が露見したのだと言う。

 今まで、全裸であることを恥に思うことなど無かったのに。

 全裸であることを、誰も咎めることなど無かったのに。恥だと糾弾することも無かったのに。

 裸体を隠さなければ、罪がバレることも無かったかもしれないのに。

 それでも、己自身がどうしようもなく恥ずかしくって、裸体を隠してしまったのだと、異界の神話は伝えている。


 それと同じことだ。何が違おうか。

 エルフの美の誇りであるという、長い耳――――それを奪われ、衆目に晒す恥はどれほどか?

 それを笑うヒュームはいまい。

 ただ、己自身が恥じてしまうのだ。

 例えばドワーフである無茶髭が何らかの原因で髭を失っても、同じことになるだろう。

 髭の無いドワーフを笑うヒュームはいないが、ドワーフである己自身が髭の無い自分を許せない。

 それは当然の感覚で、どうしようもない感覚だ。

 咄嗟に逃げ出してしまったモルフェを責めることなど、ルシオにはできなかった。

 そして、も。

 ルシオがヒュームで、モルフェがエルフである限りは。

 その痛みがわかるなどと、どの口で言えようか。

 ルシオはエルフではなくて、だから彼女の痛みはわからない。


「……笑うか。耳の無いエルフなど、と」

「笑わねーよ」

「笑うか。無い恥を恥じる狂人だ、と」

「笑わねぇ」

「笑えばいい! お前たちにとってはなんのこともないことを、勝手に恐れている愚か者だと!」

「俺は笑わない」

「っ、なぜ……っ!」


 モルフェは吼えた。

 ルシオは視線を彼女に合わせた。

 真っすぐ。正面から。


「友達だ」


 答えは、簡潔に。


「……とも、だち……?」

「俺はそう思ってる。多分、アイラとムッさんも。お前のことを仲間マイメンだって思ってるよ」

「…………つい昨日、会ったばかりの女をか」

「一緒にライブした。楽しかった。十分過ぎるって、俺は思うけどね。俺らはお前のことが好きなんだよ。お前はどうか知らねーけど……」


 半ば呆然とするモルフェと、ルシオの視線が交差した。

 白ぶちの眼鏡の奥の瞳は、真摯な情熱をたたえていた。


「俺にはお前の痛みはわからない。……でも、仲間マイメンが痛みを抱えてるのは。それを笑うほど落ちぶれた覚えもないさ」


 彼女の痛みは、わからない。

 けれど、痛みを抱えていることはわかる。

 ……ルシオもそうだ。

 アイラもそうで、無茶髭もそうだ。

 大なり小なり、誰もが“痛み”を抱えている。

 だから大したことはない、なんて言うつもりはない。

 痛みを勝手に陳腐にすることなんて、誰にもできやしない。

 でも、痛みに寄り添うことはできる。

 痛みを分かち合うことができる。痛みをさらけ出して、分かり合うことができる。

 互いに痛みを抱えているからこそ、その痛みを尊重できる。

 それが仲間マイメンだ。とっくにそうなのだ。


「なぁモルフェ。お前の演奏はマジに最高ドープだったし、ムッさんの創作紋章グラフィティを守ってくれたことにも感謝してる。ありがとうって言いたくてお前を探してた。お前はムッさんの心を守ってくれたんだ。そんな奴を笑えるか?」


