Lyric8:抜刀 葛藤 いざ覚悟
モルフェの抜いた直刀――――仕込み刀故に短く、短剣に近いものではあったが――――その刃が、陽光をぎらりと照り返した。
「あんだとテメェ……?」
「ナマ言ってんじゃあねぇぞアマ……」
ごろつきがすごむ。
モルフェはもう、語らなかった。
右足を引き、腰を落とした。低く。獰猛に。獣のように。舞踏のように。
右の踵は浮いたまま。左の足は優しく大地を踏んで。
右の手には刃を握り。左の手は開いたままに顔の前。
金槌を投げた悪漢がナイフを抜いた。
棍棒を担いだ悪漢が威圧的に胸を反らす。
笑わせる。笑わせるな。今更遅い。
もう過ぎ去っている。とっくのとうだ。
悪態をついて怒鳴り散らして、それでどうにかなる時は、もう。
モルフェは刃を抜いた。
そのことを本当に理解しているのは、用心棒らしき軽装の剣士だけのようだった。
後ろに控えていたその男だけは、注意深くモルフェを観察しながら剣を抜いていた。
ルシオたちが固唾を飲んで見守っている。
手出し無用――――モルフェの背は、そう告げていた。
「ブッ殺してやるッ!」
ナイフを持った悪漢が大きく踏み込んだ。
ぎらり。金属の輝き。殺意と害意に塗れたそれ。
大振りに、袈裟に斬りかかる。
それを――――かわす。
滑るように。
大きく右に踏み出し、左足を引く。
直刀を合わせ、受け流す。金属が衝突する音。それだけだ。
「このッ!」
怒り任せの追撃。横薙ぎの一閃。
それを――――やはり、かわす。
潜るように。
今度は左に踏み出して、右足を引いた。
引いた足の踵が浮いている。
履いたサンダルのつま先が地面に弧を描く。
身を捻る。左手を地につける。描かれた弧が浮き上がる。
螺旋の軌道が頭を超える。足は高く、頭は低く。
踊る竜のように。あるいは駿馬のように。
三度目の攻撃が来るより早く、弧の軌道を描いた回し蹴りが悪漢の側頭部を強かに打ちつけた。
蛙が潰れたような悲鳴。
悪漢が横薙ぎに転がっていく。
起きては来なかった。意識を失っていた。
踊り手は再び上体を持ち上げて、左右にステップを踏んだ。
「こ、こいつ、よくも兄弟をォォォォーーーーッ!!!」
棍棒を持ったもう一人の悪漢が慌てて飛び込んでくる。
掬い上げるような下段。
落とした腰の、下げた頭を打ち抜くためのフルスイング。
当たればモルフェの頭蓋など果実のようにあっさりと砕け散るだろう。
パンジーは思わず目を
けれど、背ける必要は無かった。
あろうことか――――モルフェはその場で側転して見せた。
棍棒がぶおんと宙を切る。同時に持ち上がった足が悪漢の顎を掠めた。
慌てて棍棒がもう一撃。今度はくるりと宙返り。
ふざけた身軽さだ。戦っている最中にくるくると、無駄が多すぎる。
悪漢はそう苛立った。
けれどわかっていた。無駄では無いのだ。
回転は同時に、遠心力を伴った蹴りとして油断なく襲い来る。
攻防一体。金の
幾度棍棒を振るおうと、彼女は全てをするりとすり抜ける。
三度、四度、大振りに隙を晒した拍子に、モルフェは攻撃に転じた。
回し蹴りが来る――――――――慌てて防御の姿勢を取る。
棍棒を引き戻し、腕を添え、衝撃に備える。
そして、体を捻りながらの回し蹴りが――――滑らかに悪漢の眼前を通り過ぎ、次の瞬間には直刀で手の甲が斬り裂かれていた。
「うぎゃっ、う、腕が……!」
フェイント。
思わず棍棒を取り落とす。激痛。呻き。
そんな場合ではない。理解はあまりに遅すぎた。
マズい。慌てて意識を現実に引き戻せば――――いない。
どこに?