 あの時、モルフェの怒りが――――ルシオには嬉しかった。

 無辜への暴虐に。そして、無茶髭の職人としての誇りを踏みにじることに。

 モルフェは怒って、刃を抜いたのだ。抜いてくれたのだ。

 それが嬉しかった。

 彼女の優しさを、心で感じることができた。


「押し付けるつもりはねーんだけどさ。もし……もし良かったらだぜ?」


 ルシオは歩み寄った。

 そして、手を伸ばした。

 蹲る彼女に、笑いかけながら。


「俺らと一緒に来ないか。お前と一緒に旅がしたいんだ、モルフェマイメン


 呆然と、モルフェはそれを見上げた。

 奇しくも、それは昨晩アイラが持ち掛けたのと同じ話で。

 数拍。

 ぽかん、と。

 しかし、複雑に感情を揺り動かしながら。

 数拍、その手をまじまじと見て……噴き出すように、破顔した。


「ひどいな。笑うことないだろ?」

「ぷ、くく、はは……いや、ふふ、すまない。ただ……くく、なんだ。あんまりにも――――」


 肩を揺らして、口元に手を当てて。

 くつくつと、目じりの涙を拭いながら。


「あんまりにも、真っすぐなものだったから……はは、なんだ、そうか」


 モルフェは、差し出された手を取った。

 しっかりとその手を握って、手を引いて、立ち上がった。

 遠くに、アイラたちの姿が見えた。

 おーい、なんて手を振って駆け寄ってくる姿が見えた。

 ルシオがそちらに視線をやって、手を振り返す。

 もう大丈夫だ、なんて伝えるように。

 それを見ながら、モルフェは穏やかに微笑んで。


「……悪くないな。友達というものは」

「――――だろ? 俺もそう思うよ」


 眼鏡の奥から、流し目にウィンクがひとつ返された。




   ◆   ◆   ◆




 モルフェ――――桜の氏族、ソームナスの子モルフェオネイラは、誰からも将来を期待された女だった。

 族長の娘。才気ある麗人。

 気高く、美しく、気品があり、精霊に親しみ、剣舞の腕で並ぶ者はいない。

 次の族長は彼女だと、誰もが認めていた。

 彼女自身、そうあるために研鑽を重ねた。

 期待に応えるだけの力を。

 伴う嫉妬や憎悪に抗うだけの力を。

 族長の座を狙う者は多く、それらを全て実力によってねじ伏せてきた。

 苦とは思わなかった。当然の努力だと思っていた。努力とすら思わなかった。

 偉大な族長である父に恥じない娘であるために、桜の氏族に相応しい存在であるために。

 そのために必要な能力を、己の力で手に入れてきた。

 モルフェオネイラは、誰からも将来を期待された女だった。


 ――――――――だが、後れを取った。

 禁忌とされる、悪なる精霊との契約。

 己が命を代価に据えた、闇の呪術。

 千を超える時を刻むエルフの命を削る魔術ともなれば、その威力はどれほどの物か。 

 千を超える時を犠牲にするほどの憎悪ともなれば、その悪意はどれほどのものか。

 族長の座を狙う同族によって、彼女は呪いを受けた。


 命を奪う魔術?

 いいや違う。

 精神を隷属させる魔術?