下に。
這うように低く。支点は手。
開いた右脚を担ぐように繰り出せば、その一撃は悪漢の
苦悶と共に、男がどうと倒れ伏す。
それを確認すると同時、モルフェは反動をつけて跳ね起きた。
「ほーう……いや、見事なもんだな」
ゆらりと、戦いを眺めていた用心棒の男がようやく歩を進める。
用心棒の癖に、高みの見物を決め込んでいたのだ。
自然体で剣を担ぎ、しかし油断なくモルフェを見る。
「踊りのようにも見えるが、確かに武術でもある。面白いな。どこで習った?」
「……答える必要はない」
「ツレないねぇ。あんたも雑魚相手じゃノらないだろ? 楽な仕事と聞いてついてくりゃあ、中々どうして……」
くつくつと、愉快そうに。
あるいはその武勇を称賛するように。
モルフェは眉をひそめた。睨みつけた。
「…………貴様は部外者だろう。今退くなら、追いはせん」
「おいおい冗談だろ! 流石に俺も金貰ってるしな。見物してた分、せめて依頼主の仇ぐらいは取ってやんねぇと」
「なら、いい。……こい」
言葉短く。
刃を握る手が、蠱惑的に揺らめいた。
ニィ。笑う。男が笑う。
「ヘッ――――――――行くぜッ!」
ダンと踏み込み、鋭い横薙ぎ。
潜ってかわす。同時に突き出す直刀を、半身を引いて紙一重。
直後に男が肘鉄を繰り出し、モルフェはまた逆側に掻い潜る。
一進一退。踊るよう。
地を這うようなモルフェの足払いを、トンと後ろに跳んでかわされる。
用心棒の男もまた、
両者、距離を取る。
遠間に立ち、時折気勢を発する。いざ踏み込むかと、思わせぶりに。
えいと叫んで男が踏み込みかければ、ステップを刻むモルフェが僅かに下がる。
ぐんとモルフェが姿勢を落としかければ、構える男も僅かに姿勢を落とす。
互い、機を計る。
一拍一瞬、僅かな気の逸りが命取り。
油断ならぬ使い手と、互いが互いに見定めている。
男の剣技は鋭利であり、モルフェの剣技は華麗であった。
そして――――再度踏み込む。先手は男。
突き込み、と見せての変化の斬り上げ。
手首を捻り、蛇にも似て自在に動きを変える片手剣の技。
読んだか、見切ったか、モルフェはくるりと蜻蛉を切った。
宙返り。
追うように袈裟。
それもまた、宙返り。
縋るように逆袈裟。
三度回転、宙返り。
僅かに剣閃がモルフェの頬を掠めた。
「どうしたぁッ! 曲芸見てんじゃないんだぜェッ!!」
吠える。
とん、と着地したモルフェは、そのまま這う蜘蛛のように姿勢を落とし――――ここで初めて、ニィと笑った。
ぞ。
男の背。奔る。怖気。
それから、光。
どこから?
足元。
モルフェの。描かれている。魔法陣?
「――――『大気よ、詠えッ!』」
短い詠唱。
次の瞬間、男の肉体を衝撃が打ち据える。
魔術。空気を固めて弾丸の如く飛ばすもの。
だが、いつ――――あの短い『
……違う。
「ああ、そうか――――」
崩れ落ちる男を見据えながら、モルフェは構えを取った。
構え? いいや、それは構えを解く構え。
腕を胸の前で重ね、斜に構えて見下すように。
戦いが、舞が終わったことを示す所作。
薄れゆく意識の中で、彼は理解した。
あの一連の剣戟が、舞が――――剣舞そのものが、精霊に語り掛ける詠唱であったのだと。
まさしく、剣魔一体の秘儀。
なるほどこれは勝てぬものだと納得し、男は意識を手放した。
◆ ◆ ◆
「お゛ね゛え゛ち゛ゃ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ん゛」
顔を真っ赤に泣き腫らしながら、いのいちに駆け付けたのはパンジーだった。
心配したのだ。怖かったのだ。
その柔肌がいつ凶刃にかかるかと、本当に本当に心配だったのだ。
飛び出して、思い切り抱き着く。
「おっと……す、すまん。泣くなパンジー」
「だって、だってぇ……! モルフェお姉ちゃん、すごく心配して、私……!」
「す、すまん。だ、だがほら、ちゃんと勝っただろう?」
「うぇぇ……ひぐ、ひっぐ……私、すごく、心配したんだからぁ……!」
「お、おお……ル、ルシオ、助けてくれ。私にはどうもできん」
「俺かよっ! まぁいいけど……おーよしよし、泣くなパンジー。怖かったなー。もう大丈夫だからなー」
「うぅ、お姉ちゃんのばかぁ……!」
ルシオが屈んで頭を撫で、どうにかあやす。
……あるいは。
父と重ねたのだろうか。
領主に異を唱え、そのまま帰ってこなかったという父に。
モルフェもまた、父と同じように帰ってこないのではないかと。
そう、思ったのだろうか。
こんな純朴な少女が、そんな心配をしていたのだろうか。
まだ成人もしていない少女が、そんな痛みを抱えているのだろうか。
静かに、誰にも聞こえないように、ルシオは奥歯を噛みしめた。
やるせなさと、怒りを込めて。
「嬢ちゃん……ありがとよ。俺の家を……守ってくれて」
「おう。それから……俺っちの
それから、家の主人と無茶髭。
嬉しそうに、どこか気恥ずかしそうに、礼を告げる。
「い、いや……つい、カッとなってな。少々軽率だったか……」
「なぁに、ありがてぇことよ! こいつら、領主に賄賂握らせて幅利かせててな……衛兵は頼れねぇし、困ってたんだ」
「……そこまで腐ってんのか、領主様ってのは」
「…………元々、我儘なボンボンではあったんだがね。数年ぐらい前から、余計に酷くなった。噂じゃあ愛人に入れ込んで、遊び倒してるって話だが……」
「……マジに最悪ね、そいつ」
忌々しげにアイラが吐き捨てた。
この場の誰もが同じ気持ちだったろう。
領民をないがしろにし、悪徳を振り撒き、快楽を貪る領主など。
「けっ、どーせその愛人とやらもサキュバスなんじゃねぇかって――――あ、いや、すまねぇ。違うんだ嬢ちゃん。これは……」
「……ん。へーきよ。わかってる。気にしないでいいわ」
「…………すまねぇ」
……サキュバス。
男を誑かす毒婦を、サキュバスと呼ぶのは……残念だが、よくあることだ。
口さがないものはそう噂し、逆にサキュバスと見れば誰もが毒婦と罵倒する。
実際には、魅了を使えば――――否、魅了封印紋を刻んでいないことが明らかになれば、サキュバスなど即処刑だ。
そんなリスクを冒す者はそうおらず、市井を生きる多くのサキュバスは自主的に魅了を封印して正体を隠すか、魅了封印紋によってその力を封じたまま暮らしているのだが。
それでも、謂れなき迫害はあるものだ。
……あるいは、謂れはあるのかもしれないけれど。
「――――そういや、すげぇ剣術だったな! モルフェ、どこでそれ覚えたんだ?」
咄嗟にルシオが話題を逸らす。
努めて明るく、陽気な声色で。
「わ、私か? これはまぁ、故郷に伝わる技でな……」
「へぇ。嬢ちゃん、どこの出身なんだい?」
「出身地!? そ、それは……田舎だからな! 言ってもわからんだろう。うん。とにかくこう、東の方だ」
「…………そうね!」
あやしい。
……前から感じていたが、モルフェはどうも己の出自について隠すところがある。
それについて追及するつもりもさほどは無いのだが、根本的にモルフェは隠し事が下手すぎる。
旅の者の脛に傷があることなど容易に想像がつく話なので、別にいいのだが。
「剣術っつーか、武術だわな。蹴り技も使ってたしよ。ガハハ、大したもんだ!」
「魔法まで織り込んでな。俺もあんなの初めて見たわ。マジでスゲーよ」
「アンタ魔法の才能まであったのね。演奏も上手いし、多芸って感じ」
「あ、ああ……そ、そう褒めるな。気恥ずかしい」
「いやマジマジ。というか、そういやモルフェの――――――――」
「――――――――あれあれぇ? なんか転がってんじゃん。どしたの?」
――――遮るような、男の声。
視線が一斉に声の方へと向く。
金髪。整った顔。にたにたと不愉快な笑み。豪奢な衣装。煌びやかな装飾品。
傍らには、血のように赤いシニヨンの女。補佐官だろうか。カッチリした服装を押し上げるメリハリの利いた肢体。眼鏡の下から覗く美貌。
それから、無数の兵士たち。護衛か。物々しく。
苦々しげに主人が顔を顰め、パンジーがさっと顔を青くし、それでも素早く深々と頭を下げた。
……嫌でもわかる。
この男が、何者なのか。
アイラたちが向けた警戒の視線を遮るように、ルシオが一歩踏み出した。
「――――失礼。この街の、領主様であらせられる?」