 いいや違う。


 それはただ、相手の耳を短くするだけの魔術。


 その者がモルフェオネイラに与えたのは、望んだのは、屈辱であった。

 耳の短いエルフを族長と仰ぐことなど、どうしてできようか。

 才気に満ちた族長の娘は、僅か一晩で恥ずべき醜女しこめと化した。

 解呪はできなかった。それほどに強力な呪いだった。

 耳みじかの呪い。

 笑わせる。笑われた。笑うことしかできなかった。

 こんなことで――――こんなことで、彼女の人生は奪われたのだ。

 父は娘を腫物はれもののように扱い、友人たちは……友人と思っていた者たちは関わりを避けるようになった。

 次期族長の夫の座を狙って色目を使ってきた男たちは、彼女を嘲笑うようになった。

 彼女に期待する者は、もう誰もいなかった。

 気高く、美しく、気品があり、精霊に親しみ、剣舞の腕で並ぶ者はいないのに――――ただ、ということだけで。


 彼女は絶望した。

 全てに絶望した。何もかもがガラガラと崩れ去った。

 己が誇りとしていたものなど、ただのこれだけで失われてしまう空虚なものだったのだと突き付けられた。


 こうしてモルフェオネイラは逃げるように里を抜け、呪いを解く方法を探す旅に出た。

 そんなものがあるのかもわからない。

 だが、残る悠久の時をこの恥を抱えたまま生きるだなんてことは、絶対に嫌だった。

 モルフェオネイラの……モルフェの、巡礼の旅の始まりだった。



「――――――――と、こんなところか。私についての話は」


 ひと通り己の過去について語ったモルフェは、己の耳――――パンジーが拾って持ってきてくれた耳当てを抑え、自嘲気味に笑った。

 彼女が抱える、痛みの物語だった。


「リュートは儀礼のために必要で覚えたものだ。剣舞もそうだな。我々は氏族間の争いを、舞踏の美しさを競うことで決着をつける伝統がある。元は実際に切り結んでいたそうだが、数千年を生きるエルフの命を無暗に散らすものではないからな……そういう意味では、お前たちの韻文決闘フリースタイルラップバトルにも似るか。我々のものは、演舞決闘ブレイクダンスバトルと呼ぶが……」


 そこで彼女ははたを顔を上げ、ぐるりと視線を一巡させる。

 視線の先では、アイラたちが複雑に沈痛な表情を浮かべていた。パンジーは泣いていた。


「ど、どうした? 何か変なことでも言ってしまっただろうか……」

「いや……アンタも大変だったのね」

「う゛ぅ゛……モルフェお姉ちゃん、大丈夫だよ……! 私たち、お姉ちゃんの味方だからね……!」

「……はは。うん、ありがとう」


 泣き腫らすパンジーを撫でてあやしながら、薄く微笑む。

 安い同情、とは思わなかった。

 痛みに寄り添ってくれている。

 そのことが嬉しくて、心強かった。


「ともかく、私の話はこんなところだ。迷惑をかけてすまなかったな」

「いや、いいさ。気にすんな。色々と納得もいったよ」

「ガッハッハ! 俺っちの方は、何度礼を言っても足りねぇぐらいだけどな!」

「ふふ……それこそ気にするな。私は……正しいと思ったことをしただけさ」

「だからこそ、だぜ。ガハハ! ありがとうよ!」

「ちなみにエルフとドワーフは仲悪いって聞くけど、そこんとこどうなの?」

「老人どもはどうか知らんがな。若い世代はそうでもない……というか、基本的に会わないので嫌いようがない」

「俺っちたちもそんなもんかねぇ。エルフが森から出なくなって、もう随分経つってぇ話だしよ」

「へー……え、ていうかモルフェっていくつ? やっぱ17歳じゃないんでしょ?」

「17!? 17はちょっと無理あるだろ!」

「う、うるさい! ヒュームの年齢感覚などわかるか! ……317だ。まだまだ小娘だよ」

「さんびゃくじゅうなな」

「エルフすげーな……ま、いいや。さて!」


 わいのわいのと話しながら、パンと手を叩いたのはルシオだった。

 全員の視線が彼に向く。

 それを見て満足げに頷いてから、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 アイラは、愉快そうに呆れるフリをした。

 無茶髭はガラガラと笑いながら酒を呷った。

 パンジーは不思議そうにルシオを見上げ、モルフェは薄く微笑んだ。


「やっぱりよ。あのボンボンに文句つけてやらねーと納得いかねーわ。あの領主サマのせいで不幸になってる奴が、この街には多すぎる」


 囲む視線が、シリアスな色を滲ませる。

 重税。圧政。汚職。

 あの領主のせいで、何人の領民が泣いているのだろう。

 領民を守るべき領主でありながら、己の快楽のために。

 父と母を奪われた少女の視線が、僅かに下がった。


「……でも、領主様に逆らう人は……」


 その頭を、ルシオがくしゃっと撫でまわす。


「なぁに、俺たちはラッパーさ。言いたいことは韻文決闘フリースタイルラップバトルで言えばいい」

「いいじゃない。で、どんな難癖つけて決闘挑むワケ?」

「バーカ、取り合ってくれるもんかよ。門前払いされておしまいだろ。常識で考えろ」

「は?」

「まぁまぁ……とはいえ策はあるのだろう。どうするつもりだ?」

「もちろん! ま、あれさ……」


 ルシオは眼鏡を中指で押し上げ、ニィと不敵に笑って見せた。




「――――――――俺にいい考えがある、っつってね」



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