「うん? そうだよ。僕がこの街の領主、アルフレッド・キーンカッシュさ」
「これはこれは。お目にかかれて光栄です。私はルシオ・ベドリバント……旅の身故に見苦しい格好をお見せしておりますが、平にご容赦を」
「ふーん。まぁどうでもいいけど」
慇懃にルシオが頭を下げれども、それに微塵の興味も示さず。
領主――――アルフレッドはキョロキョロと周辺を見渡し、アイラに視線を合わせた。
愉快げに、綻ぶ表情。
「お、いたいた。あのさぁ。なーんか僕の街にサキュバスが来てラップしてたって聞いたんだけど、それってキミらのこと?」
「……ええ。実は我々、ブリムエンを目指す旅の道程でして……音楽祭の向けての修練に、人が集まってしまったようで」
方便。
民のためにライブを行ったなどと堂々と宣告すれば、厄介なことにもなるか。
「へー。……ってゆーか、あれってほんとにサキュバスなの? なんか……貧相じゃない?」
「んなっ……!」
「その分、
「ほんとかなぁ。魅了封印紋刻んだだけのコスプレだったりしない? 顔はまぁまぁかわいいけど、ちょっと子供っぽすぎるでしょ。……ああ、それともキミ、そーいう趣味な感じ?」
「ははは、まさか……」
乱打される侮辱の数々に、思わずアイラが食ってかかりそうになる。
それをルシオが背中で制する。無茶髭とモルフェもどうにか抑える。
領主。憎むべき悪。
それでも――――今ここで事を荒立てれば、不利なのはこちらの方だ。
周辺を護衛する兵たちが、無機質にアイラたちを睨む。
そしてなおもじろじろと値踏みするようにアイラを観察する領主アルフレッドに、傍らの補佐官が耳打ちした。
「……ふふ。アルフレッド様……大方あれは、行き場を無くした落伍者を拾い上げたのでしょう。妖艶な美貌を誇るサキュバスと言えど、誰もがという訳にもいかないでしょうし……」
「そっかー。なんか領民たちに随分ウケたらしいし、どんな美人かと期待しちゃったから、ガッカリだなぁ」
「いやですわアルフレッド様。あまり目移りされてしまうと……私、妬けてしまいます」
「ええー? そもそもサキュバス見てみたいって言ったのエティちゃんだったじゃん? ……んでも大丈夫! エティちゃんよりカワイイ子なんてこの世にいやしないよ」
「あらあら、お戯れを……」
……二人は恋人同士のように身を寄せ合い、愛を囁いている。
あれが、噂の愛人か。
なるほど確かに、サキュバスと言われても信じられる妖艶さだ。
これだけの美貌、魅了の魔術など使わずとも好きなだけ男を誘惑できるだろう。
この場の誰もが、静かに彼らの交歓を見守っていた。
下手に口を出して不興を買うなど、まっぴらごめんだった。
「……うう……領主サマぁ……」
…………ただひとり、意識を取り戻したごろつきだけは――――今の状況が、わかっていないようだったが。
「こ、こいつらが、俺らの仕事を、邪魔してきやがったんですぅ……」
地べたを這い、縋るように。
領主はゴミを見るような目で一瞥すると、不快そうにため息をついた。
「ゆ、ゆるせねぇよぉ……領主サマぁ……こいつら、とっつかまえちまってくださいよぉ……」
「…………エティちゃん。こいつら、なに?」
「いわゆる地上げ屋ですね。どうも、この家を買い叩きたかったようです」
「りょ、領主サマぁ……俺ら、今まで領主サマと仲良くやらせてもらってきたじゃないですかぁ……助けて、くださいよぉ……領主サマぁ……」
「…………そーなの?」
「……いえ? 少なくとも公的記録において、アルフレッド様が彼らと交友があったいう記述はありません」
いっそゾッとするような、無機質な笑み。
ただひたすら領主に媚びるためだけに浮かべたような笑みで、補佐官エティは冷たくそう告げる。
「そ、そんな……! 俺ら、随分なカネを領主サマに……!」
「あ、そ。じゃあいいや。僕とエティちゃんのお話を邪魔した罰ね。お前ら、これどっかやっちゃって」
「はっ」
「い、いやだ! やめてくれ! これはなんかの間違いだ! ずっとカネを貢いできたじゃないですか! 待って! そんな! 俺らは……!」
領主の命に従い、傍らに控える兵の何人かが悪漢を担いでどこかへと運んでいく。
……どこへ、だろうか。
少なくとも――――二度と、彼が領主の権力を笠に着ることはできないのだろう。
もう。二度と。決して。
「うるさいなぁ。あ、そこで転がってるのもよろしくね。また同じ流れになるの面倒だし」
「流石アルフレッド様! 慧眼ですわ」
「でしょー? 惚れ直しちゃった?」
「ええ、それはもう。ふふ、私ったらはしたない……安い女と、軽蔑いたしますか?」
「はは、そんなわけないでしょ? 僕はエティちゃんの全部が好きさ……」
「アルフレッド様……」
そして、何事も無かったかのように二人は再び
結果的に言えば、主人は今後地上げに悩まされることは無いのだろう。
助かった、と言える。
助けてもらった、と言える。
……けれど、感謝の気持ちは微塵も湧かなかった。
これは領民を想っての慈悲ではない。
ただ単純に、不快な木っ端を散らしただけだ。
それがたまたま、結果的に領民を救っただけだ。
感謝などできようはずもない。
この領主は徹頭徹尾――――己のことしか、考えていないのだ。
「さて……で。えーっと、ルシオくんだっけ?」
「……はい。我が名をお留め置きくださり、光栄です」
「はいはい。じゃあ僕、帰るから。練習もいいけど、あんまり領民騒がせないでね。よろしく頼むよ」
「ええ、かしこまりました」
ペコリとルシオが深く頭を下げ、アイラたちも不承不承それに倣う。
アルフレッドはそれを興味なさげに見渡したあと、護衛の兵に合図して踵を返した。
ぞろぞろと兵を引き連れて、その背が遠くへ去っていく。
やがて足音も聞こえなくなったところで――――ぷはぁ、と一同は息を吐いた。
「はぁ~~~~~~~~ッ!!!
「いきなり領主がこんなとこ来るかフツー!? あ゛ービックリした!」
アイラが消えた背中に中指を立て、ルシオがホッと胸を撫でおろす。
「……あれが領主か。想像以上に、と言うべきか……」
「…………クソみてぇな男だろ。口応えすれば……どうなったもんか」
「………………うん。誰も、何も言えないんだ」
「愛人に入れ込んでるっつーの、ありゃマジだな。よくもまーあんな歯の浮くよーな台詞が吐けるもんだぜ。ルシオお前、アレと同じのやれるか?」
「やれますよ? やらねーけど。本物だぜアレ。性根もひっくるめてね」
あれが、トライオトの領主。
アルフレッド・キーンカッシュ。民を苦しめる者。
街から幸福と安寧を奪い、パンジーの父を奪い、悪徳を貪る者。
……怒りを通り越して、寒気すら感じるほどだ。
己の快楽しか頭にない、ひどく醜悪な存在だ。
嘆息しながら、モルフェは己の耳元に手をやり――――耳に、触れた。
「――――――――うん?」
耳に触れている。
耳当てに、ではない。
直に、己の耳に。
おかしい。
耳当ては?
咄嗟に周囲を見渡す。
モルフェの様子に周囲が訝しむ。
視線が捉えた。
耳当て。革張りの。
落ちている。いつ?
頬を伝って零れる一滴の血。
用心棒に頬を切られた。その時?
それからずっと、自分は耳を晒していた?
「あ、あ――――――――――――」
さっと血の気が引いていく。
世界が暗転する。臓腑が煮え立つ。
モルフェは両耳を抑えた。
己の――――――――なんの変哲もない、ごく普通の耳を、隠すために。
「お、おい、どうした?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「ちょ、ちょっと? 別にアンタの耳、変じゃないわよ? だからスルーしてたわけだし……」
心配そうに、ルシオたちがモルフェを囲んだ。
右を見る。ルシオ。無茶髭
前。パンジー。アイラ。
左。主人。
後ろ。誰もいない。
「み、見るな――――――――」
モルフェは咄嗟に、両耳を抑えながら後ろへと駆け出した。
駆け出して、逃げ出した。
「私の耳を、見ないでくれ――――――――――――!!!」
ごく普通の、みんなと同じ耳を必死に隠して――――恐怖と恥辱に叫びながら、逃げ出した。
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